深沢七平『楢山節考』あらすじ|おっかぁ 雪が降ってきたよう、運がいいなぁ。

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解説

人の死の尊厳が問われる、神々しい儀式の楢山まいり。

主題には尊厳死の問題が色濃く表れている。一個の人格として人間が気高く威厳をもって死を迎える。本人の事前の意思があり、準備があり、その指示に基づいて代理で執行される。

『楢山節考』の物語では、おりんと辰平の関係は尊厳死の本人とつれ添いとなるが、その背景に、楢山の神があり、その尊厳ある死を推奨する村の掟がある。

背景には山深い寒村の絶対的な食糧不足がある。特に冬は厳しく、家族の多いところは年を越せない。村では生の誕生が四代にわたると曾孫ひまごは「ねずみっこ」と呼ばれて恥ずかしいものになる。

伝承ゆえ真偽は定かではないが、時代的には江戸末期から明治の最初のころかと思われる。男女の営みが早熟で、本能的であると、その結果、若い時から身籠る回数が増え多産となる。まさに鼠算ねずみざん的に増えていく。口減らしの為に、七十歳になれば楢山まいりをすることが不文律の村の掟となっている。

しかし生身の人間であるがゆえ、自律した死は容易たやすくはない。あらがいもがく。銭屋の又やんと倅の関係のようになり、おりんはそれを「馬鹿者!」と一喝する。

六十九歳のおりんは、三年前からむしろをつくり、振舞酒を準備し、辰平の後妻を心配する。誇り高く、楢山の神様と向き合う準備と心構えを固めている。

おりんは共同体としての村の存続、家族の存続のために自己の意思として尊厳死を選ぶのである。

高齢化していく社会で、きれいな死に方とは何かを考える。

100年前の1920年(大正9年)の日本は人口5600万人。70歳以上は163万人弱で占有比は3%程度。現在の日本は人口1億2600万人。70歳以上は20%越えで2600万人強。人口比3%を現代の日本にあてはめると90歳以上の感覚であろうか。

食糧事情も栄養状況も、公衆衛生も、機械化による生活の簡便化も、医療も社会保障も充実した日本である。何より人々が元気で長生きすることは良いことである。しかし認知症の問題や老々介護の問題などが大きくなっている。在宅と施設を利用されている介護者の総計は500万近くというデータ(*厚労省調べ)もある。

生老病死は人間の四つの苦悩とされるが、老病死の三つは高齢になるにしたがって多く意識される。

もちろん『楢山節考』はフィクションである。読後感は、おりんの人間としての尊厳を感じさせる。「足るを知る」という考え方かもしれない。家族や後に続いていく命のために、自らが、自らの意思で現世を静かに去っていく姿がある。

おりんの姿は、銭屋の又やんの姿と対照的に描かれる。おりんは楢山まいりを願っている。時が来れば積極的な死に向かうことを良い事としている。そして充分な準備を施している。そこには人間の死に方の表現に「きれいな死に方=きれいに死ぬ作法」があるとするならば、「きれいな=尊厳」ということかもしれない。

おりんには美しい生き方と尊厳ある死に方がある。そして孝行息子の辰平も悩み苦しみ泣きながら、おりんと共に死に向かう祈りを最後まで看取った。

又やんの死への怖れや生への拘りを私達は否定できない。自ら死ぬことは難しい。作者はその生き様と死に様を、おりんと比較してみせている。

現代の尊厳死の問題を考えるとき、おりんと辰平の関係、つまりは自律した自死への意思と、代理者との関係を大きなテーマとして放ち続ける、ひとつづつ前へ解釈を進めて行くことも意義ある事と思う。

作品の背景

『楢山節考』は民間伝承の棄老伝説をテーマにした小説で、主人公のおりんは自ら進んで捨てられようとする老婆。食物が乏しい山深い寒村で、七十の年齢を迎えたものは楢山に参り自死することで、生者と食糧の均衡が保たれなければならない。

村の掟と知りながらも孝行者の息子の辰平はおりんの楢山まいりを口にできない。そして曾孫ひまご(ねずみっこと呼ばれる)が産まれそうになる。曾孫まで四代となることは村の恥と考えられている。おりんはねずみっこが生まれる前に「楢山まいり」を決行する。辰平ははりさけんばかりの心で神が宿る楢山におりんを捨てに行く。

一人が生まれると一人が死ななければならない。ねずみっこが死ぬか年寄りが死ぬか、それは自然の法則に生きる村の掟である。だからおりんは尊厳を保つために楢山まいりに行く。死を怖れるのではなく、死を自身の尊厳の場として快く受け入れる。

全編がアンチ・ヒューマニズムの連続で人間愛はない。その中で、おりんだけが子や孫たちの生を維持するために自死を率先する利他の覚悟で描かれる。そこには凡庸な美名で使われる共同体の偽善ではなく、楢山の神のもとに生きる持続可能な村社会の掟の因習となっている。棄老伝説は逆説的に親孝行の大切さを語ったものだという柳田国男の説も有力である。

尚、深沢七郎の「楢山節考・舞台再訪」に、姥捨山の長楽寺にまつわる伝承をもとにしたもので、作品は信州が舞台となっているという。作者、深沢七郎は母が肝臓癌で亡くなっている。母73歳、七郎35歳のときである。自らの意思で死に向かうために断食をする母を見た作者が、誇り高い女として母に捧げる鎮魂歌として尊厳死を貫いたおりんに重ね合わせ、棄老伝説として完成させたとされている。

発表時期

1956年(昭和31年)11月、『中央公論』に第1回中央公論新人賞の当選作として発表される。深沢七郎は当時42歳。当時、選者だった伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫などに少なからぬショックを与えたと云われる。政宗白鳥はこの作品をして<人生の永遠の書>としている。単行本は翌1957年(昭和32年)に中央公論社より刊行、文庫本は新潮文庫で刊行。