志賀直哉『城の崎にて』解説|生から死を見つめる、静かなる思索。

後養生に城崎にて療養をする。そこで観た蜂、鼠、蠑螈の生き物たちの死に、自身の事故と人間の生き死について思う。人が生きていくことは死に向かっていることでもある。死の状態は確かに静かなものだが、そこに向かうまではさまざまな状態がある。自然の風景や人間の営みのなかに、生から死を見つめ、心静かに思索する。

静かな死、動騒する死、不意の死。
なすがままに
それぞれのを受け入れる

山手線の電車に跳ねられて大怪我をする。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんなことはあるまいと医者に言われる。後遺症の心配はあるが、死ななかった自分は何かの力で生かされたのだと思う。

そう考えると心静かになる。自然の中に身をおくとさまざまな心象が思い浮かぶ。

『城の崎にて』は、後養生で訪れた城崎温泉での志賀直哉の心象風景です。

事故以来、頭がはっきりせず物忘れも多くなります。城崎の秋の山峡を小川に沿って歩くと、沈んだ淋しい考えになりますが、それは同時に静かで良い気持でもあります。

一つ間違えれば、今頃は青山墓地の下に眠っている。今までは「死は遠いこと」と思っていたが、今では「いつそんなことが起こるのかは、わからない」と思うようになった。

自分は死ぬ筈だったのを助かった、何かが自分を殺さなかった。そう考えると自分の心は静まって、死が身近に感じられる。

そこで見た三つの死について思索を巡らします。

静かな死

ある朝、一匹の蜂が死んでいるのを見つけます。

足を腹の下にぴったりとつけ、触角は顔へ垂れ下がっていた。生きている蜂たちは毎日、朝から晩まで忙しく、死んだ蜂には冷淡で気にする様子もない。三日ほど経ち雨が降り、一匹の蜂の死骸は雨に流され視界から消えた。

静けさに親しみを感じます。休みなく働きひっそりと死んでいく。そして自然に葬られる。残る者は日々の忙しさの中で死者に気を遣う時間もなく、やがて忘れ去る。ひとつの死を考えると確かに淋しいものだが、またそれは如何にも静寂だと思う

動騒する死

死が極まった鼠が、全力を尽くして逃げ回っているのを見ます。

川の中に投げこまれた鼠は、首のところに七寸の魚串が刺し通されています。鼠は陸に上がり助かろうとするが、頭の上に串が出ていてつかえて上がれない。そこへ子供や大人が石を投げる。なかなか当たらず見物人は大声で笑っている。

自分が願っている死の静寂の前には、苦しみもがくことになるのだろう。自殺を知らない動物は死に切るまでは、生きようともがき動騒どうそうする。自分の怪我も致命的と言われれば、あの鼠と同じことをしただろう。傷が影響しても影響しなくても「あるがまま」でよいと思う。それで仕方のないことだと思う。

不意の死

小川に沿って上へ上へと歩いて行くと、石の上に黒い蠑螈いもりがいた。驚かして水へ入れようと小鞠こまりほどの石を投げると当たり、死んでしまった。

その気が全くないのに、殺してしまった自分に嫌な気がした。

不意に蠑螈は石に当たり死んでしまった。死は全く何の前触れもなく訪れることもある。さっきまでは生きていて、次の瞬間に死んでしまうように。

静かな死動騒する死不意の死をしみじみと思う。

死んだ蜂はどうなったのか。雨に流されて土の下に入っていったろう。あの鼠はどうしただろう。海へ流されて水ぶくれになった体が海岸に打ち上げられたことだろう。自分は偶然に死ななかった。蠑螈いもりは偶然に死んだ。感謝は必要だが偶然だと思うと、喜びの感じは湧き上がってこない。

人が生きていくことは死に向かっていることでもある。死の状態は確かに静かなものだが、死への向かい方のなかに動騒不意などさまざまな状態の違いがある。

ここに、一葉の桑の葉の描写が挿入される。

それは風のない中をヒラヒラヒラヒラとせわしく動くが、風が吹いてくると、その動く葉は、ふっと動かなくなる。「生」と「死」の活動もそんなものだと思った。

そこには自然のなすがままに、死をも受け入れるという心境がある。

死に向かう過程の生の感覚はあやふやなもので、ただ頭だけがはたらいている。

その意味では、生と死は両極端ではなく、遠いところにはないように感じる。

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