坂口安吾『桜の森の満開の下』解説|妖しい魔性に憑りつかれ、絶対の孤独に墜ちていく

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本作品のメッセージと感想

「桜の森の満開の下」には、何が在るのか?

桜の花が咲くと、人々は酒を飲み絶景だの春爛漫と浮かれて陽気になりますが、それは最近のことで、昔は満開の桜の下は怖ろしい場所なのですと安吾はことわっています。そして説話体で恋の激しい情熱の行方を幻想的に語り始めます。

「桜の森の満開の下」に佇むと、そこは人間を何か異常な気分に変えてしまいます。

そこだけに漂い棲む、誰にも侵しがたい魔性があるとしています。それは人間の皮を剥ぎ取って本性を晒すような、そう、人間本来の姿を暴くようです。

それこそが、安吾の言う「絶対の孤独」なのです。

下賤の男が都の美しくきらびやかな女を女房にする。女の気を引こうと下僕のように振る舞い、言われるまま昔の女房を次々に殺す。

最初にためらいがあり、そして漲り、湧き上がる気持ちになり、その後に静寂が訪れ、最後はどこか不安になる。男は、この気持ちを「桜の森の満開の下」を通るときと似ていると感じます。

自分を見失い狂気に満ちた気分に高揚しています。

美しい女の魔性に取り憑かれて、言われるがままに我を忘れて無慈悲な惨忍さが剥き出しになる。

次は都に出て、櫛やかんざしなどを盗み貢ぎますが、ついに女は生首を要求します。男は女の望むとおりに殺しまくって首を用意します。

女は、その首で「首遊び」に興じる。そんな不気味な中でも男は、女の美しさに静寂や透明感を感じています。女の果てしない欲求に男は応えながら、それは繰り返し行われ無限の明暗を走りつづけているようです。

女は限りない欲望を当然のことだと愚鈍な男に説明しますが、男には合点がいきません。そしてついに男は都の暮らしに虚無を感じます。

実は女もまた物質という限りない欲望のなかで、虚無を生きているのですが、女はわかりません、あるいは正当化しています。

男は女の美しさと残虐さに誘惑され、心に憑いた魔性の力によって、どうにも逃れることができないのです。

それを止めるには「女を殺すことでしか解決できない」と男は考えます。

同時に「あの女が俺なんだろうか? あの女を殺すと、俺を殺してしまうのだろうか?」と考えるのです。

男は山に帰ることを決意します。女も一緒についてくるというので男は疑っています。すでに女も男なしには望みが叶わぬことを知っています。そして殺し合うことになるのです。

桜の森は一面の満開です。男は、女が人間ではなく鬼に変わっていることに気づきます。

きっとこれは満開の森の桜で明らかにされた女の本性です。逆説的ですが、女と別れることを決心したからこそ、老婆の鬼という幻覚として現れます。

それは「男」の孤独や虚無の眼を通して見た女の真実の姿なのです。

女は、男を逃せばもう贅沢をすることはできない。だから強く首にかじりつき力をこめる。男は、自分に寄生しているこの女から逃れようとしているのです。男は振り払い、逆に鬼の首を絞めます。

気づくとそれは女の首で、女は息絶えました。触れようとすると女は消え花びらとなり、掻き分けようとする自分も消えていきました。

女と男はすでに一体となっていたのです。だから片方が消えれば、もう片方も消えることになります。

男と女は山と都で嗜好する世界は異なりますが、ともに孤独と虚無の中にいます。美しい女の魔性、それは異常な妖しさを放っています。謎めき、恐ろしく、幻惑し、美しく、そして狂った血の匂いがします。

「桜の森の満開の下」で起こったことは、「女」の魔性に錯乱された男が、気が変なり廃人になったような感じです。

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。
なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。

女を失った男は、彼自らが孤独自体となります。

男は女を殺すことで、自らも失ってしまい虚無の底にいます。このとき怖れや不安は消え、冷たい風もありません。もう何もないのです、あるのはただ静寂です。音もなくストップモーションのようにひっそりと花が散りつづけるばかりです。

美しくエゴイストで残虐なものに翻弄されていく、人間の「業」を描きます。

谷も木も鳥も山のすべてがこの男のものなのに、ただひとつだけ「桜の森の満開の下」だけは、男にはどうにもならず、むしろここだけは男を怖れさせてしまうのです。

そこには、きっと虚無と絶対の孤独があり、人はそこを避けながら、それでも、いつもそこに引き寄せられているのです。最期に、安吾のエッセイ「恋愛論」を引用し手終ります。

人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。

「桜の森の満開の下」・・・そうです、そこに行ってはなりません。

絶対の孤独が棲んでいるからです。

なるほど・・・。安吾ってやっぱり心優しい無頼派ですよね。

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作品の背景

敗戦日本の混乱の状況下で人間の本質をえぐるようなメッセージです。坂口安吾には幅広いジャンルの作品がありますが、やはり人間の本性、特に男と女をとらえた作品が真骨頂です。

代表作の『堕落論』や『白痴』は戦争が大きなテーマとなっています。この『桜の森の満開の下』は古典の説話風で、戦争を題材にしたものではありませんが、東京大空襲の死者たちを上野の山に集めて焼いたとき、桜が満開で人気のない森に風だけが吹き抜けていたのが「原風景」と記されています。

基底には多くの安吾の作風と同じように不安や狂気を「女」の愛欲のなかに描きます。『堕落論』の「生きよ、墜ちよ」の一節が有名ですが、「彼自体が孤独自体」という表現にも通じます。

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発表時期

1947年(昭和22年) 6月15日、暁社雑誌『肉体』創刊号に掲載される。坂口安吾は当時40歳。戦前から戦後にかけて活躍した作家で、太宰治と並ぶ無頼派とされています。戦後、 『堕落論』 と 『白痴』 の二作で流行作家となります。安吾文学は、神経症的な不安と狂気を描くことが多く、説話形式の『桜の森の満開の下』 では幻想的な世界を描いている。