カフカ『変身』解説|不条理は日常のなかにあり、不条理の連続が生である。

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メッセージと感想

実存は、本質に先立つ。有名なサルトルの言葉です。

ペーパーナイフを例に、それは紙を切るために存在している。本質(切るという機能価値)という目的があり、ナイフとなる。しかし人間は、最初に本質かあるのではない。生まれたときは、ただそこに存在している。ゆえに、実存は、本質に先立つ。というわけだ。

サルトルと交際のあったボーヴォワールは『第二の性』で「人は女に生まれない、女になるのだ」と記す。有名な言葉です。

そして人間は自由の刑に処せられているという。そこで人間は自分を投企(=投げうって)して生を通じて、決断し続ける必要があるという。そこが実存となっていくわけです。確かにその通りでしょう。

しかしこの物語のように、突然の不条理に見舞われたときに、いかに投企するのかという問題に直面します。

その前提として人間の存在がいかに脆いものかが分かります。

グレーゴル・ザムザは気がかりな夢から目が覚めると毒虫になっていました。例えば、突然、事故に遭遇し、からだに損傷を受けたり、人間関係で、心に精神障害を患ったとします。それもかなり重症だったとします。

あなた自身の内心(あるいは外見も)は変化し、取り巻く関係性も変化し、物語では、極限としてグレーゴル・ザムザは死を選び、家族もその存在を無きものにします。

そして重い負担から解放されたかのように明日の希望を改めて持つのです。

不幸なことですが、決してないとは言えないのです。運命は誰にも分かりません。そしてカフカと同じユダヤ民族は現実に数年後に人類史上最大のホロコーストにあっています。

この物語は、一面では笑いながら読めるお話です、しかし、そこには不条理が潜んでいます。

現実は、ひとりの人間の実存であれ、民族の歴史であれ、イデオロギーの支配であれ、危うい実存のなかを我々は生きているのです。

だからこそ、不条理を笑いにしてしまいたいのかもしれません。あくまでシニカルではありますが・・・