志賀直哉『流行感冒』解説|パンデミックの時にこそ、寛容の大切さ学ぶ。

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解説

人間の良いところを認め寛容になることのすすめ

石の行動は、いつも衝動的ですよね。野性的というか、情動的というか。

「私たちが困っている、だから石は出来るだけ働いた」「長いこと楽しみにしていた芝居がある、どうしても見たい、だから嘘をついて出掛けた」。この二つは石にとって同じ気持ちから起こったものでした。

確かに、パンデミックという有事と芝居観劇という感染の危険のなか、注意を無視して、嘘をつかれ、リスクが大きくなったことは事実ですが、それが全人格を否定される根拠かとなると難しい部分もあります。

そして私自身が感染源となったことがきっかけで、家族に伝染うつります。こんな情けない状況のときにこそ、人の助けが身に沁みます。

石の健気けなげで献身的な働きで救われて、結果、石へ の信頼も回復されます。

このとき私は自身の狭い了見を恥じ、人を疑い人間性を決めつけることを悔い改めることを思います。

「人間は関係が充分でないと、いい人同士でもお互いに悪く思うし、 それが充分だと、いい加減悪い人でも憎めなくなる」

と私が言うと、

「石も、欠点だけを見ると欠点だらけだけれど、いいほうを見ると なかなか捨てられないところがある」

と妻が言う。

人間というのは、なかなか分からない生き物ですね。

石って、従順ではないけれど、いい奴ですよねぇ。

このいい奴って評価は、人間、大切ですよねぇ。

石は、感情のまま行動し、純真な気持ちで生きている。

そんな石の幸せを祈るとともに、こちらもおかげで幸せを感じることができました。だから読後感が清々しい。石のような行為に接した時に、人間関係のあり方やものごとの進め方は、現在のコロナ禍では如何でしょうか。

同調圧力や中傷行為のみがエスカレートしないようにしなければ、社会の信頼関係は崩れてしまいますよね。 寛容の心も大切だと気づかせる、心温まる作品です

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作品の背景

志賀直哉は長く父親と対立していました。その背景には直哉が志賀家の女中と深い仲になり、結婚を希望するが父から強い反対にあったことも要因のひとつとなっています。また武者小路実篤の従妹の康子との結婚でも父からの反対にあっています。物語のなかの女中、石の存在や結婚話での主人公の感慨なども題材として興味深く読めます。

作品の頃には父との和解も成立しています。また長女が夭折し大正六年に次女が産まれた後でした。大正7年(1918年)~大正9年(1920年)にスペイン風邪が大流行します。人口が5500万人の日本で感染者は2400万人、死者は40万人と記録が残っています。当時のパンデミックは現在よりさらに甚大でした。長女を亡くしている主人公、志賀直哉と妻や、二人の女中、移り住んでいた千葉の我孫子や東京の都会の暮らしぶりなどがうかがえる作品でもあります。

もともとは『流行感冒と石』という題なので、過保護が過ぎて暴君となる「私」に対して自分がこうと思うことは周囲を省みない「石」との人間関係の変化が妙味です。それがパンデミックという有事と芝居興行という危険のなか、「私」自身の罹患がきっかけで信頼が形成されます。

猜疑や不信にかられても最後には人間を信じ尊重することの大切さや、そのことでの気持ちの良さを、持ち前の作風で表現しています。人間肯定を指向した白樺派の真骨頂です。

発表時期

1919年(大正8年)4月、『白樺』10周年記念号に発表。志賀直哉は当時36歳。大正3年に武者小路実篤の従妹、康子さだこと結婚。大正4年に千葉の我孫子の弁天山に移る。その後、大正5年、直哉33歳の時に長女慧子さとこが誕生するが生後56日で死去。

大正6年は『城の崎にて』を発表し父との和解も成立。この年7月に次女留女子るめこが誕生する。我孫子の手賀沼の畔に住み、充実した時期で代表作も多く発表している。封建的な父の考えと異なり自我の開放を唱え、白樺派を通じて理想主義や人道主義的な人間肯定を指向した。