坂口安吾『白痴』解説|肉体と本能のなかに、失った魂を呼び戻す

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本作品のメッセージと感想

失われゆく伊沢の魂が、素直な白痴の心に呼び戻される

戦争による絶望のためか、道徳のかけらもない乱れた人間関係、まさに虚無と絶望のなかに人々はある。文化映画会社という職場では伊沢の志す芸術などあるはずもなく社長から部長、社員にいたるまで空虚な自我のなか、嘘の事実をニュースとして映像化する。

人心が荒廃した地域社会や職場。

そこに強い反感を抱く伊沢の正義感や芸術性だが、それも生活苦から僅か二百円の給料の呪縛の中で、我慢せねばならない屈辱感を味わう。

そんな中、女を本能的に求める伊沢に好意をもって訪れてきた白痴の女との奇妙な関係。

安吾は、白痴を理性を持たぬ魂の昏睡状態としています。これは会社や生活に対して理性でしか物事を解釈できず、絶望している伊沢と対比されています。

伊沢は白痴の女の素直な肉体の真実を感じている、そしてこの女と暮らしながら、生きる情熱や魂を失った伊沢は、早く戦争による命の終りが来ることを期待する。

「偉大なる破壊」の戦火から「堕落」のなかに人間性を復活する

以下は、堕落論の一節である。

私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾におののきながら、狂暴な破壊にはげしく亢奮こうふんしていたが、それにもかかわらず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。

引用:坂口安吾 堕落論

戦争という「偉大なる破壊」に身を任せて何もかもを失ってしまうことを期待し、楽しい気持ちになってゆく虚無感。

戦火の中、人間の体はバラバラに吹っ飛び、爆撃を受け焼き鳥のように死んでいく。

理性を持たない肉の塊である白痴の女も死んで土にかえり、理性を振り回す伊沢自身もまた同じように死んで土に返る。

その時を待つと同時に、だからこそ人間を愛し懐かしく感じる。

やがて伊沢の住む街にも爆撃がはじまり、周囲が火の海と化す。ふたつの道、伊沢はサイコロを振るように一方を選ぶ、それは他の人々とは違う二人だけの進路だった。

「俺の肩にすがりついてくるがいい、わかったね」と伊沢は言う。凄まじい戦火の中、二人だけが理性よりも本能という直角で生き残る。

伊沢はこの極限の中に白痴の人間性を感じ、そのことに自分も誇りを感じる。虚無のなかにあった伊沢が、このとき芸術にも似た感動を自らの行為で生んだのである。

何とか生き延びた二人、明日の光がそそげば、ねぐらを探し「卑小な生活」に再び身を置き、生きて行かねばならない。

人間は堕落する。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。人は堕ちる道を墜ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。

引用:坂口安吾 堕落論

堕ちるところまで、堕ちよ!と安吾は薦める。

しかし人間は最後まで堕ちることはできない。落ち切ったと考えるどこかで、人間は自己を再発見し立ち直ろうとする。

そのことによってしか、人間の再生はないとしている。

空襲下に肉体と本能だけの切なく哀しい魂の絶対の孤独を表現。堕落のなかのみに真の人間性の復活を探す。

伊沢と白痴の女の関係を通じて、『堕落論』の「生きよ、墜ちよ」の有名な一節を小説化し、究極のなかで人間が掴む生への回復の姿を描く作品です。

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坂口安吾『堕落論』解説|生きよ堕ちよ、正しくまっしぐらに!
坂口安吾『続堕落論』解説|無頼とは、自己の荒野を生きること。
坂口安吾『文学のふるさと』解説|絶対の孤独を、生き抜くために。
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坂口安吾『特攻隊に捧ぐ』解説|殉国の情熱と、至情に散る尊厳。

作品の背景

坂口安吾は戦後すぐに、エッセイ『堕落論』と小説『白痴』の二作で流行作家となります。人間の本性、そして時代の不安と狂気を捉えた代表作がこの『白痴』です。空襲下に肉体と本能だけの切なく哀しい魂の絶対の孤独を表現。堕落のなかのみに真の人間性の復活を探す。

主人公と白痴の女の愛欲の関係を通じて、『堕落論』の「生きよ、墜ちよ」の一節が有名ですが、まさにこの究極のなかで人間が掴む生への回復の姿を描く作品です。

坂口安吾『堕落論』解説|生きよ堕ちよ、正しくまっしぐらに!
坂口安吾のエッセイ『堕落論』。歴史のなかに日本人の本質を紐解き、披瀝しながら、ひとりひとり自らが真理を追究する態度を求める。戦争に負けたから堕ちるのではない。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。正しく堕ちることでのみ、人間は救い得るとする。
坂口安吾『続堕落論』解説|無頼とは、自己の荒野を生きること。
『堕落論』から8か月後に発表される。大きな反響をえた前作を受け、再び天皇と日本人の精神性に対する考えを展開する。戦時中の道徳や戦陣訓、そして戦後の荒廃に対する安吾の視点は深い。安吾の文学論とも繋がる堕落について『続堕落論』を解説する。

当時の安吾は国策会社でもある日本映画社の嘱託で物語と同じような空襲を経験しています。この偉大な破壊を愛し、運命に従順な人間の姿を奇妙に美しく感じ、運命はあったが堕落はなかった。それに比べて敗戦の表情こそが堕落で、その堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだと『堕落論』の中で綴っています。

発表時期

1946年(昭和21年) 6月1日、雑誌『新潮』6月号に掲載される。坂口安吾は当時39歳。戦前から戦後にかけて活躍した作家で、太宰治と並ぶ無頼派とされる。このころ太宰はすでに人気作家でしたが、坂口安吾はまだ雌伏の時でした。戦後、雑誌『新潮』から小説の依頼を受けますが締め切り日までに間に合わず先行してエッセイ『堕落論』が4月号に発表されます。そして小説『白痴』が発表され大きな反響を呼び、一躍時代の寵児となります。安吾文学は、神経症的な不安と狂気を描くことが多く、この『白痴』は、『堕落論』を小説化したものと捉えることができます。