志賀直哉『清兵衛と瓢箪』解説|大人の無理解に屈せず、飄々と才能を磨く少年。

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解説

冒頭と末尾の残酷さを超えて、飄々とした少年の才能を清々しく描く。

冒頭には、

これは清兵衛と云う子供と瓢箪との話である。この出来事以来、清兵衛と瓢箪とは縁が切れてしまったが、間もなく清兵衛には瓢箪に代わる物が出来た。それは絵を描く事で、彼はかつて瓢箪に熱中したように今はそれに熱中して居る・・・・・・・

末尾には、

・・・・・・・清兵衛は今、絵を描く事に熱中している。これが出来た時に彼にはもう教員をうらむ心も、十あまりの愛瓢を玄能でって了った父を怨む心もなくなって居た。然し彼の父はもうそろそろ彼の絵を描く事にも叱言を言い出して来た。

とある。こうなると教員や父親など大人の無理解のなかで、清兵衛がかなり辛い思いをしてきたことが想像できるし、瓢箪が、小使いから骨董屋、そして地方の豪族へと高値で転売されたことで、清兵衛の瓢箪の価値が高いことが分かる。

さらに清兵衛が瓢箪の収集から絵を描くことに興味が変わっても、その絵を描くことも父親によって妨げられようとすることが推測できる。才能がひらくことを阻まれているのだ。

文中の「これが出来た時」とは、まさにこれ「絵を描く事に熱中する」ことが出来た時の意であり、これは「絵を描く=小説を書く」で、その熱中の結果が『清兵衛と瓢箪』の作品の喩えにもなっている。

理解の無い大人たちにさんざんな目にあう清兵衛の話だが、読後感が清々すがすがしく晴れ晴れとしたものになっているのは何故なのか?

大人の無理解に屈せず、才能を磨き小説を書く志賀直哉。

この頃、志賀直哉は広島県尾道に転居します。昭和二十年までの間に二十回以上も転居を繰り返し彷徨さすらいましたが、その何処もが自然の素晴らしいところでした。

父親との不仲が有名ですが直哉自身も気性の激しい性格だったと云われています。なぜいつも美しい景色の場所を選ぶかと云えば、そのことで自分が美しくやすらいだ気持ちになれるからということかもしれません。

直哉の父、直温は江戸から明治の人で、そこには忠君や絶対的な家父長的封建制が根付いています。物語の中でも父は清兵衛のことを「子供のくせに」と思い、その意識から清兵衛の才能や審美眼を決して認めることはありません。

当時のこの封建的な気分は、清兵衛の瓢箪を取り上げた学校の教師が「武士道を云うのが好きな人間で、雲右衛門くもえもんが来れば大熱狂である」という部分の挿入で表されています。

学習院時代より内村鑑三の教会にも通っており、渡良瀬川の鉱毒事件被害者視察をはじめ、直哉は、父親の封建的な抑圧から自我を開放をするとの考えで、さまざまなことで対立しました。

この『清兵衛と瓢箪』では、瓢箪を愛する少年とその価値観を理解しない大人たちの話ですが、直哉は自作解説「創作餘談」で「自分が小説を書く事に甚だ不満であった父への私の不服」が作品を書く動機であったと言明しています。

そして本統の小説家を目指します。このとき永年の父との不和を題材とした『時任謙作』の執筆に着手します。十七年の歳月を経て完成した後の『暗夜行路』です。

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作品の背景

志賀直哉は父との度重なる対立がある。主な事件では明治34年に足尾銅山鉱毒事件が起こり、父親と衝突。40年には女中との結婚騒ぎで反対され対立。45年には最初の単行本『留女』の出版費用をめぐって衝突。大正3年、父の反対を押し切って、武者小路実篤の従妹 康子と結婚。大正4年、父の家より自ら進んで除籍。

大正元年11月には父と別れ東京を離れ、独り広島県の風光明媚な尾道に転居します。翌々日、四国へ渡る汽船の中で少年と瓢箪にまつわる話を人がしているのを聴き、書く気になったとしている。こうして生まれたのが『清兵衛と瓢箪』で約1か月半で書かれています。またこのとき同時に『時任謙作』も草稿が書き始められています。当時29歳であった直哉が、瀬戸内の大小の島々を望む部屋で本格的に小説家を目指した清々しい気持ちが偲ばれます。

発表時期

1913年(大正2年)、『読売新聞』に発表。志賀直哉は当時30歳。この前年、大正元年(明治45年)29歳の時に『大津順吉』を「中央公論」に発表。初めて原稿料100円を受け取る。また父親との不和によりこの年、尾道に住み『時任謙作(後の暗夜行路)』の執筆を始める。いったん帰京し、また尾道に戻る。尚、この後に再び帰京し8月に山手線にはねられ重傷を負い、後の『城の崎にて』の作品となる。