作品の背景
前二作の40の断章(風の歌を聴け_文庫版160P)、25の断章(1973年のピンボール_文庫版183P)に比べ、三作目の羊をめぐる冒険(上巻268P / 下巻257P)は、始めての長編小説となる。一作目で「僕」と「鼠」の彼女を喪失したひと夏の出来事を、「鼠」は金持ちの家柄を憎み、学生運動で大学を追われ、彼女とも別れる。「僕」は仏文科の女の子の自殺への傷心に彷徨う。二作目でピンボールのスペースシップに憑依した直子と邂逅し、新たな道を歩みだす「僕」と、故郷で暗鬱な日々を過ごしバランスを失い、優しく包んでくれた彼女も捨てジェイに別れを告げ深い暗闇を彷徨い出口を探す「鼠」。
そして三作目の「羊をめぐる冒険」では、“星の斑紋のある羊”を邪悪の象徴として描き、「鼠」の無垢さや無防備さに憑りつこうとするなか、自死することで悪の系譜を阻止し断ち切る勇気を描く。そして真の弱さを持つ人間こそが、邪悪を招き、その混沌でアナーキーな世界に陥る可能性があるが、同時に、その弱さゆえに立ち向かうことができるとして、明確な価値の羅針盤のない新たな時代への警句になっている。
中心となるテーマは、精神の強者や功利な人間を疑い、繊細な純粋さに宿る理性、不条理を祓いのける人々の徳義心を信じる。「僕」の分身として、邪悪に抗った「鼠」の自死をもって、思春期を完結させる。
発表時期
1982年(昭和57年)、文芸誌『群像』8月号に掲載。同年10月講談社より単行本化される。第4回野間文芸賞の受賞作品。村上春樹は当時33歳。「鼠三部作」の完結編。デビュー作「風の歌を聴け」、二作目「1973年のピンボール」をあわせて初期三部作と呼ばれている。
言葉を通じて世界を語ることをテーマに、デビュー作は言葉の絶望を受けながらも癒しを試み、完結編では自我と他我を「僕」と「鼠」に提示させ、求めたい徳義を描く。「羊をめぐる冒険」は、善悪の彼岸を精神が彷徨いながらも、故郷の時間をセンチメントとして1980年以降の時代を伴走する現代文学の形をつくる。