志賀直哉『流行感冒』あらすじ|大正時代のパンデミックに、寛容のたいせつさを学ぶ。

今から百年前の一九一八年~一九二〇年にかけて、日本でもスペイン風邪が猛威を振るう。愛娘への感染を心配する父親と妻と女中たちの日常を描く。女中の「石」の行動に対する「私」の心理と態度の変化を通して、パンデミック禍での信頼と不信のなか人間同士の寛容の大切さを学ぶ。

登場人物

私(主人公)
千葉の我孫子に住み長女が夭逝し、流行感冒の中で幼い次女佐枝子を過保護に扱う。

妻(春子)

私の伴侶として従い尽くしながら、同時に佐枝子を育て女中や村の人々と向き合う。

佐枝子
私と妻のあいだに産まれた次女。長女は夭折し、石にあやされることを喜んでいる。


私たち夫婦が雇っている女中で、佐枝子の守や家事をするが禁じた夜芝居を見に行く。

きみ
雇っているもうひとりの女中で、石と同じように佐枝子の守や家事の手伝いをしている。

あらすじ

それは今と同じパンデミックのなか、人間への信頼と不信が交錯する

およそ百年前当時、日本にもスペイン風邪の猛威が襲う。多くの日本人が感染し、致死率も高く四十万人近くの人々が亡くなった。このパンデミックのもとで暮らす人々の日常を、志賀直哉は自身と家族、女中、地域との関係で描いている。現在の捉え方や考え方と照らし合わせても、興味深い作品です。

この『流行感冒』とは流行性の感冒のことで、当時、世界的に流行したスペイン風邪と呼ばれた
<A型インフルエンザ>のことです。

もともとの作品の題は『流行感冒といし』でした。実はこの物語の主人公は女中をしているいしなのです。

石を通しての人間観察のなかで、主人公の私に起こる心情であり、心理や態度の変化であり、石から学ぶことのできた寛容かんようの眼差しの大切さを、私が知るに至るまでの淡々とした時間の連続の物語です。

主人公の私は最初のを生後間もなく亡くしている。そこで次女の佐枝子さえこには臆病なほどに神経質になっている。

百姓家の多い田舎の人々の暮らしぶりは都会とは違い、私の娘へ思いが過保護過ぎるのは分かるが、それでも注意を凝らした。少し涼しくなると厚着をさせたり、三つで死んだ私の兄は、守が食わせた物で腹をこわしたのが原因だったので心配した。どんなに私の神経質を笑われても構わなかった。

心配性な私は女中の石を疑い、暴君のように振る舞ってしまう。

そこに流行性の感冒が我孫子あびこの町にも流行はやってきた。

私は注意して運動会に行くことを止め、女中にも町へ出て店先で長話をしないように厳しく云う。毎年十月中旬に町の青年会の催しで夜芝居よしばいがあるが、今年は女中たちが行くことを禁じた。

女中のいしは「こんな日に芝居でも見に行ったら、誰でもきっと風邪ひくわねえ」ともう一人の女中のきみ・・に云っていた。それでも村人たちは無防備で無警戒な様子である。

幼い佐枝子の健康を思いたとえ暴君と思われようと、石やきみ・・の行動を細やかに注意し、多くの人々が集まる芝居興行は特に厳禁とした。

或る夜、いしがいないことが分かる。もう一人の女中のきみ・・が言うには「元右衛門もとえもんのところへ薪を頼みに行った」とか。私はそれを聞いて心配になり不機嫌になる。夜十二時近くになっても帰ってこない石に妻も憎らしく思う。

翌朝、妻が確認すると「芝居に行っていない。元右衛門もとえもんのおかみさんが風邪で寝ていて、そこに石の兄さんが来て話し込んだ」と石は云う。

私が石に「芝居には行かなかったのか?」と訊ねると、「芝居には参りません」と明瞭はっきりした口調で答え「元右衛門もとえもんのおかみさんは風邪をひいていない」と云う。

私は信じられなかったが答え方が明瞭はっきりしており、やましいところがなかった。だがに落ちなかった。話も食い違っている。そして私は石のことを「嫌いだ」と妻に云った。

そうして私は妻に「なるべく佐枝子を抱かさないようにしろよ」と云っていたが、石はもう平常通りの元気な顔をして佐枝子をあやしていた。

私は妻の無神経に腹を立て妻と石に「馬鹿。石に佐枝子を抱かせちゃ、いけないじゃないか。二三日はお前佐枝子を抱いちゃ、いけない」と不機嫌を露骨に出して云う。

妻も石も嫌な顔をした。石は少しぼんやりした顔をしていたが、妻に佐枝子を渡すと小走りに引き返し振り返りもせずうつむいて駆けて行ってしまった。

私は不愉快になり如何にも自分が暴君のように思えた。

石もきみ・・も出て行った。私は「誤解や曲解から悲劇を起こすのは何よりばかげている」と思う方で、できるだけ信じたいが、実は石を全疑しており、自身の気持ちの不統一が、かなり不愉快だった。

いしが沼向こうの家に帰って両親や兄に訴えている様子が浮かぶ、私はわからず屋の主人であり暴君である。妻から執拗しつっこいと言われ「黙れ」と癇癪を起してしまう。

女中が二人共にいなくなって不便になり、二人の世話人のところへ行った。

ところがやっぱり石は芝居を見に行っていた。隣のおかみさんに誘われて、きみ・・と三人で行ったということが分かった。

私は石に、もう暇をとって帰すことにした。石と石の母親が挨拶に訪れる。

母親は不愉快な感じを隠し切れない。嘘をついたぐらいで何もそんなに騒ぐことはないと思っているようだった。却ってそれを云い立てて娘を非難する主人の方が遥かにたちの悪い人間に見えたに違いない。石は赤い眼をして工合ぐあい悪そうに只お辞儀をした。

妻が私を呼んで狭い土地だから失策で暇を出されたとなると、後まで何か云われて可哀想だからもう少し置いておけないかと哀願するので、「・・・・そんなら、よろしい」と云った。

妻は「旦那様はそりゃ可恐こわい方で、上手に嘘をついても心の中をお見透しなんだから」と石に云い、石がびっくりしたような顔をして、はあ、はあと云っていたのを笑い、私が「馬鹿」と云うと、そのくらいの方がいいと妻は真面目な顔をした。

自身が罹り家族に伝染し、石の健気で純真無垢な献身に感謝する。

ところが石は、実は一人で行ったのであった。

きみ・・まで同類にして知らん顔をしていた。妻の御愛嬌なおどしは石には効いてはいなかった。私は石が嫌いになり不愛想な顔をした。

三週間経って流行感冒は下火になった。ところが私が植木屋から感染し四十度近い熱が出て、腰や足がだるくて閉口し一日苦しんだが良くなった。

すると今度は妻に伝染し間もなくきみ・・が変になりとうとう肺炎になった。さらに東京から呼んだ看護婦に伝染うつり、しまいには佐枝子にも伝染うつってしまい、健康なのは済ましている村の看護婦と、石とだけになった。

いしはまだ伝染うつる前の佐枝子をおぶって寝かせつける。しかし佐枝子はすぐに眼を覚まして暴れ出す。仕方なく又おぶる。石は座ったまま目をつぶって体を揺すっている。昼間も普段の倍以上に働き、夜は疲れ切った体でこうして横にならずにいる。

このときの石は無垢に只一生懸命に働いた。自分の失策に対する不名誉を挽回しようとか、よく思われようとかの打算は無く、もっと直接な気持ちらしかった。

「私たちが困っている、だから石は出来るだけ働いた」「長いこと楽しみにしていた芝居がある、どうしてもそれが見たい、嘘をついて出掛けた」。

この二つは石にとって同じ気持ちから起こるものだった。

このとき私は自身の狭い了見を恥じ、人を疑い人間性を決めつけることを悔い改めることを思った。

石の良いところを分かり好きになり、幸せになることを願う。

私は五年ぶりに東京住いをすることになって準備をする。

石に結婚の話があった。相手先は今度が八度目だと妻が誰からか聞いてきた。石は余り行きたくないということだったが、石の父親が乗り気で「とにかく行って、その上で気に入らなかったら帰って来い」と云う。行く前に充分に調べて「行った以上は何があっても帰ってくるな」というのが普通なので、順番が逆で変だと思った。

その後、石の姉が来て八人の妻をえたという男とは違うことがわかり、石は少しも嫌ではないということだった。ただ写真を見るとか見合いをするとかいうことも無く、田舎の結婚には驚くほどに暢気のんきなものがある。

ここでは人々の無責任で無根拠な様子が挿入されています。神経質で用心深い私とは異なり、田舎の人々は口々に噂話が伝わりどこかいい加減でのんびりしています。

お嫁入りの準備をするので暇をくれと云っていたが、私達が東京に行くことを知ると、羨ましくなり一緒に行くと云いだし、二月一杯で返してくれと石と一緒に来た母親が言う。

東京では佐枝子が麻疹はしかにかかり、ここでも石もきみ・・も良く働いてくれた。石が帰る日が近づき二人を近所の芝居見物にやった。

いよいよ別れるとき、石は少し涙ぐんだがひどく不愛想になっていた。別れの挨拶一つ云わずプラットフォームを行く石は、此方こっちを振り向かない。それは石らしい自然の別れの気持ちを表していた。

「人間は関係が充分でないと、いい人同士でもお互いに悪く思うし、それが充分だと、いい加減悪い人でも憎めなくなる」

「石も、欠点だけを見ると欠点だらけだけれど、いいほうを見るとなかなか捨てられないところがある」と妻が云う。

ある日、石が来ていた。妻がお嫁入までに東京に出ることがあれば是非おいでと葉書を送り、早速、飛んできたという。「今月一杯いられる」という。「家に戻ってもお嬢様のことばかり考えてぼんやりしていた」と云われたという。

もうすぐ結婚する。良人おっとがいい人で、いしが仕合せな女になる事を私たちは望んでいる。

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