解説
カミュは、サルトルと同じように実存主義者と言われることに否定的です。このエッセイは、実存主義の哲学者に反対する内容にもなっています。サルトルは、有名な「実存は本質に先立つ」という基本テーゼを表わします。ア・プリオリな価値を認めず、人間は自由に向けて「投企」し、未来に賭ける存在だとしています。それではカミュはどうなのでしょうか?
不条理から反抗へと繋がるカミュの思想。
哲学エッセイ『シーシュポスの神話』は、<不条理な論証><不条理な人間><不条理な創造>そして<シーシュポスの神話>の4つの断章で構成され、それぞれの章はさらに細分されます。
<不条理な人間>と<不条理な創造>は、表現者としてのカミュの創作活動をベースとしたもので、ここでは<不条理な論証>とその具体例としてギリシア神話から引いた<シーシュポスの神話>を解説します。
<不条理な論証>―不条理と自殺―
真に重大な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。
引用:アルベール・カミュ シーシュポスの神話
カミュは母国フランスから離れたアルジェの地に生まれ、そこには強烈な太陽と海と風がありました。自身は17歳の時に、当時の不治の病である結核に冒され、死を意識しながらの生を見つめています。
その意味では、カミュにはア・プリオリが在ります。いや全ての人々にそれぞれのア・プリオリがあるのかもしれません。
カミュの実存はサルトルの形而上的な思想ではなく寧ろ、カミュの生身に組み込まれ湧き出るノンという<反抗的人間>の態度を優先しています。
人間に訪れる<不条理>に対して、<自殺>は思考の放棄であり、<希望>は宗教的な信仰にすぎず、いずれも否定(ノン)したうえで、その答えは<反抗>となります。
そしてカミュの考え方である<反抗>は、自由と情熱に変わるのです。
カミュは『シーシュポスの神話』のなかで、人間の本質と運命を象徴的に捉えます。ア・プリオリが神が沈黙するような<不条理>であったときに、生は<反抗>するのです。
こうしてカミュの思想は<不条理>から<反抗>へと繋がっていきます。
小説になぞらえれば、孤独と絶望のなかから<自己への誠実>を至上とした『異邦人』ムルソー、そして不条理の反抗から人間の倫理を基にした<連帯>を確立していく『ペスト』のリユーやタル―をはじめとする人々の生へと昇華します。
シーシュポスの神話に見る、ただ無益なことを実践し続けること。
シーシュポスとはギリシア神話に登場する死の神 タナトスを騙した人物。地獄の一番奥深いタルタロスという場所で、神を冒涜した重罪人として幽閉されます。
シーシュポスは神々の神であるゼウスから罰を受け、ここに送られたのです。その刑罰は山に大きな岩を押し上げること。ゴツゴツとした斜面を、岩を背に運び、やっと頂上に辿り着くと、岩はそれ自体の重さで、山の下まで転げ落ちてしまう。
シューシポスは再び、それを押し上げ運ばなければなりません。神の呪いを受けて、無限に続くこの無益の努力を繰り返すのが、彼の受けた罰です。永劫の罰。この罰を永遠に果たすことが、シューシポスの運命です。
神にとって人間は皆、このシーシュポスなのです。しかし神がいない世界では、どうなるのか?
カミュは、このシーシュポスの行為を肯定的なものとして捉えます。
人間の営みとは、まさにこのような<不条理>と<無償>の連続である。しかしそれを引き受けることが、自殺ではなく再起につながることであり<人間の尊厳>を保つことではないか。
カミュは、幸せなシューシポスを想像しなければならないというのです。
<シューシポスの神話>はこう結ばれます。
ぼくはシューシポスを山の麓にのこそう!ひとはいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見いだす。しかしシューシポスは、神を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さを人に教える。かれもまた、すべて、よしと、と判断しているのだ。
引用:アルベール・カミュ シーシュポスの神話
カミュは、シューシポスは幸福だと思わなければないとします。矛盾に満ちた世界で、シーシュポスと同じように、誠実の努力を続けることのみに、人間もまた、その価値があるとするのです。
シーシュポスは、岩を持ち上げる高次の忠実さを人々に教えるのだとします。
神々に反抗する孤独な英雄として、神々を否定しながら、ただ岩を持ち上げていく忠実さを人々に教えるのです。
生が何であるかは、実際に生きてみることでのみわかるのだ。これが自殺の否定です。
人知を超えた災厄に際して無力で、神の力でも解決しえない不条理に在って、人間は如何にあるべきか?それでも人間は無力を知りながら、繋がることだとカミユは考えます。
永遠の敗北を繰り返しながら、頂上を目指し続ける。そのことこそが人間の心を満たすことなのだ。『ペスト』の中で、タル―が死の間際で呟いた「ありがとう。今こそ、すべてはよい」です。
神でもなく共産主義でもファシズムでもない、人間の幸福とは何か。
カミュはキリスト教を否定します。『無信仰者とキリスト教徒』(1948年)と題した修道院で行ったキリスト教徒との対話には、「自分はいかなる絶対的真理も使命も持っていないと感じているので、キリスト教的な真理に入ることができなかったという事実から出発する」との立場をとります。
キリスト教を信じてはいないが、敬意と親近感は失ってはおらず、無神論者ではないと言う。しかしかなりの点で非有神論者です。カミュは唯一神の下に人間があるとすることでの西洋の没個性主義に反抗します。
『ドイツ人の友への手紙』(1948年)では、ナチスを支持するファシズムを否定します。また『シーシュポスの神話』に続く哲学エッセイ『反抗的人間』(1951年)の発表をきっかけに起きたサルトルとの論争では、カミュは限度を超えたフランス革命とロシア革命を非難します。
社会を変えるためには暴力は仕方がないことをカミュも認めますが、「革命という目標のため暴力を正当化する」ことは、ニヒリズムと歴史を絶対視するとしてカミュは否定します。
革命か、反抗か。サルトルは革命のもとに「目標は手段を正当化する」に対して、カミュは「暴力は不可欠だが正当化してはならない」とし、「正当化した瞬間から、その革命は堕落する」とします。
左翼全体主義とファシズムを批判して、ギリシアと地中海の自然への回帰を説く。
ここではカミュの重要なモラルの問題は「殺人」と「反抗」についての考察となっていますが、文学者としてのカミュに比べて、論理的にはサルトルのほうに軍配が上がります。
サルトルは、哲学と政治的側面においてカミュの主張は文学的で曖昧だと「シーシュポス」の反復や「地中海思想」を批判します。
確かに1940年代以降は共産主義の旋風が吹き荒れ、サルトルはその思想的な指導者でした。しかし50年後、ベルリンの壁は崩壊しソ連は解体しました。
カミュは「犠牲者も否、死刑執行人も否」との立場をとり、「私は自由をマルクスのなかで学んだのではない。私は自由を貧困のなかで学んだ」とし、『ペスト』のなかで盟友のタル―に高潔の理由を問われると、医師リユーは「貧困」が自分の生き方を教えたと答えさせています。
それは宗教を信じない『異邦人』ムルソーを経て、不条理な運命をもたらす『ペスト』では人々の誠意ある共感と連帯の行動をもって「われ反抗す、ゆえにわれらあり」とし孤高なシーシュポスに仲間を集うことで生きる連帯を繋いでいきます。