坂口安吾『桜の森の満開の下』解説|妖しい魔性に憑りつかれ、絶対の孤独に墜ちていく

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「男」の欲望、「女」の欲望、そして「男」と「女」それぞれの孤独。美しく我儘な女に翻弄される男は、桜の森の満開の下を通る時、背負った女が鬼となり、殺されそうになります。逆に男は鬼を殺しますが、それは鬼ではなく女でした。きっと鬼は男が見た幻想だったのです。男は桜の花びらのなかに佇み、孤独自体になってしまいます。男と女、果てしない人間の業、それは虚無に抗う実存の姿かもしれません。

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解説

鈴鹿峠すずかとうげの、ある山に一人の山賊が住みはじめます。

旅人の着物を剥ぎ金品を奪うような残酷な男ですが、桜の森の花の下では怖ろしくて気が変になりそうです。けれども男には、その理由が分かりません。

ただ花の下では風もないのにゴウゴウと風が鳴っている気がします。花びらが散るように、魂が散って命が衰えていくように思われます。

男は八人目の女房を街道からさらいます。亭主は斬り殺してしまいました。

女はすごく我儘です。そうして「七人の女房を殺しておくれ」と言い、男はためらいますが、女の執拗な要求にこたえ、次々と殺していきます。首がコロコロと転げていきます。

最期のビッコの女だけは女中に残すというので助けました。

男は、自分が怖ろしくなりますが、女の美しさに吸い寄せられて動けません。

男は、あたり一帯は自分のものだと自慢し、女のために美味しい御馳走をふるまいますが、女は単調な山の生活が嫌いです。男は、櫛やかんざしこうがいや紅、など自分にとって不要なものが、女が纏うことで、美が完成することに嘆息をもらし、物のひとつひとつに命があることを知ります。

女は「私を都へ連れて行き、お前の力で私の欲しいもの、都の粋を飾っておくれ」と甘えます。男は、女の希望にこたえるために、都へ行くことを決めました。

男は、女と都へ行く前に桜の森に一人で行きます。桜の森は満開でした。

花の下の冷たさははてのない四方からどっと押し寄せ、身体は風に吹きさらされ透明になり、風はゴウゴウと吹き通ります。

彼は泣き、祈り、もがき、逃げ去ろうとしました。花の下を抜け出したとき、夢の中から我にかえった気持ちになりました。

山賊の男と美しい女とビッコの女は都に住みはじめました。

男は女の命じるままに着物や宝石や装身具を盗みます。しかし女が何より欲しがるのは人間の首でした。家には首が集められました。

女は、毎日<首遊び>をします。家族同士に見立てたり、首が恋をしたり、失恋をしたり、騙されたり、死のうとしたりと、架空の物語に興じています。

男は都を嫌いました。人を殺すことにも退屈し、女の欲望にキリがないことにも退屈しました。男は都に暮らすことで、始めて孤独というものを知ります。

空は昼から夜になり、夜から昼になり、無限の明暗が繰り返します。こんな毎日が耐えられません、こんな毎日を終えるには、女を殺しでもしなければ終わることが無いと思います。

男は、鈴鹿の山の桜の森のことを突然、思い出します。あの山の桜の森も花盛りに違いありません。山へ帰ろうと思います。男は「俺は山へ帰ることにしたよ」と言うと、女は「お前が山へ帰るなら、私も一緒に帰るよ」と言います。

「お前と首と、どちらか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ」と言われ、夢ではないかと男は疑りました。

やがて桜の森が眼前に現れてきます。男は満開の花の下へ歩きます。あたりはひっそりとだんだん冷たくなっていき、女の手が冷たくなっているのに気がつきました。男は女が鬼であることを知ります。

突然どっという冷たい風が花の下から四方のはたから吹き寄せました。背中にいるのは全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、髪の毛は緑でした。鬼の手が喉にくいこみます。

何とか鬼を払い落とすと、今度は男が鬼の首をしめました。ふと気づいたとき、男は女の首をしめつけ、女は息絶えていました。

女の死体には幾つかの桜の花びらが落ちてきました。男は女を揺さぶり抱きましたが無駄でした。男はわっと泣き、背には白い花びらがつもっていました。

男は桜の森の満開の下にいつまでもいました。

女の顔の花びらをとってやろうとしたときに、女の姿は掻き消えて幾つかの花びらになっていました。

その花びらを掻き分けようとした男の手も、身体を延ばしたときにもはや消えていました。

 あとには花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりでした。