村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』解説|涸れた心を潤し、イドを鎮める物語のチカラ

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夜明け前に井戸の底で夢を見る。それは夢ではなく深層の異界へ壁抜けができた状況である。

そこは広いロビーの大型テレビの画面で、綿谷ノボルが演説をしている。ここは潜在意識下の世界であり、ノボルを支持する人々で埋められている。

「よろしいですか、すべてのものごとは複雑であると同時にとても簡単なのです。それがこの世界を支配する基本的なルールなのです。(中略)複雑に見えるものごとも、動機においてきわめて単純なのです。それが何を求めているか、それだけのことです。動機というのはいうなれば欲望の根です」(二部)

「愚かな人々は、永遠にその見かけの複雑さから抜け出すことはできません。そしてその世界のありようを何ひとつ理解できないまま、暗闇の中でうろうろと出口を捜し求めながら死んでいきます。彼らはちょうど深い森の奥や、深い井戸の底で途方に暮れているようなものです」(二部)

それはまるでトオルに向かって語られているように感じた。

ノボルは権力欲という自我が剥き出しになっている状態であり、大衆の集団的無意識を支配しようとしているのだ。

ロビーから客室に向かう廊下で、「顔のない男」が「今は間違った時間です。あなたは今ここにいてはいけないのです」と言う。

この男はトオルの味方(影)である。しかしトオルは制止する「顔のない男」を押しのけて208号室に辿り着く。

「明かりはつけないでおいて」(二部)

女の声がトオルに告げた。それは奇妙な電話をかけてきたあの謎の女の声だった。

「私が誰なのか、あなたは本当にそれを知りたい?」(二部)

と訊ねてくる。

「私はあなたのことを知っているし、あなたも私のことを知っている。でも私は私のことを知らない」(二部)

と言う。そして、

「オカダ・トオルさん、私の名前をみつけてちょうだい。いいえ、わざわざ見つける必要もないのよ。あなたは私の名前を既にちゃんと知っているの。(中略)あなたが私の名前をみつけることさえできれば、私はここを出ていくことができる(中略)もし奥さんをみつけたいのなら、なんとか私の名前をみつけてちょうだい」(二部)

と言う。

私の名前、私の名前、私の名前(アイデンティティのこと)・・・謎の女は、名前を見つけてくれたらトオルの奥さんを見つける手伝いができるという。つまり、謎の女は誰なのか?ということだ。

「あなたはもうここを出ていった方がいいわ」(二部)

とふと我に返ったように言い、

もしあの・・男があなたをみつけたら、きっと面倒なことになる。あの・・男はあなたが考えているよりも遥かに危険なのよ。あなたを本当に殺してしまうかもしれない。そうしても不思議はないような男なの」(二部)

と言ったかと思うと、

いつかまた私のことを抱きたいと思う?私のからだじゅうを舐めたいと思う?ねえ、なにをやってもいいのよ。(二部)

と女の声は性的に誘う。声はいろいろと変わる、複数の人格が、ひとりの人間に憑りついているのだ。

そこに誰かがドアを開ける気配がする。電話の女はトオルの手を引っぱり<壁抜け>をする。そして<こちら側>の深い井戸の底に戻っていた。

井戸の底から助けてくれたのは、加納クレタだった。そういえば、メイが梯子を外したままでしたからですね・・・

後に気づくのだが、トオルは右の頬にあざを作っており、それは熱を帯びていた。これは後に登場する獣医だったナツメグの父の頬の あざと同じで、善の継承ではないかと思われる。つまり羊(をめぐる冒険)の紋章(=悪の象徴)の反対(=善の象徴)である。そして異界へ行った証明でもある。あざは208号室の女にひかれて壁抜けをしたときに、できたものである。

このことで、トオルにはある治癒能力が備わったようだ。

しばらくして手紙が届く、それはクミコからだった。クミコには付き合っている男がいて、その男と性的な関係をもったという。すでにその男とは別れていて、もともと愛してなどいなかった。愛しているのはトオルだけだという。

しかし性欲を抑制することができなった、どうして異常なくらい激しい性欲を抱いたのかが自分でもわからないと書いてあった。そしてもう戻ることはないので離婚の手続きに同意して欲しいというものだった。

トオルはこれまでクミコについて何を知っていたのだろうと思った(二部)

それからトオルはクレタからノボルに汚された、暴力的に犯された話の続きを聞く。ここでノボルが性的に不能であることが読者に伝えられており、“汚された”とは、無意識の中身をこじあけられること。

魂をとりだされ、抜け殻のようになること。

これは笠原メイが話していた“自分の中にあるそのぐしゃぐしゃ”のことであり、それをとりだされた抜け殻の状態だ。

それからトオルはクミコの堕胎手術から何かが変わったことを考えた。それは堕胎という行為よりも、むしろ妊娠に関してだと思う。あるいは胎児に関係したこと。

ある日、トオルは区営プールで泳ぎながら幻影を見る。井戸の底にいて、208号室の奇妙な謎の女が現れる。

「あなたの中には何か致命的な死角があるのよ」(二部)

と彼女は言った。

僕は何かを見逃している。彼女は僕が知っているはずの誰かなのだ。

あの女はクミコだったのだ・・・・・・・・・・・・(二部)

僕はどうしてそれに気がつかなかったのだろうと思う。

空き家は取り壊されてしまった。トオルには空き家の庭の井戸が必要だ。そのために土地を所有したいと考える。しかし8000万という不動産の提示する額は、トオルにはない。

ここでファッション関係の富豪であるナツメグという女性を登場させます。トオルは、新宿の公園でナツメグと出会います。彼女はトオルに事務所に来るようにと告げます。

トオルの右頬にあざがあったからです。それはナツメグの父のあざと同じでした。そこにはナツメグの息子のシナモンもいました。

その部屋で、トオルは癒しの能力を使い女性を慰撫します。それはリアルではなく、あくまでバーチャルです。そして報酬として20万円を受けとるのです。

トオルは、自分の行為は加納クレタと同じ娼婦性であると考えます。

何やらトオルの周辺に変化が、起こり始めます。

すると、一年半近く行方不明になっていた猫が帰ってきた。(三部)

頭から尻尾の先まで乾いた泥がこびりついていた。これはきっと、猫は<あちら側>の異界から<こちら側>の現実に帰ってきたのです。

それは祝福すべき前兆でトオルは新しい名前をつけた。

いいか、お前をもうワタヤ・ノボルなんかじゃなくサワラなんだ・・・・・・、と教えた。

何かが動き出し始めました。どうやらナツメグも何かの能力を持っているようです。

血統を辿ると、彼女は満州国新京育ちで、ソビエトが満州にせまったときに父だけを残して命からがら脱出します。このことはシナモンによって、 “ねじまき鳥クロニクル#8”に詳しく記録してありました。

動物園の獣医だったナツメグの父(シナモンの祖父)は、家族を脱出させてひとり新京(満州)に残ります。獣医にもトオルとおなじように、右の頬に鮮やかな青いあざがありました。

小さい頃は、そのことを憎みましたが、「自分という人間は結局のところ何かの外部の力によって定められて生きているのだ」という子供の時からの感情によって受け入れることができたという。

戦争中ゆえに、動物園の危険な肉食動物は処分され、軍がそこを駐屯地にすると決まった際に、先生をバッドで殴り殺したとされる満州国を裏切った中国士官学校生数人が銃剣で殺され、その首謀者は、バッドで撲殺されます。

このエピソードもノモンハンと同じように戦争の悲劇や残忍さ、無意味な殺害を物語ります。

そこでは、ねじまき鳥が、ねじを巻くようにギイイ、ギイイと鳴いていた。

後に指揮した日本(帝国陸軍)の中尉は、ソビエト軍に捕まり絞首刑になる。獣医(ナツメグの父)は、シベリアに抑留され炭坑での過酷な労働の中、出水事故で亡くなります。ナツメグが、トオルにクミコの失踪の話を聞いて訊ねる。

「それで、いったいどこから・・・・あなたはクミコさんを救いだすことになるのかしら?その場所には名前のようなものはついているのかしら」(三部)

トオルはうまい言葉が見つからずに「どこか遠くです」と応えながらも、

「僕には井戸がある」(三部)

と言う。

それをあなたが手に入れることができればね・・・・・・・・・・・・・」(三部)

とナツメグが返す。

そしてナツメグは、空地(かつての宮脇さんの土地)を購入し、跡地にビルを建て、そこにトオルを住まわせる。トオルはここでクレタと同じような娼婦性でお金を受け取り、そこからナツメグにお金を返していきます。

ナツメグの「特殊能力」。彼女の手が触れると快楽をもたらすのです。 その不思議なチカラは、シナモンに引き継がれ、シナモンからトオルに引き継がれたのです。

ナツメグの父と同じ、右の頬にあざが、何かの作用をしているのでしょうか。ナツメグは自分の後継者はトオルだと考えます。それは“仮縫い部屋”で金持ちの中年女たちを癒すという行為です。

そして綿谷ノボルの秘書という饒舌な醜男しこおの牛河という男が登場します。この男は裏の仕事をする担当です 

この因縁の空地を巡って、トオルはクミコと繋がるために井戸を所有し、ノボルは表向きは政治家としてのスキャンダル対策としながらも、クミコに辿り着かれることを懸念して、すべての元を断つために空地を買い取ろうとする。

牛河はノボルの命令を受けてトオルに取引を持ちかけます。空き地から撤退すれば、クミコを返すというものですが、トオルは自分の力で取り戻すと提案を退けます。

ここではナツメグがトオルを応援し、息子のシナモンもトオルを手伝う。ノボルの方には、牛河がいて、トオルとクミコをパソコンの通信でつなぐことをセッティングする。

トオルはクミコにチャットで対話する。

クミコは、「今の自分はあなたの知っている私ではない」「変形して駄目になっている」「どこかの真っ暗な暗い部屋で、私とはかかわりなく誰かの手によって決定されたこと」「結婚をしたときに新しい別の可能性があるように見えたが、幻影にすぎなかった」「あくまでたとえではあるが、それは死に向かって、身体や顔かたちが崩れていくような治る見込みのない病」「そして綿谷ノボルと一緒にいるのは、好むと好まざるとにかかわらず、ここが私に相応しい場所だから」

クミコがパソコン上に送る内容は、まさに無意識世界の自分の心を語るものです。
そしてトオルはクミコに返す。

僕は思うのだけれど、たしかに一人の君は僕から遠ざかろうとしている。君がそうするにはたぶんそれだけの理由があるのだろう。でもその一方でもう一人の君は必死に僕に近づこうとしている。僕はそれを確信している。そして僕は、君がここでなんと言おうと、僕に助けを求め、近づこうとしている君の方を信じないわけにはいかないんだ。(三部)

クミコの心の叫びに対して、トオルは応えていく。これは一種の治癒行為です。

まるでクミコの深層心理が発する言葉を、トオルが精神カウンセリングをしているようだ。そしてこれこそが、物語(村上文学)のチカラなのです。

次にトオルは、ノボルとパソコン通信をつうじて激論を交わす。

そこにはトオルがノボルの仮面の下の真実を暴く。ノボルがいろいろな人々を損ない続けてきたこと。クレタも、そしてクミコの姉もそうだと指摘する。

こころの闇から抜け出せないクミコ、しかしトオルは諦めない。潜在意識の世界にいるクミコをトオルは現実世界に連れ戻すことができるのか。このすべてを記録に残しているのがシナモンだった。

彼こそが「ねじまき鳥クロニクル」の作者なのである。かれは戦争中の満蒙の時代からこれまでの年代記を作成している。

加納マルタやクレタ、本田さん、間宮さん、ナツメグの父親、ナツメグやシナモンなどの善意を受けて、トオルは自身が「ねじまき鳥」としての役割を果たす。

いよいよクライマックスである。トオルは再度、井戸の底で集中をする。お守りのバッドは何故かなかったがそれでも壁抜けが出来た。右頬のあざのおかげだろう。

トオルは閉じ込められたクミコの魂を208号室の闇の中から救い出すために、<あちら側>の世界に行き、綿谷ノボルと闘うことを決意する。これは異界に入っていき、精神世界のなかでの二人の闘いを意味する。

ロビーのTVは、驚くべきことを放送していた。それは綿谷ノボルが、現実の世界で暴漢に襲われて重傷を負ったということだった。場所は彼の事務所で暴漢は野球のバッドで氏の頭部を数回、殴打したというものだった。犯人の特徴は、身長175cm、顔の右側にあざがあるということだった。

綿谷ノボルが殴られた時刻と、トオルが井戸にもぐった時刻が同じだった。そのとき井戸にはいつもあるバッドがなかった。

僕が本当に綿谷ノボルをバッドで殴ったのだろうか。(三部)

それは不可能だーそこにもうひとりの僕が存在しない限り。(三部)

トオルの味方であり、うつろな人間だというは「顔のない男」に導かれて、208号室に着く。トオルは女に言う。

「実を言うと、僕は君のことをクミコだと思っている。最初は気がつかなかったけれど、だんだんそう思うようになってきた。」(三部)

女は例の声で言う。

本当に私がクミコさんなの?(三部)

トオルはそう考えることで、話の筋が収まるという。そしてこの208号室から僕に何かの秘密を伝えようとしたのだという。

すると例の女の声が変わる。

「それで、あなたは私を探しにここまでやってきたのね。私に会うために?」(三部)

クミコの生真面目な声が闇の中に響く。トオルは言う。

君が僕の側の世界から、綿谷ノボルの側の世界に移ったということだ。(三部)

クミコは、綿谷ノボルに監視され、精神を汚されているのだ。きっとクミコの姉の代わりをさせられようとしているのだ。

トオルは、ノボルのことを評する。綿谷ノボルは暴力的な力を飛躍的に強め、マス・メディアを通じて広くその力を社会へ向けている。

不特定多数の人々が暗闇の中で無意識に隠しているものを、外に引き出そうとしている。それを政治家としての自分のために利用しようとしている。それは本当に危険なことなんだ。彼の引きずりだすものは、暴力と血に宿命的にまみれている。そしてそれは歴史の奥にあるいちばん深い暗闇にまでまっすぐに結びついている。それは多くの人々を結果的に損ない、失わせるものだ(三部)

集団的無意識の悪しき部分を顕在化させようとする行為。それは権威主義の体制であり、やがて人々を支配する全体主義となる。そして名もなき普通の人々が死ぬ。

クミコは自分の血筋に暗い秘密が潜んでいることを自覚し孤独に暮らしていたが、トオルと結婚したことで回復していくかに思えた。しかし闇の力に引き戻され、綿谷ノボルの所に行った。それは妊娠と堕胎がきっかけだった。

きっとクミコは、お腹の子がノボルの系譜を受け継ぐことを拒絶したのだ、とトオルは思う。これは羊の紋章の邪悪の系譜(羊をめぐる冒険でねずみに受け継ごうとする)の話と同じだ。

しかし同時に、このことでクミコは現実の世界から無意識世界へと取り込まれていったのだ。だからクミコが<こちら側>では、トオルと語り合う場合には普通の状態だが、<あちら側>のクミコは変貌する。

それは強い性欲に無意識に支配され混乱の中にいる。

クミコはそこでは何の罪悪感も持っていない。人格が乖離しているのだ。

クミコは<あちら側>の世界の闇に閉じ込められてしまっているが、時々、そこから救い出されることを求めていた。だから「私の名前をみつけてちょうだい」とメッセージを送り続けたのだ。

失踪したクミコは、綿谷ノボルによって精神を汚され、肉体を損なわれかけている。

それはカオスな世界をたくらむ「悪」なる観念かもしれない。

トオルは言う。

「君を連れて帰る」「そのためにここに来たんだ」(三部)

「あなたにプレゼントがあるのよ」(三部)

そういってクミコはトオルにバットをプレゼントした。

井戸に降りたときになかったバッドであり、ロビーのTVが伝えていた綿谷ノボルを殴打したバッドであり、記憶の中で、満州での裏切り者の撲殺から札幌のギター弾きの男との新宿での再会を経て、いま208号室にそのバッドはあるのだろう。トオルはバッドを手にした。誰かが入ってきた、ナイフを持っているようだ。クミコはトオルに逃げてという。

「今度は逃げないよ」(三部)

とトオルはクミコに言う。

「僕は君を連れて帰る」(三部)

“ねじを巻く”行為とは、綿谷ノボル的な邪悪と決着をつけることである。バットで致命的な一撃を加える。その正体を僕は見ようとする。

闇の中心にいたものの姿を見ようとする。

「それを見ちゃいけない」誰かが大声で静止した。それはクミコの声だった。 それは脳味噌の臭いであり、暴力の臭いであり、死の臭いだった。

「これでもう終わったのだ。一緒に家に帰ろう」(三部)

でも返事はなかった。彼女はどこかに行ってしまっていた。

そして壁を抜けて井戸の底に戻る。同時に、それは現実の世界で、演説中の綿谷ノボルが脳溢血で倒れた場面だった。ノボルは意識不明で植物人間となっていた。

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※ブログ文中の部の表記は、新潮社<ねじまき鳥クロニクル>から