我儘なハジメには、心に残る二人の女性がいた。同じ一人っ子で脚が悪く精神的に大人だった美しい島本さんと、心は寛げたのに肉体関係を急ぎ傷つけ損なってしまったイズミ。やがてハジメは有紀子と結婚し裕福で幸せな家庭を築くが、なにかが違うと考えている。そんなときに島本さんと再会する。そして国境の南という憧れの正体を知り、太陽の西という死に誘われようとする。これは自分探しの幻想の旅である。
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登場人物
ハジメ / 僕
一九五一年一月四日生まれ、中産階級の一般的な家庭の一人っ子で東京の大学に進む。
島本さん
転校生で僕と同じ一人っ子で大人びて仲が良かった。小児麻痺で左脚を引きずっていた。
有紀子
妻で五歳年下、僕が三十歳で結婚する。サラリーマン時代に知り合い二人の子供ができる。
有紀子の父親
中堅の建設会社の社長でバブル時代に成功する、子供が三人いるが有紀子が最も可愛い。
大原イズミ
僕の高校時代の恋人、父親は歯科医で三人兄弟の長女。僕が従妹と付き合い彼女は傷つく。
イズミの従妹
京都在住で二十歳の大学生。僕が高校三年生の時に会い強く惹かれて深い関係になる。
解説
この物語の現在時間をどこにするか?ここでは、主人公のハジメが初恋の人、島本さんと再会する三十六歳の時からとしました。一九八七年の十一月以降です。そして夜のバーの止まり木で思いにふける幻想として捉えました。当時の日本はバブルの時期です。株や土地が急騰し金が金を生み膨張していきます。それは空前絶後の実体の無い浮遊感に漂う気分でありカオスやデカダンスも充満しています。そんな時代に大きな成功を収めたハジメですが、それは偽りの自分のようで、ここではない何処かに本当の自分の姿があると考え始めます。その思いは初恋の幻影のなかを彷徨い、何かが大きく欠落した自分を特別な存在として捉え、そんな自我の具現化にもがく姿を描きます。
ペルソナの下に潜む、歪んだ自己愛。
自己本位な自我が、大人になり歪みとして表出する。不完全さを隠し続けたが、初恋の女性との再会で過去が鮮明に呼び起こされ、破滅に誘われていく。記憶は一九六〇年代の高度成長期から始まります。当時は一億総中流などと呼ばれ、国民の多くに同じ生活意識がありました。家を持ち、車を購入し、ペットを飼い、子供は二人か三人という家族構成。しかしハジメだけが一人っ子。
周囲からは両親にあまやかされて、ひ弱で、わがままだと思われています。そして事実、ハジメはそんな少年でした。
「一人っ子」という言葉がいやでたまらなかった。(第1章)
その言葉はいつも僕に向かってまっすぐに指をつきつけていた。
お前は不完全なのだぞ、と。(第1章)
主人公は、自分は特別な存在で、大きな欠陥があると考えている。
こんな気持ちは孤独や孤立に向かうし、時に周囲とは違う何かを自分は備えているのではと考える、つまり自我肥大である。自分の属性に、いかに向き合うかということだが、ハジメにとっては自身の生をひきずるほどの大問題なのだ。
記憶のなかで唯一、素晴らしい女性が島本さんである。
お互い一人っ子の共通点があり、彼女は十二歳、小学校五年生のときに転校してきた同級生。周囲を圧倒するほどの凄い美人である。
クラス写真などで、ひときわ目を惹く女の子。家が近いハジメが島本さんの面倒を見る役目となる。脚を小児麻痺で少しひきずっている。
彼女は僕とは比べ物にならない精神的な重荷を背負っていたとも言える。(第1章)
その分、タフで自覚的で弱音をはかず、いつも微笑みを浮かべていた。それは、僕を慰めたり、励ましたりしてくれた。彼女は成績もよく公平で親切だが、同時にクールで自覚的過ぎて友達がいなかった。
でも僕は島本さんのそうした外見の奥に潜んでいる温かく、傷つきやすい何かを感じとることができた(第1章)
ハジメは、自分だけが島本さんを理解できる存在と考えているのです。一緒に遊び、本を読み、レコードを聴き、親密にもなる。島本さんは将来を語るとき、「どういうわけか子供がひとりいるところしか想像できないの」と言う。
そして彼女も僕に対して異性としての好意を持っているのを感じた。そんな彼女に、ハジメはどう気持ちを伝えたら良いか分からなかった。その美しさのあまり、告白して断られ傷つくのが怖かったのかもしれない。
やがて引っ越して別々になってしまう。
こうしてハジメの心のなかに強く島本さんは生ることになる。彼女のことを懐かしく思い続けることで、難しい思春期を励まされ癒され何とか通過した。
そして僕は長いあいだ、彼女に対して僕の心の特別の部分を空けていたように思う(第1章)
それはハジメの初恋の記憶であり、結ばれることの叶わなかった過去を埋めるような再会を期待している、もちろん現実にはそんなことはほとんど起こらない。しかし起こったのである。
この物語の現在時間とした三十六歳のとき、自身の経営するバーに島本さんが現れるのである。そして恋が動き出す。
悪を成し得る心が、自分のなかに棲んでいる
次に恋したイズミのことを思い浮かべる。高校二年生の時で、心が寛げる仲で始めてのキスをした相手だが、心の中でどうして島本さんじゃなかったんだろうと思う。 東京の大学に行く僕に対してイズミが話す。
「あなたはきっと自分の頭の中で、ひとりだけでいろいろ考えるのが好きなんだと思うわ。そして他人にそれをのぞかれるのがあまり好きじゃないのよ。それはあなたがあるいは一人っ子だからかもしれない」(第3章)
イズミは一人の世界にこもり、外に出てこない僕の孤立した自我について語った。ハジメは本当の意味で、イズミを受け入れてはいなかった。そして体の関係を急ぐあまり、十七歳の高校三年生の時に、慎重なイズミではなく二十歳の大学二年生だったイズミの従妹と激しい肉体関係を結んでしまう。
その彼女を愛していなかったし、彼女も僕を愛していなかった。
大事だったのは、自分が今、何かに激しく巻きこまれていて、その何かの中に僕にとっては重要なものが含まれているはずだ、ということだった。それが何であるかを僕は知りたかった。とても知りたかった。(第4章)
ハジメは内面に自分を震わせ、激しく引き寄せるものを求めている。そこに愛情や罪悪感や未来といったようなものが入り込む余地が無かった。ハジメの心は悪を平然となし得る、何かに憑りつかれて突き動かされる衝動がある。当然、イズミをひどく傷つけてしまうが、傲慢なハジメはそれが問題とは思っていない。
そしてもう一度同じ状況におかれたら、また同じことを繰り返すだろうと思う。
その体験から得たのは、
僕という人間が、究極的には悪を成し得る人間であるという事実だった(第4章)
自分が必要に応じて身勝手にも残酷にもなることができた。どんな相手でも決定的に傷つけてしまうことができる人間だと知った。それは本能的な傾向とも言えた。
大学に入ってから三十代を迎える十二年間は失望と孤独と沈黙の中で過ごした。
平衡を失いはじめ、精神の歪みが現れる。
二十八歳の時に奇妙な経験をする。渋谷で島本さんらしき女性を見つけ追跡するが、中年男に制止され何故か十万円の封筒を渡される。
多分この白昼夢のような出来事あたりから、ハジメの平衡感覚が崩れていく。
三十歳の時に一人旅で出会った有紀子に吸引力を感じ結婚をする。彼女に対して素直になれたし、彼女を抱くと懐かしい胸の震えを感じた。そして退屈でみじめな八年間のサラリーマン生活を辞めて、義父の支援もあり青山に上品なジャズ・バーを始めた。
店は繁盛した。そしてマンションを買い、外車を買い、二人の子供にも恵まれ、箱根に別荘まで持ち、物質的には不自由の無い豊かな生活を送る。
自分の棲む世界は、高度資本主義の論理によって成立している世界だとハジメは知らされる。
数年が経ちふと思う。これはなんだか僕の人生じゃないみたいだな、と。
誰かに用意してもらった場所で、誰かに用意してもらった生き方をしているようだと。
ある日、実家から転送された会葬御礼の葉書を受取るとイズミの従妹だった。三十六歳で死んだとある。差出人はイズミだった。イズミは僕のやったことを忘れていないし、許してもいないと思う。
ハジメの同級生が、店に来てイズミの消息を伝え、今は別人のようで、子供たちにも怖がられているという。それは腐敗し崩壊したイズミの姿だった。
遠い記憶のなかで、幸せな幻想が流れていく。
小学五年生の頃、僕と島本さんはナット・キング・コールの『プリテンド』を何度も繰り返し聞いた。そして僕らはあるフレーズを覚えてしまった。
Pretend you’re happy when you’re blue.It isn’t very hard to do
辛いときには、幸せなふりをしよう。それはそんなにむずかしいことではないよ。
それは彼女の生き方のようでもあった。精神的に大人で僕を励まし癒してくれた美しい女性。ハジメは今では大人になって結婚し子供もできて仕事も順調だ。ただ当時のバブル期にあって、この幸福は砂上の楼閣のように思える。
そして三十六歳の十一月始めの月曜の夜に、経営するジャズ・クラブ『ロビンズ・ネスト』に島本さんはやってきた。彼女は人目を引くほどの綺麗な美人になっていた。
島本さんは僕に「引っ越して中学に入ったときにどうして連絡をくれなかったの」という。
そして「八年前、渋谷で見かけたときにどうして声をかけなかったのか」という。
そして僕が島本さんに「ずっと会いたかった」と告げると、彼女は
でもあなたが・・・・来なかったのよ。(第8章)
と言う。
彼女はハジメを待っていた、ハジメは島本さんに拒否されるのが怖かった。ハジメの臆病さが二人の未来を閉ざしたのだった。
島本さんは「中学、高校、大学とずっと孤独で井戸の底で暮らしているみたいだった」と言う。
島本さんは辛くなると僕のことを考えたという。
夜が深くなり島本さんは店を出て帰っていった。僕は自分が少年時代に戻った気がした。それから島本さんはもう来なかった。三ヵ月が経ち、僕は三十七歳になった。
僕は島本さんを待つことをやめた。二月の初めのやはり雨の降る夜に彼女はやってきた。
ここも現実と虚構を往還し、主人公の幻想がまだらに出現している状況なのでしょう。
島本さんは美しい。彼女はハジメを探していたという。大人になって足の手術をして今では普通に歩けるという。
店を賞賛し創造性溢れる才能を称える。ハジメは「九の外れがあっても、一の至高体験を求めて何かに向かう、それが世界を動かす芸術だ」という。
そして自分も昔はそうだったが、今は経営者で資本を投下して回収しているだけだという。
まるで止まり木でほろ酔いになり、自問自答している姿みたいですね。バブル期の成功に戸惑い、強い承認欲求と相反しての自虐的な自己評価のようです。
ハジメが経営するバーは非日常空間を演出し、まさに<空中庭園>のようだった。
バーで作られたものは、空間も装飾も酒も僕も何もかもすべて虚構の世界であった。ハジメは非日常空間の中で生き、島本さんと再会する。
これがほんとうの自分なのだろうか、自分はどこにいるのだろうかと考える。
物語の始めの場面で、島本さんが丁寧にレコード盤に触れる描写を、
ガラス瓶の中に入れられた誰かの脆い魂のようなものではなかったのだろうか(第1章)
と表現されている。この誰かとは、島本さんの赤ん坊であり、同時に未来を思う島本さんの内面世界であるのでしょう。そして戻すことのできない一瞬の時として音楽を彼女は聴いていたのです。
ハジメが島本さんと再会した時に、島本さんへの思いを伝える場面で、
「かたちがあるものは、みんないつかは消えてしまう。でもある種の思いというものはいつまでもあとに残る」(9章)
と話す。それは空中庭園のような虚構ではなく、ハジメの島本さんへの永遠の思いである。そして島本さんは、
「でもねハジメくん、残るだけ辛い思いというものもあるのよ。そう思わない?」(9章)
と返した。
憧れを追い続けることは、死に近づくことなのか。
そして島本さんは僕に、どこか綺麗な谷川を知らないかという。彼女と一緒に石川県の川を訪ねていく。彼女は自分が産み、一日しか命が無かった赤ん坊の灰をその渓谷の小川に流す。彼女は灰が海に流れ、水に交じり蒸発し、雲になり、雨となって降ることを願う。
彼女はどこか薄幸な人生を歩んでいるようにも見える。謎めいた島本さんにハジメの気持ちは強く震え揺さぶられる。
ハジメは島本さんと流れのままに身をまかせても良いと思った。
それから毎週のように島本さんと会った。働いたことのない島本さんは、 いつも高価なモノを身に包んでいる、どこかで高い収入を得ている。
島本さんの中には彼女だけの孤立した小世界がある。それは彼女だけが知っていて彼女だけが引き受けている世界。ハジメは無力な十二歳の少年に戻っているようだった。
現在のハジメは、他人の目から見れば申し分のない人生かもしれない。非の打ちどころのない幸せな家庭。ハジメは妻と二人の娘を愛していた。これ以上快適な生活は思いつかなかった。
数カ月が過ぎて島本さんが現れなくなると、そこは空気のない月の表面のように感じられた。雪の降る小松空港を思い出し鮮明な記憶は眠れない夜を作りだした。
秋がやって来た時に心は決まっていた。ハジメは妻や子供たちのある幸せを捨てても島本さんと一緒にいたいと考える。
そして二度と来ないと思っていた島本さんが店に現れた時に、ハジメは全てを捨てる覚悟で島本さんと箱根の別荘に向かう。高速道路を130Kで走る。
島本さんはハジメが運転しているハンドルを思いっきりぐっと回してみたいという。謎めいて、孤独で、死の匂いをハジメは感じとる。そして、
「私と一緒にここで死ぬのは嫌?」(14章)
と島本さんは訊ねる。彼女は死を意識しているのか。彼女の透き通った美しさとミステリアスな世界が、バブルで失ったハジメの虚無な心を死に導く。
別荘でレコードを聴く。「国境の南」の歌詞について、島本さんは国境の南にはもっとすごいものがあるんじゃないかと思っていたという。それは、
「何かとても綺麗で、大きくて、柔らかいもの」(14章)
永遠の幸福の在り処は、国境の南か、太陽の西か。
島本さんは太陽の西へ西へと向かう「ヒステリア・シベリアナ」の話をする。
ヒステリア・シベリアナとはシベリアに住む農夫がかかる病気の話で、毎日、畑を耕し冬の間は家の中で仕事をして、春になると外でまた畑仕事をする。
何年も何年も、毎日続く仕事。そして東の地平線から上がって、中空を通り過ぎて、西の地平線に沈んでいく太陽を日々繰り返して見ているうちに何かが切れて死んでしまう。
単調な生活から至高体験を探し求め歩き続けること、そんな心の発作が突然に訪れる。そして、
何も考えずにずっと西に向けて歩いていくの。太陽の西に向けて。そして憑かれたように何日も何日も飲まず食わずで歩きつづけて、そのまま地面に倒れて死んでしまうの。それがヒステリア・シベリアナ(14章)
太陽の西は、国境の南とは少し違うと言いながら、箱根の別荘でナット・キング・コールの『プリテンド』のレコードに合わせて島本さんは小さな声で歌う。
島本さんは「中間というものは存在しない。私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかない」という。隅から隅まで全部。私がひきずっているものや私が抱えこんでいるものも全部。
そして島本さんもハジメを全部取ってしまうという。
ハジメは、自分は幸せだったがそれでは足りないという。君と会ってそれがよくわかるという。
ねぇ島本さん、いちばんの問題は僕には何かが欠けているということなんだ。僕という人間には、僕の人生には、何かがぽっかりと欠けているんだ。失われてしまっているんだよ。そしてその部分はいつも飢えて、乾いているんだ(中略)君といると、僕はその部分が満たされていくのを感じるんだ(第14章)
それはどこかに到着点があるような<存在する憧れ>ではなく、どこにも辿り着くことができない<存在しない憧れ>である。
ハジメは有紀子と娘たちの幸せな家族を信じず、島本さんといることで果てしない先が死に繋がることを分かっていても、そこに向かう不完全な自分を信じる。
そしてついに幼い頃の夢が叶い二人は結ばれる。
別荘で一夜を過ごし、朝、ハジメが目覚めると彼女は消えていた。島本さんは、大人になっても不完全なハジメの前に現れることで、青か赤、イエスかノーかの選択をせまり、その判断をさせた。そして自分を選んだハジメを知り、もう思い残すことはなかった。
きっと島本さんは、我儘で自己愛の強いハジメに、片方を選び、片方を捨てるという人生の判断の覚悟、そして得るものと失うものを決めることは生死を分かつことと同じであると教えたのだろう。
ハジメに女性の存在があることを確信する有紀子は離婚をするかどうか、ハジメの意見を訊ねる。
ハジメはしばらく考え、この先、島本さんと会うことはないと思った。もう記憶の中にしか存在しないと思った。
国境の南にはたぶんは存在するかもしれない。でも太陽の西にはたぶんは存在しないと思った。(第15章)
ハジメの結論は「たぶん」なのである。有紀子と協議の場を持ち、夫婦や家族の将来にことを真剣に考え、ハジメはもう一度やり直すことを決める。
十二歳の過去の少年時代のハジメのなかに、島本さんは永遠の憧れとして存在するが、三十七歳の現在のハジメのなかの島本さんは、家族を破綻させ死へと向かうことを意味する。
それから外苑通りを車で走っていると、島本さんに似た後姿をみかけ、車を下りて追いかけそれが違う女性だと気づき、信号機で止まっているタクシーの後部座席に表情のないイズミの顔を見る。いつもどこかで見られていると感じたイズミが現れる。
イズミとの奇妙な邂逅のあと、島本さんの幻影と残響もゆっくりと薄らいでいった。