カミュ『ペスト』解説|不条理の世界を、いかに生きるか。

解説

『ペスト』の舞台は1940年代のフランス植民地アルジェリアのオラン市。このどこにでもある港町でアウトブレイクが起きる。

物語の主人公 医師リユーは、4月16日の朝、一匹の死んだネズミにつまずく。数日後には瞬く間に約8,000匹の死んだネズミが収拾される。最初の被害者はリユーのアパルトマンの管理人のミシェル老人だった。首のリンパ腺と四肢が腫れ上がり、わき腹には黒い斑点が二つ、40度の高熱を出し救急車のなかで亡くなる。

当初、関係者は恐怖を覚えながらも事態の正視を避けたが、死亡者がさらに30人に達した時、総督府の命でオランの知事はペストを宣言し、市門を閉じ街は完全に封鎖され人々は追放された。

とめどなく蔓延するペスト菌、後手に回る行政の判断のなか人々は次々に死んでいく。自分もいつ感染するか知れず、人々の相互不信、愛する人との別離、刹那的な現実逃避が起こる。精神も肉体も檻の中に閉じ込められたような閉塞感。

『ペスト』は人間に訪れる<生存を脅かす不条理>を象徴する。何故、今この時、この場所なのか? 何故、私たちなのか? 何故、自由を制約され、死んでいかなければならないのか?猖獗を極めるペストの蔓延のなか、人間はどう向き合い、どう生きていくか。

この<不条理>を如何に捉え、何ができるのか?どうあるべきか? 僅かに残る思考の<自由>のなかで、試される人間の選択。

この「自由」とは、精神の「自由」であり、自由を放棄した「囚人」と対比される。

ペストの下では精神の「自由」の持ち主であれ、自由を放棄した「囚人」であれ、死ぬときには死ぬ。<死>は老若男女や身分の上下、人種や宗教を超えて平等であり、不条理に立ち向かうか、否かが試される。

カミユは不条理のなかで、倫理を貫く人間の尊厳の意義を問うている。

ペストの主要登場人物について

物語は発生から終息する9カ月の間の群像劇であり、そこには一人ひとりの出自や思想や価値観が反映される。カミュはリユーと人々の対話の中にモラルを思索する。

ベルナール・リユー

オランの医師で、いち早くペストの流行に気づき県庁に訴え保健委員会の一員となる。朋友のタル―と共に保険隊を結成し市民の治療にあたる。ペストと闘う唯一の在り方は「誠実さ」であり、自分の役割は「治療する」ことだとする。人間には克服できない不条理があり、ペストは「果てしなく続く敗北」だが、自身の「貧困」の出自が誠実であることを教えてくれたとする。リユーは自分の行動規範は「職務を果たすこと」と考える。『ペスト』の物語は、愛する人々を失ったなかで人間の善を後世に残したいとするリユーの記録に基づいている。

ジャン・タルー

ペストが発生する数週間前にオランに来た若者で、父親は検事という裕福な家柄である。少年の頃に「死刑執行」を目にして、それがきっかけで家を出てヨーロッパ各地を転戦する。「人が人を殺す」ことに疑問を持ち、「人間は常にペストの恐怖のなかにいる」と感じている。しかし自身が愛する者を守るために、人を殺す側にも立つという自己矛盾に苛まれる。理想主義者だが過激な革命指向ではない。自由な人間として保険隊を編成するが、不幸にもペストの終息近くに罹患する。しかし「ありがとう、今こそ、すべてはよい」と言葉を残して逝く。タル―も観察したことを手帖に記録している。

レイモン・ランべール

パリから来た新聞記者で、オラン市に住むアラブ人の衛生状態の取材のためリユーの診療所を訪れたのがきっかけ。パリに恋人を残しており、災厄という抽象よりも愛という現実を優先し「大切な人を愛する」という率直な「自己本位」の象徴として描かれる。スペイン内戦にも共和国軍の側で参加。その経験からヒロイズムは危険なことを経験する。都市封鎖のなか、冷静に周到に粘り強く幾度も脱出を試みる。しかしその手筈が万端整った時に「自分だけ脱出するのは恥」と羞恥心から保険隊に参加する。それはリユーやタル―と交わり仲間として「連帯」することの大切さに気づいたことが理由。

パヌルー神父

人々の個人主義や無信仰を厳しく批判する、博学で戦闘的なイエズス会の司祭。厳格なキリストの信奉者で「ペストは神のもたらした罰」だとし「告解」を求める。この説教は力強いものだが、逆に人々は絶望に陥り町はカオスと化す。ついにペストが罪なき少年フィリップに及んだことで、パヌルー神父自身が「神の救いなき世界」に晒される。無神論者であるリユーとの大激論の末、保険隊に参加する。しかし自身が病に侵されると医師の診察を拒否し信仰のもとで死んでいく。キリスト教社会の下で訪れたペストの不条理、神と疫病の闘いのなか「神の沈黙」を描く。

ジョゼフ・グラン

五十代の市役所の下級役人だが、ペストの統計データを集約しリユーへ報告する保険隊の中心的役割として貢献する。貧しい暮らしで会話も少ないなか愛する妻と離別した寂しい過去を持つ。ラテン語の勉強をやり直しながらいつ完成するとも知れぬ小説を書き続けており、その主人公は別れた妻ジャンヌである。何とか彼女に手紙で思いを届けようと言葉を探し続ける。凡庸な男で不器用な生き方ながら、慎ましく苦労を惜しまない善き心を持つ普通の人間として描かれている。

コタール

グランの家の隣りに住む犯罪者。首を吊り自殺未遂を謀るが発見され助けられる。不思議なことにコタールだけがペストの蔓延の中、自由で生き返ったように元気になる。町の人々のペストによる怯えと恐怖が、逮捕に怯える自分の置かれていた感覚と同じになり孤独と警戒心が無くなる。市門が閉鎖されるなか密売で羽振りが良くなり唯一、ペストを楽しんでいる。やがてタル―の鷹揚な人柄を慕い知己を得る。彼はパリの恋人のもとへ脱出を謀るランベールを裏の組織を使って手引きするが、ペストの終息の後に捕らわれ自由を奪われてしまう。

以上の6人が主要な登場人物で互いの人間関係のなかで心理の変容を起こしていく。この他にも不治の結核を患い転地療養するリユーの妻、控えめな態度と善意の眼差しを持つリユーの母親、少年フィリップと父親の予審判事オトン、血清に心血を注ぐ労医カステル、ひよこ豆の数を数える喘息もちの老人、猫に唾を吐きかける老人などそれぞれの生き方を通じて物語を多層的なものにしている。