坂口安吾『続堕落論』解説|無頼とは、自己の荒野を生きること。

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『続堕落論』は昭和46年の12月に発表される。先んじて4月に出た『堕落論』から数か月後、再び天皇と日本人の精神性に対する考えを展開する。道徳や戦時中の戦陣訓、そして戦後の荒廃。戦争と日本の歴史に繋がる安吾の省察は鋭い。

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解説

敗戦後国民の道義が頽廃たいはいしたというが、それなら戦前の「健全なる道義」に戻ることが望ましく、賀すべきことなのかと問題提起をする。

安吾は、そうは思わない。日本人は貧乏な暮らしの美徳を説くが、問題は底をつらぬく精神であり、生活の在り方だとする。

先の戦争は、西洋の「物質文明」に対する「日本精神」の戦いで、結果的に悲惨な大敗北となった。

戦後の日本人の反省として、日本文化は農村文化でなければならず、農村文化から都会文化に移ったところに日本の堕落があり、今日の悲劇があると多くの識者は言う。

安吾はこれに反論する。一口に農村文化というが、確かに耐乏精神や本能的な貯蓄精神はあるが、文化の本質となる進歩はなく、あるのは排他精神と、他へ対する不信、疑ぐり深い魂だけで、損得の執拗しつような計算が発達しているだけだという。

昨今、よくたとえにだされる「共同体」である。共同体は確かに必要だが、安吾はムラ社会の精神性についても臆せずに批判を覚悟で論じている。

他への不信、排他精神こそが農村の魂であり、彼等は常に受身である。自分の方からこうしたいとは言わず、又、言い得ないとする。

農村の美徳は耐乏、忍苦の精神というが、乏しきに耐える精神がなんで美徳なのか。その精神性がこの戦争において、兵隊への無意味な試練、民衆への都合の良い我慢を強いたとする。

日本の兵隊は耐乏の兵隊で、便利の機械は渇望されず、肉体の酷使耐乏が謳歌おうかされて、兵器は発達せず、根柢的に作戦の基礎が欠けてしまい、今日の無残極まる大敗北となった。

それは兵隊だけでなく日本の精神そのものが耐乏の精神であり、変化を欲せず、進歩を欲せず、憧憬讃美が過去へむけられ、たまに現れる進歩的精神はこの耐乏的反動精神の一撃を受けて常に過去へ引き戻されてしまう。

そらに論点は天皇へと向かい、代議士諸公は天皇制について皇室の尊厳などといまだに馬鹿げたことを言い、大騒ぎをしている。

安吾は、天皇制が日本の歴史を貫く一つの制度としながらも、天皇の尊厳は常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった とする。

歴史のなかの権力者たちの天皇利用を、安吾は鋭く批判する。

藤原ふじわら氏や将軍家は何のために天皇が必要だったか。何故、彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇を戴いた方が、都合が良かったからである。

彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまっさきにその号令に服従してみせることで、号令が更によく行き渡ることを心得ていた。

天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名で行い、自分がずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。

自分は神ではないが、天皇を神たらしめることで、自分の意を人民に押しつける。

遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではない。この戦争がそうではないかと糾弾する。

実際天皇は知らないのだ。命令してはいないのだ。ただ軍人の意志である。満洲まんしゅうの一角で事変の火の手があがったという。北支の一角で火の手が切られたという。はなはだしいかな、総理大臣までその実相を知らされていない。

何たる軍部の専断横行か。その軍人が天皇をないがしろに、冒涜ぼうとくしていながら、盲目的に天皇を崇拝すうはいしている。この異様で不可思議な現実を安吾は披歴してみせる。

ナンセンス極まれりだが、これが日本の歴史を一貫する天皇制の真実であり、日本史の偽らざる実体なのである。

天皇の名で終戦となり、天皇によって救われたと人々は言う。

しかし日本の歴史の証するように、天皇は非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり、方策であり、奥の手であるという。

軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民も又この奥の手を本能的に待ち構えており、かくて軍部と日本人合作の大詰おおづめの一幕が八月十五日となった。

堪え難きを耐え、忍び難きを忍んで、ちんの命令に服してくれという。すると国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいが忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!

国民は戦争をやめたくて仕方がなかった。戦争の終ることを切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、又、天皇の命令という。

忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。みじめで、なさけない歴史的大偽瞞だいぎまんだ。

安吾は、日本の政治指導者のみならず、日本国民さえも欺瞞に満ちているという。

何たるカラクリ、又、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリにかれ、そして、人間の、人間本来が持つ正しい姿を失ったのである。

ここで人間の、人間本来が持つ正しい姿とは何かを提起する。

それは大義名分だの、不義は御法度ごはっとだの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々せきららな心になること、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一条件だという。

そこから自我と、そして人間本来の、真実の誕生と、その発足が始められる。

日本国民諸君、私は諸君に日本人、及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬ、と叫ぶ。

天皇制が存続し、歴史的カラクリが日本の観念にからみ残っている限り、日本に人間の、人間本来の正しい開花は望めない。人間の正しい光は永遠に閉ざされ、真の人間的幸福も、人間的苦悩も、すべて人間の真実なる姿は日本を訪れる時がないという。

我々はこのような封建遺制のカラクリにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となり真実の大地へ降り立たねばならない。「健全なる道義」から堕落し、「真実の人間」へ復帰しなければならない。

先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。

表面の綺麗きれいごとで真実を求めるのは不可能で、血をけ、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならない。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまにちなければならない。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。

堕落自体は常につまらぬもので、悪にすぎないが、堕落には、孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。他の人々に見捨てられ、父母にまで見捨てられ、ただ自らに頼る以外にすべのない宿命を帯びている。

堕落者は、ただ一人曠野こうやを歩いて行くのである。

尾崎咢堂おざきがくどうは<世界連邦論>で、国と国とが対立しているので、国家意識を捨て国際人となることが必要で、非国民とは大いに名誉な言葉であるという。

咢堂は、日本人だの米国人だの支那人だのと区別ではなく、世界人となり、万民国籍の区別など失うのが正しいという論である。

一応傾聴するが、「対立感情は文化のせいではなく、人間同士なのだ」と安吾はいう。人間の対立、この最大の深淵を忘れて対立感情を論じ、<世界連邦論>を唱え、人間の幸福を論じて、それが何のマジナイになるというのかと痛烈である。

このあたりの安吾の切れ味は、今世紀のグローバリズムの混迷への警鐘でもある。

家庭の対立、個人の対立、これを忘れて人間の幸福を論ずるなど馬鹿げきった話だが、政治というものは、元来こういうものなのだと切り捨てる。

共産主義も要するに世界連邦論の一つであり、彼等も人間の対立について、人間に就て、人性に就て、咢堂と大同小異の不用意を暴露している。

現代風にいえば、グローバリスト≒コミュニストという考え方である。当時、戦後民主主義に放たれた日本と日本人の迷走について、安吾はしっかりとした見識と慧眼を持っている。

そして政治は、人間に、又、人性にふれることは不可能だと突き放している。

人間と人間、個の対立というものは永遠に失わるべきものではなく、人間の真実の生活とは、常にこの個の対立の生活の中に存する。

この生活は世界連邦論だの共産主義などが如何いかように逆立ちしても、どうし得るものでもない。

この考えは、文化や民族の違いによって永遠に一括ひとくくりにはできない個々別々の状況を前提としている。

この個の生活により、その魂の声を吐くものを文学という。これが安吾の考えである。

文学は常に制度の、又、政治への反逆であるべきで、人間の制度に対する復讐であるべきとする。しかし、文学はその反逆と復讐によって政治に協力しているという。

反逆自体が協力であり愛情なのだ。これは文学の宿命で、文学と政治との絶対不変の関係という。これこそが安吾の「文学のふるさと」であり「無頼」なのである。

生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命にすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々うんぬんし未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎないという。痛快であり、そして謙虚だ。

無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。

我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれ、ということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢けんろうな精神にめぐまれていない。保守的であり漸進主義的でもある。

安吾は、人間を道徳的で求道的な生き物であることを願い、確信している。

そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であるという。ゆえに正しく堕ちて、堕ちきることを必要とするのだ。

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