可愛い挿絵の入った童話『星の王子さま』、世界中のたくさんの子供たちに「大切なものは、目には見えない」ことを伝えました。サン=テグジュペリは貴族の家系からか高潔な精神を携え、幼いころの夢を実現します。空の冒険者である飛行機乗りとして、そして作家として、戦争の時代のなか、かけがえのない友と愛する妻と祖国フランスを思う行動の人として生き、その基底には幼少の記憶と人間への愛がありました。それはきっと大空から見る大地と夜の飛行に映る月や星々に、多くを教えられたのでしょう。
解説
たくさんの翻訳本があります。心で感じるべきこの作品に、解説の意味があるのかとも思いますが、物語に込められたものを考えていきます。
背景として、それは飛行機の時代の始まりでした。
何よりも作者、サン=テグジュペリが飛行機乗り(操縦士)であること。
空を飛ぶことを生きがいとしたことです。青く広がる空だけでなく、地平線をふさぐ雲塊や満天の星々をみる。その先に何を思ったのでしょうか。
そこでは大きな観点や広い視野での思索が可能となります。
さらに、土地があります。
当時の飛行は危険を伴う行為で故障や遭難がつきものでした。死と隣り合わせです。眼下に見下ろす大地や不時着した砂漠での生への根源的な欲求、異なる人種との遭遇もあります。空を飛ぶこと。それは人類の夢だったことでしょう。
そして20世紀は飛行機の時代が始まります。
1903年にライト兄弟がはじめて有人飛行に成功し、その後、より早く、より高く、より遠くと改良されていきます。因みにサン=テグジュペリは1912年(12歳)、飛行機搭乗の初体験をしています。
そして人類史上初の総力戦となった第一次世界大戦(1914年)がはじまり、飛行機は最初偵察機として使用され、機関銃を搭載した戦闘機となり、さらに爆弾を落とす爆撃機へと武器化していきます。
戦後(1918年以降)は、郵便輸送(航空郵便事業)に利用されます。
サン=テグジュペリは19歳(1919年) のときに海軍兵学校の試験に失敗しますが、諦めきれず自費で飛行訓練を行い、21歳で軍用機の操縦免許を取得し、22歳で士官候補生の訓練を受け少尉に昇進し、第34航空連隊に配属されています。
しかし23歳のときに墜落事故で重傷を負い、当時の許婚の家の反対にもあい、除隊し、パイロットの職を一旦、あきらめます。
その後、いくつかの職を転々とし、本格的に26歳(1926年)で作家としてデビューすると同時に、郵便航空会社のパイロットとして採用されます。
戦間期<第1次大戦の終結(1918年)から第二次大戦の勃発(39年)に至る約20年の期間>、まだ命がけの乗り物だった飛行機をもとに執筆されたものが、『南方郵便機(1929年刊行)』『夜間飛行(1931年刊行)』『人間の土地(1939年刊行)』です。
そして1939年9月1日のナチス・ドイツによるポーランド侵攻が発端で、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告します。第2次世界大戦のはじまりです。サン=テグジュペリも直ちに動員されますが、その任は教官でした。
彼は戦闘員として危険に直面しなければ戦争を語ることができないと考えます。翌40年の5月にはフランスの北東部の国境をドイツ軍は突破し、制空権をおさえ、6月14日にパリは陥落。そして同22日には休戦協定が結ばれます。
サン=テグジュペリは、このとき40歳になっていました。
そしてアメリカ・ニューヨークに亡命します。この時のフランスは、ヴィシー派(親ドイツ)とド・ゴール派(反ドイツ)に分かれますが、彼は祖国の分裂を憂い、どちらにも属さず孤高を保ちます。
1941年にアメリカが参戦します。そして42歳で刊行されたのが『戦う操縦士』、それはヒトラーの『わが闘争』に対する<民主主義からの返答>とされました。
このころから『小さな王子(星の王子さま)』を執筆。43歳(1943年)の時に刊行となります。
年齢的に軍に戻るのは無理でしたが、サン=テグジュペリは、直訴してフランス空軍の2/33飛行大隊に復帰を果たし、少佐となります。
ここでエンジンの故障で着陸失敗、機体を破損し、これを理由に予備役に回されます。飛行機の数はとても少なかったのです。
翌1944年5月、それでも伝手を頼りに44歳で原隊への復帰が認められます。
戦争は最終局面を迎えます。6月に史上最大の作戦と呼ばれる連合軍のノルマンディ上陸作戦が開始されます。
そしてサン=テグジュペリは7月31日に、コルシカ島の基地からフランス上空の偵察飛行に飛び立ちますが、そのまま消息を絶ちます。
そして8月25日にパリ解放となります。
サン=テグジュペリの作品は、飛行機を通しての文学であり、また戦争文学の側面もあります。
子供の童話であると同時に、子供の心をとり戻すための大人たちの物語
子供たちが『星の王子さま』から学んだ、素晴らしい教え。
「大切なものは、目には見えない」を、大人のものとして奪うものではありません。しかし冒頭にある、“レオン・ヴェルトに”、そして“小さな男の子だったころのレオン・ヴェルトに”捧げるとの献辞から、この作品は大人へのものでもあるのです。
サン=テグジュペリの思いを知ることで、理解を深めたいのです。
つまり子供の心を失ってしまった大人(王子と会う前の飛行士、これはサン=テグジュペリのことです)が、小さな王子(これもサン=テグジュペリです)と触れ合うことで、お互いが、かけがえのない友達になれた訳です。大人と子供の一体化です。
知らない間に、つまらない大人になっていた飛行士は、童心を取り戻すことができましたし、友達を探していた王子(=子供)は、童心を忘れない大人(=飛行士)と会うことができたのです。
だから飛行機は故障が直って帰ることができたし、王子さまも、自分のバラを愛する尊さを知り、星に帰っていくのです。
つまり、王子さま(=子供)は、「大切なもの」を知ったし、飛行士(=大人)は、「大切なもの」を取り戻したのです。
ではこの「大切なもの」を失った状態とは何か? それは、自分中心の利己主義であり、物質欲であり、金銭欲であり、ひいては戦争を生む根源となっているのです。
キラキラしたお話だけど、どこかせつない。それは大切なもの。バラへの愛を取り戻すために、死を恐れない姿でもあります。だから永遠に輝くのです。
そしてサン=テグジュペリもまた、友を愛し、妻を愛し、祖国を愛し、行動を貫いた人でした。
物語の寄り道、すこし理屈っぽい大人の視点からのお話
サン=テグジュペリの家系は、何代も続く貴族です。子供の頃は「太陽王」と呼ばれ、金髪の巻き毛をして、想像力に富み、我が強く、何があってもくじけず目的と遂げる。
そんな性格と記されています。血筋からくる高潔さでしょうか。ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)。
飛行機乗りになりたいと願う気持ち、それは大空を羽ばたきたいという冒険心やこの世界の真実を知りたいという探求心でしょうか。
サン=テグジュペリは最後まで飛ぶことの情熱を失いませんでした。
その生き方に、「責任」という言葉を深く感じます。
郵便飛行においては、航路を開拓し、どんな条件下でも郵便物を届けなければなりません。人命を賭してでもです。その連続が次につながるという考え方です。未踏のものへの挑戦、使命感を感じます。
危機と直面することで、より神や信仰を身近に感じることになります。
そして「目に見えない、大切なもの」とは何かということになります。
それは愛しつづけるということです。
自分が愛おしいと思い、絆を結んだものは、最後まで責任をもたなければならない。その背景には、時間の連続があります。歴史といっても良いかもしれません。
広く言えば人類愛です。
人間が人間(=のみならず大地や祖国)を愛するとは、責任でもあるのです。
現実に照らして言えば、その愛情とは、献辞した、かけがえのない友人であり、ナチス・ドイツの侵略に苦しめられているユダヤ人のレオン・ヴェルトを慰めることであり、一輪のバラの花のモデルとなった夫人コンスエロを愛し続けることであり、人間の土地に思いをはせ、祖国フランスに命を捧げることです。
そのために死ぬ、つまりは永遠になるという考え方
大切なものを生きつづけさせる。つまりは永遠のために、自身は死を顧みない。これが作者の究極の生と死の意味です。ここに形而上の魂を感じます。
そこに、勇敢さと愛と美しいバラが重なってしまうのです。
サン=テグジュペリの半生や当時の状況を踏まえ、物語の印象的な個所を取り上げてみます。
ボアと羊の話
飛行士(サン=テグジュペリ)の6歳の頃の大蛇ボア(うわばみ)にまつわるお話が紹介されます。以来、絵描きになる夢を諦めて、大人の指示に従い、心を人に見せずに生きてきた。
そして大人になってくだらないブリッジ遊びや、ゴルフや、政治や、ネクタイの話をして過ごしてきた。
―心を失った大人、つまり近代人とは、物質的な利益しか興味を持たぬ人間を指しています。ここでの政治とは分断されたフランスでの党派のことです。
飛行士は孤独で友達がいないのです。
小さな王子さまとの出会い
一方、バラと喧嘩をして、地球にやってきた王子さま。
「おねがい・・・ヒツジの絵を描いて!」
不思議な王子さまが登場する。王子さまは飛行士が描いたボアの絵を見破る。ここで王子さま≒=子供だった頃の飛行士であることの説明になっています。
ヒツジの絵が欲しいのは、ヒツジがバオバブの木の草を食べるため。バオバブは悪い草木で、小さなうちに摘み取らないと大きくなると惑星を滅ぼすという、まるで全体主義を暗示するようなメッセージです。
王子さまは日が沈むのを見るのが好きだと言う。これは亡命先のアメリカから祖国フランスを心配しながら見ている様子です。
バラとの喧嘩
ある日、どこからかやってきた種子を育てます。やがて一輪の大きなバラの花となり、王子さまはその美しく眩しい花を大切にします。
ところがバラは気むずかしく、見栄っぱりで、やれ朝食はまだかとか、トラが恐いとか、寒いので覆いを作ってほしいとか、我儘ばかり。そんなバラと喧嘩をしてしまいます。
王子さまはあまりに小さかったからバラを愛するということが分かりません。
バラは、サン=テグジュペリの妻であるコンスエロがモデルと言われています。コンスエロの美しさは、ただ咲いている美しさで、性格は気まぐれで感情的、芝居気たっぷりで、その場の気分で動き、サン=テグジュペリを困らせます。
物語では王子さまが、バラの花に別れを言い、親身になって語れる相手(≒人間)を探しに、旅立ちます。王子さまも孤独で、友達が必要なのです。
6つに区分された人間の悪癖
王子さまは見聞を広げようと小惑星を巡る。しかしどれも価値がない。ここでは人間が陥りやすい性癖(悪癖)を分類しています。
国王(第一の惑星)―ひとりの臣下もいないのに威張り、支配権を振り回す人間
自惚れ男(第二の惑星)―人に褒めてもらうことを喜ぶ、虚栄心だけの人間
吞み助(第三の惑星)―快楽に浸るだけで節度がなく、自己反省のない人間
実業家(第四の惑星)―所有欲ばかりで、数(金)の勘定だけの実質のない人間
点燈夫(第五の惑星)―命令に忠実で、機械的で滅私奉公な人間
地理学者(第六の惑星)―机上の知識に専念し、決して行動しない人間
6つの星は、王子と話が通じることはなく、それぞれが自分のことだけを考えている。これでは友達にはなれない。
さらに地理学者から「花は、はかない」「ほどなく消えるおそれがある」と言われます。
「ぼくの花は、はかないんだ」「世界から身を守るのにも、4つのトゲしか持っていない!それなのにぼくは、たったひとりで星に残してきた!」と、王子の胸は、痛くなります。
そして地理学者に薦められて地球にやってきます。
空から地球を見ると、とてつもなく大きい。20億人がいるという。それは6つの小惑星の集合体みたい。そんなところが素晴らしい場所であるはずはないのですが・・・。
ヘビとの出会い、おれが助けてやる
しかし、王子さまが落ちてきたのは都会ではなく、砂漠の真ん中でした。
そうです、星の王子さまは砂漠に現れる必要があったのです。都会という人間の蟻の巣のような場所ではだめなのです。砂漠こそは試練の場所であると同時に、サン=テグジュペリが愛する場所なのです。
砂漠はまさに自然そのもの。自然こそは人間を支配する、呑み込む、死に追いやることもできるのです。
そこで王子は、はじめに金色に光るヘビと出会う。
「こんばんは」王子さまが挨拶をする
「こんばんは」ヘビが言った
「どこの星なの、ぼくが落ちてきたのは?」王子さまはたずねる
「地球だよ。アフリカだ」ヘビは答えた。
「そうか!・・・じゃ地球には、誰もいないの?」
「ここは砂漠だ。砂漠には誰もいない。地球は広いのさ」
ヘビは王子さまと話します。ヘビは王子さまが、バラとうまくいかなくて、人間に会いに来たことを知っていて、さらに帰りたくなったら力を貸すという。
ヘビの言うことを不思議がる王子さまに、ヘビは、すべての謎が解けるからだという。
そして王子さまに約束するー「星がなつかしく帰りたくなったら、おれ(ヘビ)が助けてやる」ー
つまり蛇は最初から謎を解くカギを握っているのです。すでにこの段階で、死が、答えであることが暗示されています。謎が解ける(真実を知る)と、死を恐れなくなる。
キツネとの会話、絆をつくるということ
王子さまが高い山を抜けて、一本の道に出ると、バラの花咲く庭園があった。砂漠のなかのバラ園を見る。
王子さまは暗い気持ちになって胸が絞めつけられます。そこには5000本のバラがあったからです。
<この世に一輪しかない宝物のような花を持っているつもりだったけど、ただのありふれた花だったんだ>
王子は、がっかりして泣き出します。
そこにキツネが現れます。
悲しくて遊んでほしい王子さまに、キツネは「初めて会ったばかりで、なついてないから遊べない」と言います。キツネにとって王子はたくさんの人間の一人にすぎないのです。
王子さまは友達を探しているので「なつくってどういうこと?」と訊ねます。
キツネは答えます。それは飼いならす、つまり絆を結ぶってこと。お互いが世界にひとつだけの存在になること。絆を結ぶと、きみのことが忘れられなくなり、足音は大切な音になるし、小麦畑の色はきみの金髪を思い出させてくれる。
王子さまは「友達を探さないといけないので時間がない」と言います。
するとキツネは「人間たちは、もう時間がなくなりすぎて、ほんとうのことを知ることができない。何もかもが出来上がった品を店で買う。でも友達を売っている店なんかない。人間たちには、もう友達がいない」と言います 。
「どうすればいいの」と王子さまが聞くと、
「がまんづよくなること、そして言葉は誤解のもとだから気をつけること、それから時間をきめて心を通じること」
とキツネは言います。
時間をかけて、絆を深めていくこと。
王子さまは、キツネに言われて再びバラ園へ行きます。するとどうしたことでしょう。みんなつまらないものに見えます。それは愛情を注いでいないから・・・。
きっと、王子様にとってかけがえのない一輪のバラが、心に映しだされたのでしょう。
あのバラだけが、きみたちぜんぶよりもたいせつだ。ぼくが水をやったのはあのバラだもの。ガラスのおおいをかけてやったのも、あのバラだもの。ついたてで守ってやったのも、毛虫をやっつけたのも。文句を言ったり自慢したり、ときどきは黙りこんだりするのにまで、耳をかたむけてやったのも。だって彼女はぼくのバラだもの。
キツネは秘密を王子さまに告げます。
「ものごとは、心でみなくてはよく見えない。いちばん大切なものは、目に見えない」
逆い言えば、
大切なものは目には見えないつまり、心の目で見なければ、物事はよく見えないということ。
きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが費やした時間。人間たちは忘れてしまったけど、きみは忘れてはいけない。なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任があるということを。
愛情とは何か?
それは共に同じ方向に向かって人生を送ること。それは、時間であり、感情であり、喜怒哀楽の全てを含めて伴にあること。
王子は思う、自分には残してきたバラの花に責任がある
実際には、サン=テグジュペリは、亡命先のニューヨークからコンスエロに宛てた手紙に
「バラの花はきみだ。どうかするとぼくは、必ずしもきみを大切にしなかったようだ」と記されていました。
たいせつな場所に帰ることー死を恐れないこと
それから水のくだりがあるー砂漠での最大の危機は、渇きである。
1週間がたち、飲む水がなくなり飛行機は直っていない。「井戸を探しに行こう」と王子が言い、飛行士は、「井戸なんてあるわけない」と思いながらも、一緒に井戸をに歩き続けます。
『星の王子さま』のお話は、1935年にリビアの砂漠で不時着し一滴の水もなしに3日間歩き続け、奇跡的に生還した体験がベースになっている。
そこにはサン=テグジュペリの精神があり、遠い幼少の記憶がその精神を支えている。
「星々が美しいのは、ここからは見えない花が、どこかで一輪咲いているから」と王子は言い、飛行士はうなずく。
「砂漠って美しいね」 静寂の中でなにかがひっそりひかっている。
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をひとつかくしているから」と王子は言う。
飛行士(サン=テグジュペリ)は幼少の頃の実家を思い出す。
そこには宝物が埋められていると言われていて、それが不思議な魔法のように感じた。家も、星も、砂漠も美しくしているものは目に見えない。
驚いたことに井戸に辿り着いた。そこには、滑車も、釣瓶も、網もそろっていた。近くに村なんかない。―飛行士も王子も水をおいしそうに飲むーこれはきっと精神的なものでしょう。
つまり心で探すから水も見つかるのですー美しいものは隠されている。
この水は、もちろん普通の水ではなくて、命の水です。飛行士(大人)と王子(子供)が一体となり友情の絆を結べた祝いの水として、特別に心にしみるのです。
そしてちょうど1年が経ち、星の位置が1年前と同じ真下になりました。
王子さまは、ーもと来た星に帰ることを決心します。何故か?
それは、小惑星に残したままのバラのかけがえのなさ知り、彼女を守るためです。
星を出ていくときは、王子さまは渡り鳥の旅を利用しました。では、帰る方法はどうするのか?ここで1年前にあったヘビが現れます。そういえば、ヘビは、謎は解くといっていた。 そしておれが助けてやると言っていましたよね。
王子は1年という時間のなかで真理を知ったのです。帰る方法は、猛毒を持つヘビに噛まれることです、これは死を意味します。
王子さまは死を賭して惑星に帰っていこうとしている、死ななければ王子さまは帰ることは出来ないのです。しかしそれはバラの花への責任でもあるのです。
そしていよいよ死を迎える。心配をする飛行士に対して、王子は、カラダは抜け殻のようなものだと言う。王子のカラダは借り物なのです。
王子の姿をして地球にやってきて、そして魂は星に帰っていくのです。
そしてヘビに噛まれて、王子は倒れます。
やがて飛行士は王子の亡骸(なきばら)もなくなっているのを知ります。
それは子供と大人が一体となった、王子と飛行士が一体となった瞬間なのでしょう。
もちろんその大人とは、子供の純真を蘇らせた大人(サン=テグジュペリ)です。そして星の輝きを見ることで、いつまでも飛行士は王子に会うことができる。飛行士(=サン=テグジュペリ)は星々を探すことで、童心を忘れることはないのです。