「謎解き草枕」 その3

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③「生か、死か、それが問題だ」

 6章 静かな春の夕暮れ、画工が机に向かって漢詩を練っているところ、開け放ったふすまの向こうの空間を何か奇麗な影が通り過ぎました。見ると、画工の部屋の向かいの棟の縁側を、花嫁衣裳の振袖を着込んだ那美さんが行ったり来たりしています。また、那美さんの奇行です。
 この奇行については、9章で那美さんの口から一応、説明が有ります。画工が那美さんの花嫁姿を見たがった、という話が、おそらく茶店の婆さん→源兵衛→那美さんという経路で伝わったので、わざわざ着て見せてくれました。けれど画工は、この行為も「非人情」芝居の一部として解釈しています。

刻々とせまる黒き影を、すかして見ると女は粛然として、きもせず、狼狽うろたえもせず、同じほどの歩調をもって、同じ所を徘徊はいかいしているらしい。身に落ちかかるわざわいを知らぬとすれば無邪気のきわみである。知って、災と思わぬならば物凄ものすごい。黒い所が本来の住居すまいで、しばらくの幻影まぼろしを、もとのままなる冥漠めいばくうちに収めればこそ、かように間靚かんせいの態度で、あいだ逍遥しょうようしているのだろう。女のつけた振袖に、ふんたる模様の尽きて、是非もなき磨墨するすみに流れ込むあたりに、おのが身の素性すじょうをほのめかしている。

『草枕』6章

 画工は、那美さんが着ている振袖を女の歩む人生に見立てています。どんな振袖なのかというと、すその部分が華やかな色と柄模様、だんだんとグラデーションに暗くなり、上半身の部分は墨黒すみくろです。華やかな部分が現在を、真っ黒な部分が死すべき運命を表しています。
 今は華やかな世界に居たとしても、いずれ身に降りかかる災いに向かって、そしていつか必ず迎える死に向かって、焦りもせず、狼狽うろたえもせず、粛然しゅくぜんと歩いて行く、おのれの死をしっかりと見極みきわめておそれない態度を表現しています。
 那美さんが花嫁衣裳を着て縁側をうろうろしているだけなのに、画工はこんな事を考えています。彼が生と死について考えているのは、まだ『ハムレット』の世界に浸っているからです。一番有名なセリフは、やはりこれでしょう。

 生か、死か、それが問題だ。どちらが男らしい生き方か、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾やだまを堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押し寄せる苦難に立ち向かい、とどめを刺すまでにあとには引かぬのと。一体どちらが。いっそ死んでしまったほうが。死は眠りにすぎぬ。

シェイクスピア『ハムレット』福田恆存訳 第三幕第一場

 「男らしい生き方」(原語ではnobler)を選んだハムレットは、宿命を受け入れ、死を覚悟のうえ剣をとって復讐を果たしました。いっそ死んでしまいたい気持ちも有ったけれど、ハムレットはキリスト教徒ですから、自死を選ぶことは避けました。復讐せずに生きることを選んだ場合は、「じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾やだまを堪え忍ぶ」ような生き方しかありません。画工ならば、どちらを選ぶのでしょうか?彼自身の死生観が表れているのが、次です。

眠りながら冥府よみに連れて行かれるのは、死ぬ覚悟をせぬうちに、だまし打ちに惜しき一命をはたすと同様である。どうせ殺すものなら、とてものがれぬ定業じょうごうと得心もさせ、断念もして、念仏をとなえたい。

『草枕』6章

 病床びょうしょうす子供が、自分でも気付かぬ内に安らかに眠るように死んでいくのを見ると、呼び返したくなる。どうせ死ぬなら、運命を見定め、覚悟を決めて死んで欲しい、なんて言うのです。画工は、恐怖に耐えられない臆病なタイプかと思ったら、そうでもないようです。ハムレットのように覚悟の上、宿命を果たし散るのを良しとするのだとしたら、彼自身も画家として世間で強く生きていく覚悟を決めて欲しいものです。弱気な画工に向けて、大徹和尚からの助言が「那美の非人情」にありますから、もう一度11章に移ります。

④風が吹いても

11章 月が美しい春の夜、散歩していた画工は急にうれしくなって、観海寺の石段を登りながら、「仰数あおぎかぞう 春星しゅんせい 一二三」という句を作りました。五七五にはなっていない、後に自由律俳句と呼ばれるような句です。私は、彼の作った多くの句の中で、このなんだか楽しくて勢いのある句が一番好きです。作者も気に入っていたのでしょうか、2回書いてあります。いいえ、たぶん大事だから2回書いたのでしょう。画工が数える星は、三つです。その話は、また後で。

 次に「トリストラム・シャンデー」という小説のことを思い出します。漱石が初めて日本に紹介したことで有名なこの作品、小説としてはかなり奇抜な形態です。型破りな句を詠んだり、自由奔放な形態の小説に想いを馳せたり、今夜の彼がこんなに自由な気分なのはおそらく、「飄逸ひょういつの趣」のある、大徹和尚に会いに行くからでしょう。でっぷり太って、下手くそな達磨の絵を描いて喜んでいる、間の抜けたところもある和尚さんですが、「人間は日本橋の真中に臓腑ぞうふをさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ修行を積んだとは言えない」なんて、もの凄いことを言う人です。

  画工は、和尚に「東京に永くいると勘定かんじょうをされますよ」と奇妙なことを打ち明けました。東京では、探偵に屁の勘定をされるから画工になりきることができない、と嘆きます。他人の批判ばかりする人が居て、それが気になってしまう、という意味でしょうか。画工の一番の悩みは、この事です。そんな彼に大徹和尚から、まるで禅問答のようなアドバイスがありました。

「あの松の影を御覧」
奇麗きれいですな」
「ただ奇麗かな」
「ええ」
「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」

『草枕』11章

 当然です。松の影なのだから、風が吹いてもなんともないでしょう。しかし松の木自体は、強い風に吹かれてきっと苦しいこともある。そうして風に吹かれ立派に育った松が、奇麗きれいな影を落とすのです。
 芸術家も同じです。その人生は、認められず、批判され、苦しいかもしれないけれど、境遇に負けずに残した芸術が美しければ、それで良し。

 この和尚の言葉、重要なメッセージです。画工の胸にも深く刻まれたことでしょう。けれど、彼は大徹和尚のようなおおらかな性格ではありませんから、東京のような都会で悠然とした気持ちでいるのは、簡単なことではありません。彼はまだ自信が持てないのです。

 「非人情対決」の休憩時間は、「非人情」について那美さんと話し合います。草枕のなかで、もっとも洒脱で印象的な二人のやり取りです。ちょっと引用が長くなってしまいますが、とても含蓄のある対話です。