中上健次『地の果て至上のとき』あらすじ|路地が消え、虚無を生きる。

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解説

自然と肉体が一体化する土方仕事から、山仕事で神の聖性を受ける。

前作の『岬』『枯木灘』までは、秋幸にとって土方の仕事は葛藤する自己を束の間、忘れさせ慰藉してくれるものだったが、出所して、消えた路地や近代化された土方仕事を目の前に、秋幸は二度と土方に戻ることはないと考える。

秋幸は龍造のいる浜村木材で山の仕事に就く。そこは「木の国」の富を産む場所だった。幾百年千年の長い時間を経た山林があり、人間の僅か限りの時間との違いを感じ、山は解き難い謎として人間との間に距離を置く。ここで秋幸の考え方は変わる。

山に従事するものは男衆であり、山々は龍造の所有である。神秘的な聖性が宿る。

これまでの「路地」は貧しくはあったが共同体に育まれ、母フサに育まれた母性としての存在だった。路地は母系社会であった。『地の果て至上の時』で、秋幸の視点は「路地」から「山林」に移動する。

秋幸にとって「路地」での土方仕事が自然と肉体の一体化なら、謎深い「山林」は人間と距離を置く、歴史という長い時間の営みである。 それは隠国・紀州の熊の神話に始まる歴史から繋がっていく人々「敗れし者、おとしめられた者、不具の者、異形の者、死んだ者の視線」の幾百年千年の物語の真贋をも含めた連続する威力の男系のなかで、目の前の父龍造を見つめる。

龍造と秋幸、父と子の逆転の関係にみる鏡像と系譜の正統性。

秋幸は父龍造の考えに近づくことで深く知りたかった。山仕事の六さんが怪我をして龍造の家で手術をした後に、龍造は医者に、これが恋焦がれた秋幸だと言い奇異なことを言う。

「わしのものはなにもかも秋幸のものじゃ。土地も財産もこの浜村龍造さえ秋幸のもんじゃ」

このように秋幸を後継者と公言する。そして秋幸の龍造に対する悪意や反感を探り当てようとする。そして龍造は秋幸に向かって「善人面しくさった大悪党」と言う。

これに対して秋幸は父龍造に向かって「龍造よ」と言う。父子の逆転である。すると龍造は、

「秋幸、おまえこそおれのうつじゃ、龍造はお前の子供じゃ、と御先祖様が言うんで、おれが阿保ぬかせとどなると、孫一のやつは何十代もの血の流れで一代ぐらい逆さまになってもかまうものかと言うんじゃ」

と不思議な言葉を放つ。そして電話をかけてきたフサに対して、

「秋幸さんはわしの子じゃない、わしの親じゃ」

と龍造は言い、フサから何を世迷言をと言われてしまう。 

極貧の中で「どこの馬の骨」とも「蠅の糞の王」とも蔑まれた男が、悪事を働きながら今では分限者となっている。名士である。仏の国をつくると立ち向かった浜村孫一は破れて落ちた。龍造はその子孫だとうそぶき、嘲笑されても意に介さない。

ここに倫理は無い。龍造は、悪でなぜ、非道でなぜ、いけないのか? 大切なことは強く生きて力を継承することであると考える。その後継者として秋幸を指し示している。

秋幸はその生き方を理解できるが、認めることはできずに、自分はその選択はしない。

秋幸は「路地」が消えたことで、秋幸もまた死んだと考えた。

秋幸は鉄男が盗んだ拳銃を買い取り、隠し持つ。それは龍造への殺意の表れでもあった。龍造はシシ狩りの場などを通じて秋幸に父殺しを挑発しながら、最終的には秋幸にその最期に立ち会わせながら首を吊り死ぬ。

「違う」秋幸は一つの言葉しか知らないように叫んだ。

龍造の死に立ち会った秋幸のこの言葉に去来するものは、いったい何だったのか?

龍造の自死は、秋幸が考える龍造への復讐の形ではなかったことに気づく。龍造の「一滴の精子」から産まれた兄弟のなかで最も、龍造を愛したのは自分だと分かった。

龍造は秋幸自身であり、秋幸は龍造の影であり、鏡像であることを知る。

秋幸の実父への愛憎、母性のなかでの父性探し、懊悩する心が願った父子の血の断絶ではあったが、その結果は、すべてが無に帰すことを意味した。

龍造が路地を取り壊し、秋幸が路地に火を放ち無に帰す。

龍造は有馬の成り上がり者と侮辱され、フサにはどこの馬の骨とも分からぬ者として、新宮の路地から追い出される。龍造は路地を佐倉から奪い取り、繁蔵や実弘の会社も使って取り壊す。路地への復讐である。繁蔵や実弘も自らの裕福のため路地の取り壊しを商売にした。

一方の秋幸は私生児として生まれたことに懊悩し、自分は路地が孕み、路地が産んだ子だとして路地を愛した。路地だけが秋幸の故郷であり存在そのものだった。しかし出所して目の前にあった路地の変貌は、自己の存在を喪失させる。

人間の力ではなく、ブルドーザーやショベルカーで剥がされていく。そして、一切が架空か幻だったように路地は消え、山は消え、土地の到るところで地表がめくられ赤土が見えている。虐げられたものが肩を寄せ合いながら生きた路地は、近代化の中心地として開発予定の場所に変わった。

秋幸の記憶そのものだった路地は、今となっては幻となった。

それでも路地を所有していた龍造は、路地を更地のままにして手をつけずにいた。そして父龍造は秋幸に見届けさせるように自らくびれ死ぬ。

やがて龍造の朋輩だったヨシ兄も死んでしまう。ヨシ兄は秋幸にとって路地の象徴だった。法的相続者として跡を継ぐ長男の友一は、路地を売り払うという。

路地の共同体は解体され、秋幸は路地に火をつけて、路地の存在自体を無として葬る。

それは「路地」の鎮魂であり、哀悼であり、訣別である。

秋幸は自身の心の中にある「路地」だけを信じ、虚無のなか燃え広がる路地を跡にする。

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作品の背景

秋幸三部作の最初の『岬』は100ページ、続く『枯木灘』は300ページ、そして完結編の『地の果て至上のとき』は700ページ弱となる。さらに、前日譚である『鳳仙花』が母フサの物語として外伝的に描かれている。

『地の果て至上のとき』の前に書かれた『鳳仙花』は、母フサの女性としての半生であり、そこに三人の男と子供たち、龍造と出会った以降は私生児の秋幸とフサの描写を軸に母系の人間関係と、女手ひとつで懸命に生きようとする姿を描いている。

『岬』は私生児として生まれた二十四歳の秋幸が、生きることの葛藤と実父への憎しみ、さらに『枯木灘』では実父龍造への復讐というエディプス王の父子物語を想起させ、義妹さと子との近親相姦、義弟秀雄の殺人という代替行為として「父殺し」を描く。

続く『地の果て至上のとき』は実父龍造への復讐に直接向き合う展開を想定するが、物語は転調し、母性から父性へ、父龍造と子秋幸の父系の世代の逆転が描かれ、その果てにある至上へ向かう。

『岬』『枯木灘』での土方という自然との一体化の中で懊悩する秋幸の自分探しから、『地の果て至上のとき』では路地の消滅と、土方仕事から山仕事という謎深い神聖との距離感、そして紀州の熊野信仰や浜村孫一の歴史のなか敗れし者、追われし者など持たざる者が、悪として成り上がり分限者になっていく姿を肯定する。

物語は紀州熊野を起点にジンギスカンや台湾やアメリカなど広がりをみせ、そして再度、路地に帰還し、秋幸は路地を消して自らも姿を消す。

歴史を逍遥するカタルシスと時空間の連続のなか突如訪れた断絶、その激しい孤独の果てを幻視に生き抜く未来を余韻に物語は完結する。

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発表時期

1983年(昭和58年) 4月、『新潮社』より刊行された長編小説。中上健次は当時37歳。1981年に韓国で起筆され、1982年にアメリカで脱稿された。『岬』『枯木灘』と続く秋幸三部作と呼ばれる最終作である。1993年7月に新潮社文庫となる。

中上の代表作であり、紀州・熊野サーガの中心的な作品となっている。中上の考える自然観と隠国・紀州の悠久の神話的なるものが、熊野・新宮の路地を起点に壮大に描かれた完結作である。