これはキリスト教社会の文化と日本の記紀神話や先祖崇拝の文化との戦いの構図を表しています。西洋の植民地化を退けるべく、近代化を急ぎ富国強兵と殖産興業の国策で列強と並ぶ大国を目指した明治の日本。そして日清・日露の戦いに勝ち抜きます。芥川はその先の日本と西洋の衝突を予知していたのでしょうか。日本とは何か、日本人とは何か。これは大正期に著された芥川の日本文化論です。
解説
それは芥川の思索の旅のように
16世紀、日本にキリスト教が伝来し西洋との交流が始まります。
『神神の微笑』は、目の前の南蛮屏風を眺めながら、知らず知らずに時空を超えて遠い過去に招き寄せながらも、同時に未来を思い巡る芥川の思索の旅のようです。
芥川の生きた大正の日本は、大きな戦いの時代に入っていく気配を感じさせます。
一方、絵図に描かれた時代は安土桃山です。日本を訪れていたイエズス会のパアドレ・オルガンティノという実在のイタリア人宣教師は布教活動を行っています。
彼は南蛮寺(キリシタン教会堂)の庭を歩きながら追憶に耽ります。ローマの大聖堂、リスボンの港、ラベイカ(楽器)の音、巴旦杏(スモモ)の味・・・。
オルガンティノは望郷の念を払うために神の御名を唱えます。
この国の風景は美しい
土人(日本人のこと)も親しみやすい
何よりもキリストの信徒の数は、今では数万となっている。京都には、南蛮寺(キリシタン教会堂)も建てられるほどになった。それでもオルガンティノは、憂鬱の底に沈む事がある。
どうしてなのかと考えます。
自分はこの国から、一日も早く逃れたい気がする。この国には、何か違うものがある。
自然の隅々に宿る神の霊
オルガンティノはふっと息を吐き、眼を転じると、そこには・・・
枝を垂らした糸桜が一本、夢のように花を煙らせていた。
夕闇に咲いた枝垂桜が、無気味に見え不安にさせます。薔薇や橄欖や月桂など西洋の植物に交じって咲く白い山桜に、強い霊の力を感じるのです。 これは幻視です。
「御主守らせ給え!」
オルガンティノは一瞬間、降魔の十字(悪魔を誘惑を払う)を切ろうとします。 それがただの桜だった事を発見すると、恥しそうに苦笑する。
三十分の後に、オルガンティノは泥烏須へ祈祷を捧げます。
この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜んで居ります
そうしてそれが冥々の中に、私の使命を妨げて居ります。
そうでなければ私は何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございません。
ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉のように、この国全体へ行き渡って居ります。
オルガンティノは日本の地に、ただならぬ霊性を感じているのです。
天照大神の天岩戸開き
その時ふと鶏の鳴き声を聞いたように思いますが、祈祷の言葉を続けます。
「私は使命を果すためには、この国の山川に潜んでいる力と、――多分は人間に見えない霊と、戦わなければなりません。
すると突然、祭壇のあたりに、けたたましい鶏鳴が聞えます。
そしてオルガンティノはふたつめの幻視に悩まされることになります。
そこには、白々と尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張ったまま、もう一度、夜が明けたように鬨をつくっています。 どこからはいって来たか。無数の鶏が充満している。
「御主、守らせ給え!」
彼はまた十字を切ろうとします。が、自由に動きません。オルガンティノは喘ぎ喘ぎ、朦朧とあたりへ浮んで来た、人影があるのを発見します。
この鶏鳴を合図に、天の岩戸の一部始終を目撃することになります。
それは見慣れない男女の一群で、頸のまわりに、玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じていた。無数の鶏は、彼等の姿を見て一層高らかに、鬨をつくり合った。
古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交しながら、車座をつくっています。そのまん中には堂々とした体格の女が一人、大きな桶を伏せた上に、踊り狂っている。
桶の後ろには、これもまた逞しい男が一人、榊の枝に、玉だの鏡だのが下ったのを、悠然と押し立てているのを見ます。
桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓は、ひらひらと空に翻り、頸に垂れた玉は、何度も霰のように響き合い、彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。
しかもその露わな胸! 赤い篝火の光の中に、艶々と浮び出た二つの乳房は、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。
彼は泥烏須を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪の力か、身動き出来なかった。
突然、沈黙が幻の男女たちの上へ降った。そして沈黙の中に、永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。
「私がここに隠っていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」
「それはあなたにも立ち勝った、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」
その新しい神と云うのは、泥烏須を指しているのかも知れない。とオルガンティノは思い注目した。
夜霧を堰き止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、左右へ開き出した。その裂け目からは、万道の霞光が、洪水のように漲り出した。
オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。
オルガンティノは逃げようとした。が、足も動かなかった。
光の中に、大勢の男女の歓喜する声が、澎湃と天に昇るのを聞いた。
「大日孁貴 大日孁貴 大日孁貴)」
「新しい神なぞはおりません。新しい神なぞはおりません。」
「あなたに逆うものは亡びます。」
「御覧なさい。闇が消え失せるのを。」
「見渡す限り、あなたの山、あなたの森、あなたの川、あなたの町、あなたの海です。」
「新しい神なぞはおりません。誰も皆あなたの召使です。」
オルガンティノは、苦しそうに叫び、そこへ倒れてしまった。
「この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難らしい。勝つか、それともまた負けるか、――」
するとその時彼の耳に、こう云う囁きを送るものがあった。
「負けですよ!」
オルガンティノは声を聞きますが、人影は見えませんでした。
オルガンティノと日本の霊との対話
翌日の夕べ、不思議な老人が現れます。
これがみっつめの幻視で、この老人は、この国を守る霊(つまり古い神様)の一人だというのです。
話しをするために出て来たという。オルガンティノは十字を切りますが、老人はその印に、少しも恐怖を示しません
ここでは西洋のキリスト教文化と日本の神道及び伝統文化の違いを説いていきます。
「あなたは天主教を弘めに来ていますね、――」「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須もこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
オルガンティノは言い返します
「泥烏須に勝つものはない筈です。」
すると老人は、日本に渡ってきた異国の思想や宗教が、日本で造りかえられていったことを次々に紹介していきます。
孔子、孟子、荘子、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。
支那の哲人たちは思想以外にも、絹や玉など、いろいろと持って来ました。文字さえ持って来たのです。が、支那は我々を征服出来たでしょうか? 漢字もそうです、書道もそうです。
老人は、この国はすべてのものを同化させ変えていくのだと話します。
悉達多(お釈迦様)の教えは、日本に伝来して、日本に同化して、日本の多くの仏教の宗派となり根付いています。『本地垂迹』と言われる神仏習合で、日本の八百万の神々は、さまざまな仏の姿に化身して日本の地に現れています。
印度の神様ではなく、日本の神様に同化して、日本の仏教の神様となっているのです。
これは大日孁貴の勝でしょうか? それとも大日如来の勝でしょうか? 私が申上げたいのは、泥烏須がこの国に来ても、勝たないと云う事なのです。
「まあ、御待ちなさい。御前さんはそう云われるが、――」 オルガンティノは口を挟みます。「今日などは侍が二三人、一度に御教に帰依しましたよ。」
「それは何人でも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人(日本人)は大部分 悉達多の教えに帰依しています。
しかし我々の力と云うのは、
破壊する力ではありません。造り変える力なのです。
それでも反論するオルガンティノに対して、「事によると泥烏須自身も、この国の土人に変るでしょう。」と警告します。
我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明りにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」
そうして老人の姿も夕闇の中へ、影が消えるように消えてしまう。と同時に寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へ、アヴェ・マリアの鐘が響き始めた。
悠々とアビトの裾《すそ》を引いた、鼻の高い紅毛人は、黄昏の光の漂った、架空の月桂や薔薇の中から、一双の屏風へ帰って行った。
南蛮船入津の図を描いた、三世紀以前の古屏風へ
泥烏須が勝つか、大日孁貴が勝つか――
それはまだ現在でも、容易に断定は出来ないかも知れない。
が、やがては我々の事業が、断定を与うべき問題である。
君はその過去の海辺から、静かに我々を見てい給え。