生まれ育った故郷の喪失 、あれほどに憎んだ父浜村龍造の死。母系で包まれた路地を失っていくなか、幾百年千年と続く山の神話のなか、歴史に繋がる父系の時間を思う。路地の消滅と、突然、自死した龍造に、自己のそれぞれの系譜をも断ち切られ、秋幸は孤独と虚無の果てを生きていく。
登場人物
竹原秋幸
主人公で二十九歳。母親フサと浜村龍造の間に私生児として生まれる。龍造への憎しみから義妹のさと子を姦す。また龍造の次男で腹違いの弟秀雄を石で打殺し三年服役。出所後、生まれ住んだ路地は消え再開発で様変わりしていた。秋幸はフサのもとには帰らず、浜村木材で材木屋見習いとなり、有馬の小屋で質素に一人暮らす。
竹原フサ
秋幸の実母で六十を過ぎようとする。先夫の西村勝一郎との間に五人の子供を産み、末子は幼くして亡くなる。フサの母系の血で繋がるたくさん子供たちがいる。現夫の竹原繁蔵と出会う前に、浜村龍造との間に、秋幸を私生児として産む。繁蔵の連れ子の文昭は、血の繋がらない秋幸の兄となる。
竹原繁蔵
フサの再婚相手で、秋幸の義父にあたる。六人兄弟の次男で兄の土方請負業の竹原組で働くが、喧嘩別れの後、独立。前夫との間に四人の子供を持つフサは、私生児の秋幸のみを連れ、繁蔵の連れ子の文昭と母一人子一人、父一人子一人の五分と五分の関係で再婚。全ては半分ずつという約束で所帯を持つ。土方請負業の親方だったが、現在は息子の文昭へと代を継いでいる。再開発会社の役員になり、フサの三女美恵の夫の実弘と共に路地の家を立ち退かせて、土地再開発の仕事を請け負い路地を消した。
文昭
繁蔵の連れ子で三十一歳。繁蔵がフサと再婚したことで秋幸とは異母兄弟となる。実母は旅役者と行方をくらませた。その後、繁蔵の姉ユキが文昭の世話をする。父の後を継ぎ竹原建設を経営する。日雇いから月給制にし、土方の組合を結成させ、コンピューターを導入するなど近代化をはかる。土地改造の勢いもあり繁盛したが、次第に資金繰りが怪しくなり、借金を重ね手形を乱発し経営危機に陥る。
美恵
フサの産んだ次女で実弘の妻。秋幸の種違いの異父姉になる。繊細な神経の持ち主でカンが強く体が弱い。夫実弘の土方請負業を支えていたが、再開発で路地から立ち退き、山際の立派な家に住み、土方成金の夫人として女中を雇い金廻りのいい暮らしをしている。
実弘
美恵の夫で昔は土方請負業の親方をしていたが路地の開発会社の役員になり、路地の一軒一軒を説得し立ち退かせ、家を取り壊し山を取り壊す。現在は、土地再開発の仕事を請け負い裕福になっている。美恵と共に夫婦で不調を訴え、地霊の祟りではないかと思っている。
徹
繁蔵の兄の仁一郎の妾腹の子、秋幸の一つ下で従弟にあたり、同じ土方仲間で子供の頃から秋幸とは遊び仲間だった。白痴に子を孕ませ姿を隠し、路地が消えて戻ってきたが、叔母のユキとさと子に「水の信心」に引き込まれ、白痴の女の子とその生んだ子の祟りから逃れるために、何日も断食させられ竹ぼうきで打たれ病院で療養をしている。
ユキ
繁蔵の実姉で六十を越える老婆ながら白粉を塗り口紅を引いている。竹原の家が貧しく十四歳で女郎に売られた。そのせいかひねくれている。弟の仁一郎が身請けに来て新宮に戻った。噂好きで白痴を姦した徹を秋幸の仕業と嘘を伝え廻った。「水の信心」にさと子と共に熱心で、甥の徹を引き込む。
郁男
フサの産んだ長男。秋幸の種違いの異父兄になる。妹の美恵が実弘に嫁ぐと、一人路地に残り家を養鶏場のようにした。刃物や鉄斧を持ってフサと秋幸の前に何度も現われ殺すと脅迫したが、二十四歳の三月三日に路地の家の柿の木に首を吊って死んだ。秋幸は郁男の死は自分が生まれたせいで起こった出来事だと自責の念に苛まれ、大きなトラウマになる。
洋一
繁蔵の弟の文造が、養護院からもらい受けた里子で、文造が癌で死んだあと、繁蔵が引き取り育てている。秋幸とは二十一離れた義理の従弟にあたる。今は良一に可愛がってもらっている。
浜村龍造
秋幸の実父で浜村木材を経営し高台に住み裕福に暮らしている。現在は育英資金に寄付したりライオンズクラブの名士だが、フサが秋幸を身籠ったときは博奕の喧嘩で刑務所にいた。有馬の出で乞食同然の生活を祖父と送った。佐倉の番頭から一本立ちして成り上がった。ヤクザ者で人に忌み嫌われ悪逆の限りを尽くし、脅迫、放火、人殺しをしたと噂される。路地の所有権を佐倉から脅し取り二十年前から龍造のものになっている。自らは織田信長の軍に破れた戦国武将、浜村孫一の子孫と嘯くが、人々は嘲笑しながら「蠅の王」「蠅の糞」と渾名する。秋幸に次男秀雄を殺されたが、それでも秋幸を浜村木材に迎い入れ後継者と考えている。
友一
龍造と本妻のヨシエの長男で二十六歳。秋幸の腹違いの義弟にあたる。友一は弟の秀雄を秋幸に殺されている。父の浜村木材を手伝い、迎い入れられた秋幸に敵愾心を持っている。父龍造が死んで経営を引き継いだ友一は、龍造が更地にしておいた路地を売り払おうとする。
佐倉
脂気の抜けた銀髪の男。新宮の大きな材木商でたくさんの土地を持つ地主。龍造を番頭に雇い悪逆な手法で路地の人々から土地を取り上げていった。現在、土地再開発を進めている。佐倉の家系は、神官、木こり、神社の奴婢と諸説あった。かつて医者だった叔父が天子様暗殺謀議事件で処刑されており、無実の罪を着せられたことで、佐倉は路地の人々に恨みを持っている。
友永
材木商の友永山林の友永仁一郎の息子で秋幸の高校時代の同級生。若旦那と呼ばれている。事務所の裏の採光を凝らしたテニスコート付きの家に住んでおり、アメリカ人の叔母や洋行帰りの従妹たちとテニスを楽しむ。もともとの親の出自は、“頬っかむりの友” と呼ばれた山賊だった。台湾の取引先である独立運動家のチェンや同級生が集い優雅な暮らしを送っている。
六さん
友永山林で働く。山の中で一人仕事をしている奇特な男で、廃村の小屋に棲み背が低く華奢な子供のような体つきで、雑木山を切り拓き、杉の苗を植え、檜の苗を植えたものに植林をする。山でケガをして秋幸に助けてもらい恩義を感じる。
良一
竹原建設とは競合する別の土方の組で現場監督をしている。妾の子で捨て子だったのを拾われ育てられた。子供の頃、秋幸の忠実な部下で「秋幸隊長」と呼んでいる。良一の母親は、路地に住んでいたモヨノオバだとヨシ兄はいう。
紀子
材木商の十和田屋の一人娘で二十三歳。秋幸と結婚の約束をしていたかつての恋人。秋幸との間に身籠り産んだ三歳になる光男という男の子がいる。材木商の後を継ぐために番頭と渋々結婚をしたが、今尚、秋幸に思いを寄せ男女の関係を持ち、愛し続けている。
モン
新地で飲み屋を営み三十年前から変わらず肥っている。新地が取り壊されて別の場所に移るが、路地の者とは昔からの顔見知りで、龍造やヨシ兄は若い時分からの付き合いで、秋幸や秀雄やさと子なども幼い頃から知っており昔を偲び懐かしがる。馴染みの繁蔵の姉のユキや、龍造の妾腹のさと子がよく訪れる。モンも「水の信心」に凝っている。
さと子
龍造が妾のキノエに産ませた子で二十八歳。秋幸の腹違いの義妹にあたる。子供の頃、龍造から逃れるために養護院で育てられていた。新地で娼婦として働きモンとも仲が良い。龍造への復讐を謀った秋幸を兄とは知らず性的な関係を持ってしまう。一時、紀伊半島の山奥に住んだが、新宮に戻りパン屋で働き、いまはスーパーマーケットでアルバイトをしている。現在はいかがわしい「水の信心」に凝り、体の穢れを落とす信心をして師範格になっている。
秀雄
龍造と本妻のヨシエとの間に生まれた二男。秋幸にとっては腹違いの義弟にあたる。仁一郎の初盆のとき川原で秋幸に石で投打され殺される。十九歳だった。
ヨシ兄
もともとは路地の井戸のそばに住んでいた筏師で今は浮浪者となっている。土地改造で更地になったかつての路地に多くの浮浪者と集まり明け渡しに反対している。龍造とは昔、つけ火をして廻った仲で、背後に龍造がいると噂される。アル中と覚せい剤中毒の幻覚で、自分をジンギスカンの血を受け継ぐ末裔だという。浜そばに三男の鉄男とともに住んでいる。
鉄男
ヨシ兄の三男の息子で十六歳。高校をやめている。上の二人と母親が違う。母親は性悪女で鉄男を産んで籠の中に入れ置き去りにして逃げた。詩を書きギターを弾き、ヨシ兄にシャブを打ってやっている。知能水準は二百を越えるとヨシ兄は自慢する。秀雄の跡を継いで暴走族の頭をやっているが、秋幸の下で山仕事を手伝う。両親がいる普通の暮らしなら優秀な生徒として進学できたが、ヨシ兄とスエコのような間にあっては望むべくもなく、だれも鉄男の優しさや感性を分からない。
スエコ
もとは路地に住んでいた。今はヨシ兄たちがたむろする路地後にテントを張り住んでいる。月経が止まり、ヨシ兄が産婦人科に連れて行く。もう歳なので閉経と思ったが、ヨシ兄の子を身籠っていた。
桑原
桑原産業を経営する家の三男。父親は昔、龍造の仲間で、板屋の鉱山で監督をやっていた。今は市内のデパートを経営し跡地開発会社にも出資している。
二村
新宮の市長で成り上がり。当選してから高速道路を国に圧力をかけて決定し、原子力発電所建設を可決し、リコールを乗り切り市長の座を守った。土地大改造の指揮は佐倉が取っている。
斎藤久美・保
秋幸の同級生の田城が結婚した女で、兄の名は斎藤保。日輪教の信者だった母親が山の湧き水が身体によいと勧めたのが「水の信心」の始まりで、田城夫婦の家が道場になり、保が神様で、久美が神の妹で、母親が最初の信心者となった。母親を死からの復活として、信仰で衰弱死させ事件となる。
あらすじ
路地は消え更地になり、人々はすべていなくなっていた。
秋幸は二十九歳になっていた。三年の服役を終え大阪の刑務所を出所して、南紀・田辺から中辺路を通り、山仕事をする六さんに会い、そして路地に帰ってくる。
紀州・新宮は、原発建設や高速道路などの再開発で「路地」は取り壊され更地となっていた。実弘も繁蔵も跡地開発の会社の役員となり、市街地開発の仕事を請け負い裕福になっている。
土地成金になり高台に家に住む美穂、義兄の文昭も金を得て、コンピューターで管理する近代的な経営は土地改造ブームで繁盛しており、何もかもが変わっていた。
フサは秋幸が土方の親方になるため金を蓄えていたが、昔ながらのやり方の秋幸は時代遅れを感じる。路地も土方仕事も過去のものとなった。秋幸は龍造の経営する浜村木材で山仕事を手伝う。山林は土方とは異なる仕事であり商売だった。
二十四歳のとき、龍造への復讐のため義妹のさと子を姦し、二十六歳のとき、義弟の秀雄を殺してしまった。秋幸は若気の分別の無さ、思慮の足り無さを思う。ただ龍造への蟠りは消えたわけではない。しかし憎しみと同時に、実父龍造とは何者なのかを知りたいとも思った。
二十九歳になって、秋幸は秋幸にすぎず、自分が自分であればいいと思う。
龍造は「土地も、財産も、龍造自身すらも秋幸のものだ」と言い、出所した秋幸を迎える。佐倉の番頭時代から悪の限りを尽くし、成り上がり分限者となった龍造の真意は分からない。
路地後は有刺鉄線が張り巡らされ雑草が繁る。路地だけでなく新地も山も消えていた。
かつて木場引きや、下駄直しが路地に住んでいたが、バラバラになっていた。代わりに浮浪者や流れ者が棲みついた。彼らは跡地開発を妨害する。龍造の朋輩で若い時分に、共に悪事を重ねたヨシ兄は、アル中と覚せい剤中毒の幻覚で自分はジンギスカンの血が入っていると喚く。
ヨシ兄は息子の鉄男を龍造に百万円で売り、秋幸は鉄男と若衆を連れて山仕事をする。龍造はそんな秋幸を見ている。ヨシ兄は路地後にテントを張り、開発側と諍いを繰り返す。
酒とつまみを出す店のモンは、そんな龍造やヨシ兄の若い頃からの顔馴染みで、昔を懐かしみ、幼い頃から知る秋幸や良一も感慨ひとしおに思う。
路地や周辺が消え、そこで生きてきた人々は穢れを祓うように「水の信心」に熱中する。男相手の商売をしてきたさと子やヨシエは率先して身の穢れを清め、モンも付き合っている。
秋幸は今では材木屋の番頭の人妻となった紀子と時々会って体を重ねる。紀子も三歳になる秋幸の子を育てながら、変わらず秋幸を愛しつづける。
母系の血族の路地から、古の山々に父系の血族の歴史を思う。
秋幸は何故 土方を辞めて浜村龍造のもとに来たのかを自問する。秀雄を殺した償いというのも嘘になるし、架空の遠つ祖 浜村孫一を信じ仏の慈悲に満ちた理想の里を熊野につくる熱意に憑りつかれたわけでもない。
路地は実弘と繁蔵が、佐倉や龍造の指示で僅かばかりの立ち退き料と、代替えの安いアパートを用意して、ブルドーザーを入れショベルカーを入れ消し去り、空き地と化した。美恵と実弘、母のフサと竹原建設が路地を消し、山を削る側に廻るとは思いもしなかった。
路地の男として路地に生きると思ったかつての秋幸は、路地を消しゴムで消そうとした龍造のみならず、実弘も繁蔵も、その女房の美恵やフサも皆、納得できなかった。
路地が消えたのなら、血のつながりも消えるべきだと考えた。
秋幸は、龍造とともに十日間、山歩きをする。裸になり渓谷に浸り、龍造は「これで山のカミの婿殿じゃ」と言う。秋幸の思いは土地の熱狂から、山の神聖に変わっている。そこには何人もの敗れ虐げられた男たちが死んで霊となって棲んでいる
土地には浮島の大蛇伝説の話があり、ジンギスカンの話はヨシ兄やスエコが、その他はよそ者の流れ者が持ち込んだ、水の信心は老婆が始めた。秋幸が愛したものや懐かしいものは、在ったことがまるで幻のように消えていた。
良一はそれを「土地の霊魂」だと言う。そして「土地に火が放たれるのは、土地そのものが要求することだ」と言う。
路地に生きた者は簡単に鳥の餌食にされてしまう虫だった。浜村龍造はかって虫の一匹として路地に入り込み虫の一匹を「一滴の精子の提供者」として受精させ、外へ追い出された。浜村龍造にとって「路地は憎悪の対象」だった。
龍造は悪事を働いたが、それは生きるためで、子孫に継ぐためと考える。龍造はそのことを「無垢で正しいことだ」と思う。そして龍造は「過去を消したい」と言う。
水の信心の老婆たちが話す昔話では、龍造もまた有馬の路地で祖父と乞食同然の貧しい生活を送った。龍造は、路地もその記憶も全て消し去りたかった。
龍造と秋幸と友一はシシ狩りに行く。龍造は秋幸を、秋幸は龍造を、そして友一は秋幸を、それぞれに殺意を持つと同時に、秋幸は、浜村龍造が秋幸に殺されたがっている気がした。
モンの店で龍造はヨシ兄らを呼び、秋幸や友一やユキとシシ肉を焼いて食べる。鉄男がやって来て拳銃で龍造を狙う。龍造をかばうヨシ兄を「裏切り者」と叫び、鉄男は撃ってしまう。それは鉄男のヨシ兄の “父殺し” であった。秋幸はその気持ちを理解できた。
翌日、秋幸は浜村龍造の家に行く。龍造は秋幸の気配を感じ、防音装置を施した暗い書斎で秋幸の視線を感じながら首を吊り自死する。秋幸は「違う」と叫んだ。
そうして心の中で、自分がそっくり浜村龍造に変わっていると思う。三歳で別れたその男が何だったのか、すべて知ったと思った。
秋幸は自分が浜村龍造の息の根を止めた張本人だと思った。兄弟の中でいちばん親を考え、親を愛し、愛おしいと思っていたのは自分だと思った。
鉄男に撃たれたヨシ兄も手術の甲斐なく息をひきとる。ヨシ兄は秋幸にとって路地の象徴だった。
気がつくと路地が燃えている、何者かが火を放ったのだ。路地の一面の枯草が炎を上げている。見つめていると、そこにはかってあった路地の家々が立ち現れるようだった。