坂口安吾『文学のふるさと』解説|絶対の孤独を、生き抜くために。

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本作品のメッセージと感想

『文学のふるさと』と題されたこの随筆は、坂口安吾の創作のみならず生き方の原点となっている。

安吾の「ふるさと」の考えには回帰願望のようなセンチメントは無い。ものごとの始まりのような原始的な精神の風景である。

そこで赤頭巾の童話や、鬼瓦の狂言や伊勢物語の説話を引いてきて、アモラルのなかにモラルを見いだすという逆説的な立場で真理を探す。

そして、プツンと切られた空しい余白に、静かで透明な、せつない『ふるさと』が在るとする。そしてその突き放されたものを捉えることこそが『文学』であり、安吾の『文学のふるさと』となる。

この随筆は、戦後ではなく、戦争中に書かれたものである。安吾の思索には印度哲学仏教の観念が影響している。それは決して日本仏教の悟りという生の理想ではなく、死を通じて生に迫ろうとするものである。安吾は哲学及び宗教的な思索をする人でもあった。

随筆『堕落論』『続堕落論』にも、小説『白痴』や『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』にも、さらに安吾の作品世界には『文学のふるさと』が通底していることが分かる。

裕福な旧家の生まれながら、どこか悲しみを湛え、同時に不良少年だった。やがて実生活においても乱暴な無頼さと神経の細やかさという両義性を持ち続ける。これが安吾の感受性である。

戦中と戦後の日本の大きな転換のなか、混沌の渦中に自らを投じ次々に意欲的に創作を発表し続けた安吾の人生は、きっと『文学のふるさと』を原点に、自身を見つめ、世相を懐疑し、真理を求めて生き抜くために思索し、その絶対の孤独と自由を糧としたのでしょう。

所謂、モラルのなかの文学の世界では異端だが、安吾の問いかけはアモラル(道徳や倫理を超えたもの)のなかにモラル(道徳や倫理)を浮かび上がらせて、読者の胸を打ち、今尚、現代においても響き続けている。

坂口安吾『堕落論』解説|生きよ堕ちよ、正しくまっしぐらに!
坂口安吾のエッセイ『堕落論』。歴史のなかに日本人の本質を紐解き、披瀝しながら、ひとりひとり自らが真理を追究する態度を求める。戦争に負けたから堕ちるのではない。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。正しく堕ちることでのみ、人間は救い得るとする。
坂口安吾『続堕落論』解説|無頼とは、自己の荒野を生きること。
『堕落論』から8か月後に発表される。大きな反響をえた前作を受け、再び天皇と日本人の精神性に対する考えを展開する。戦時中の道徳や戦陣訓、そして戦後の荒廃に対する安吾の視点は深い。安吾の文学論とも繋がる堕落について『続堕落論』を解説する。

発表時期

1941(昭和16)年8月、『現代文学(第4巻第6号)』に発表。坂口安吾は当時35歳。同年12月8日、真珠湾攻撃。安吾はこの報を小田原で聞く。翌1942(昭和17)年3月に『日本文化私観』を「現代文学」に、11月に『青春論』を「文学界」に連載。