川端康成『禽獣』あらすじ|女の生態を、犬に重ね見る幻覚。

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解説

小鳥や犬を飼う四十歳の独身男は、厭世的で美しい純血主義を好む。

 彼は、夫婦や親子兄弟の絆を嫌悪し人間を否定し、鳥と犬を飼う厭世的な生活に閉じこもり、執拗なまでに純血主義こそが美しいと考える。

 仲睦まじかったつがい菊戴きくいただきの雄が、籠から飛び立ち、残された雌に、新たな番の雄雌を招いたところ、新たな雌が先に死に、古い雌と新しい雄が残り、それでも最後にはその番も不注意で死んでしまったことに怜悧な観察で驚きを感じる。

 また犬を妊娠させ出産させ育児が楽しいとしながらも雑種は無慈悲に間引きし殺していく。へその緒を切りお産を助けながら、死に対して鈍感なのは雑種だからで、また野良犬にかかったドーベルの腹を犬屋が蹴ったり、死んだ子犬を母犬が食べたりすることすらも冷静に観察しながら純血を守るために了とする描写に薄気味悪さすら感じさせる。

 常に三十くらいの鳥籠の鳥、そこには日雀ひがら小雀こがら、みそさざい、小瑠璃こるり柄長えながなどの小柄な飼鳥しちょうや、紅雀べにすずめ黄鶺鴒きせきれい赤髭あかひげ木菟みみずく百舌もず、駒鳥などが紹介され、犬も柴犬、ドーベルマンやボストンテリアなどが紹介される。「禽獣」執筆の頃、川端は実際に小鳥や犬を飼っていて、一時は犬が九匹もいたという。

 彼は、冷酷な眼で泣かぬ雌の鳥や純潔でない子犬など「美」の要素を持たない動物を、家で飼うことを拒絶する。そしてその過ごし方を鳥は菊戴のつがいを中心に、犬はボストンテリアの子の出産に際して、本能的な愛欲や、出産を純血主義を前提に観察している。

女の顔を犬の顔に重ね、十六歳の無垢、娼婦、踊子、妊娠、堕落を描く。

 物語の最初で、千花子の舞踊会へ行く途中、禅寺の葬儀に出くわし多くの鳥が放鳥されるのを見る。そのとき小鳥の鳴声で白昼夢から目覚める。葬式と遭遇することは、縁起の良いことか、それとも悪いことかはよく分からない。ここでは、死は虚無の先にはない。寧ろ彼は、怜悧な生の観察者である

 四十近い独身の彼は、十年前に幼い娼婦の千花子と心中をはかろうとした。それ程、死ぬ気のない彼の思いに同意してくれた無垢な千花子。彼女が合掌し、彼は虚無の有難さに打たれ「ああ、死ぬんじゃない」とその時に思った。それ以来、どんなことがあろうともこの女を有難く思い続けている。

 そして今見る舞踊会での彼女の踊りは、堕落し俗悪な媚態に過ぎなかった。

 楽屋で踊りの化粧を若い男にさせている千花子、その真っ白な顔は、心中未遂のときの合掌の顔を思い浮かばせた。さっきの白昼夢も合掌の顔であった。夜でも千花子を思い出すたびに真夏の白日の眩しさに包まれる錯覚を感じる。

 千花子の踊りが抜群だという離婚した元亭主の伴奏弾きの感想を聞く。そこで彼も、なにか甘いものを見つけねばならぬほど胸が苦しい。彼の純血主義が選んだものは十六歳の遺稿集の一文であった。

生れて初めての化粧したる時、花嫁の如し」それは、初恋の純潔な気持ちの象徴であり、すでに、四十の独身の彼の虚無のなかにしか生き続けていない。

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作品の背景

父母を幼いときに失い、続いて祖父母も姉も失い天涯孤独の孤児となった川端、虚無や死への感覚は心理的、感情的に常に身近にあり、そこから初期の「伊豆の踊子」に見られる<抒情>に対し、新感覚派として<非情>が表された作品として「禽獣」は位置づけられる。

女の舞踊に通う人間嫌いの男が犬や小鳥を育てながら生命への愛情と死への虚無を描き、同時に、この禽獣を千花子と重ね合わせた生態として描き、その視線は非社会的で病的なほどの感受性で、唯美的な視点である。

川端は、孤児からくる孤独な死に対する視点と、十六歳の少女の遺稿集の文句を引用する結末には、初恋の伊藤初代の記憶をその純潔な思いとして抱き続けているのではないかと思われる。

発表時期

1933年(昭和8年)、雑誌『改造』7月号に掲載される。川端は当時34歳。「禽獣」が嫌悪から出発した作品であり、またその嫌悪は自己嫌悪ではなく、作品の「彼」と川端が同一視されるのをひどく嫌がっていた。三島由紀夫が、この<自己嫌悪>に対して、<小説家として嫌なのか>それとも<奥底にある自己の存在が嫌なのか>と問われ、川端は後者と答えている。

その意味では、作家としての本質的なものを探ることができ、三島は作品のなかの幼い雌犬の分娩を、「自分の生んだ作品を眺める作家の眼差し」としている。またこの三島自身の質問も、16年後の彼の「仮面の告白」との対比で捉えると興味深い。