みずきは、あるときから名前が思い出せなくなる。次第にひどくなり病院で診察を受けるが良く解らない。
心療カウンセラーに相談し、面談を重ねていくうちに、ついに原因が判明する。それは猿がみずきの名札を盗んだからだった。人間の言葉をしゃべる猿は、なぜ名前を盗むのか、そのことは何を意味するのか?ユーモア溢れる登場人物たちの会話のなかに人間の心の闇とせつない猿の片思いが浮かび上がる、そんなセラピーな物語。
解説
名前にまつわるみずきの記憶
ときどき名前が思い出せなくなった。<名前忘れ>が始まったのは一年ばかり前から。
彼女の名前は「安藤みずき」、結婚前の名前は「大沢みずき」。三年前に結婚し安藤になった。最初は馴染めなかったが、自分のものとして徐々に受け入れていった。
一年前からその名前は逃げ出しはじめた。とっさに名前を呼ばれたときなどに急に思い出せなくなる。
最初は一ヵ月に一度くらいだったが、今では週に一度、起こる。
すると、みずきは「名前のない一人の女」として世の中に取り残される。
彼女は名前を忘れないようにとブレスレットを買い、そこに「安藤(大沢)みずき」と彫ってもらった。
いい考えだった。
夫には、このことは打ち明けなかった。「結婚生活に不満や違和感を持っているからじゃないかな」と言い出すと思ったから・・・
結婚生活にこれといって不満や違和感を抱いている訳ではない。夫の実家とも問題はない、結婚して2年後には品川に新築マンションを買った。
ある日、品川区の区役所で「心の悩み相談室」が開かれているのを知り、行ってみる。カウンセラーは坂木哲子という、太った四十代後半の気のよさそうな小柄な女性だった。彼女の夫は区役所の土木課の課長をしていて、その関係もあり区の補助で相談室が開けたという。カウンセラーとして正式な資格を持ち、経験は豊富ということで、みずきを安心させた。
坂木哲子は、みずきの現在の生活について、いくつかの質問をした。
結婚して何年?職場や仕事の内容?体調?子供時代のあれこれ-家族構成や、学校の生活、楽しかったこと、楽しくなかったこと。得意だったこと、得意ではなかったこと。
みずきは正直に、手早く、正確に答えていった。
育ったのはごく当たり前の家庭。両親と姉が一人。父親は真面目、母親は性格が細かく、口うるさかった。姉は優等生タイプで、人格はやや浅薄で功利的。とはいえ家族は、まずまず良好な関係で、大きな諍いもない。
結婚生活も、これといった問題は見あたらない。夫は完璧ではないが良いところもたくさんある。親切で、責任感が強く、清潔で、食べ物の好き嫌いがなく、愚痴を言わない。職場での人間関係も問題はない。
みずきは自らの人生の過去と現在を語り、
「しかし、何て面白みのない人生なんだろう」
と改めて感心した。自分の人生にドラマティックな要素がほとんど見当たらない。
二回目の面談で、坂木は「名前に関連して思いだせる出来事って、何かないかしら?」と尋ねる。「自分のことでも他人のことでもとにかく名前に関連して特別よく覚えていること。」
みずきは「ほかの人の名札」について話す。
それは中学から高校にかけて一貫教育の私立女子校の寮での出来事だった。みずきは名古屋に住んでいたが、母の母校である横浜のその学校で生活を送った。それは母の希望だが、みずきも一人暮らしをしてみたいと
思っていた。
みずきは高等部の三年生で、寮生の代表的な役割だった。寮は玄関に名札をかけるボードがあり、寮生はひとりひとり自分の名札を持っている。その名札は、表は黒、裏は赤で名前が書かれ、黒は寮にいる状態、赤は外出というふうに使い、長期間の不在は名札をはずしておく決まりだった。
十月のある日、松中優子という二年生の子が部屋に訪ねてくる。彼女は寮の中ではいちばんの美人で、実家もお金持ち、成績もよく、目立つ子で人気者、ハンサムなボーイフレンドもいた。気取ったところはなく、むしろおとなしく内気なタイプ。
優子は、この時、はじめて話すみずきに、
「みずきさんはこれまで、嫉妬の感情というものを経験したことがありますか?」
と突然、質問してきた。
「本当に好きな人が別の誰かを好きになった」とか「どうしても手に入れたかったものを、誰か別の人が簡単に手に入れた」とか「こんなことができればいいのにと願っていることを、ほかの誰かが軽々となんの苦労もなくやってのける」とか・・・
そういうことって、私にはなかったような気がする
とみずきは答えた。
「自分にはそういうことがいっぱいあります」と優子は言った。
みずきは、特に誇るべきもののない自分とくらべて、何もかもを持っている優子にそれがあることを不思議にも思った。すると優子は、
「嫉妬の感情と共に日々を送るのは、小さな地獄を抱え込んでいるようなもの」
と言った。
そして、「親戚に不幸があって葬儀に出席しなくてはならないので、月曜日には戻るので名札を預かってほしい」と頼む。
みずきが「どうして名札を預けるの?自分の引き出しにしまっておけば」というと、優子は
「いない間に猿にとられたりしないように」
と言った。
翌週の週末、優子は遺体になってみつかる。どこかの森で、手首を切って自殺したのだった。遺書もなく思い当たる動機もなかった。みずきは、結局そのときの優子の名札を返しそびれ、今も持っているという。 カウンセラーの坂木哲子は、
「あなたはほんとうに嫉妬の感情というものを経験したことはないの?生まれて一度も?」
と尋ねるが、みずきは
「ないと思います。たぶん一度も」
と答えた。
犯人は猿、動機は片思い
気になったみずきは家に戻り、押入れの段ボールから名札を入れた封筒を探したが、優子の名札も自分の名札も無くなっていた。それでも週に一度は「心の悩み相談室」に行った。名前忘れは前と同じ頻度で、症状の進行は止まっているようだった。夫には相変わらず黙っていた。
二ヵ月が過ぎた。九回目の面談を終えた。坂木哲子は次回の面談で原因を特定して、実際に見せてあげられるかもしないという。翌週に「心の悩み相談室」に行くと坂木哲子は「私はあなたの名前忘れの原因を見つけた」と誇らしげに言った。
そして、「大沢みずき」「松中優子」と書いてある二枚の名札を見せた。
驚くみずきに向かって、「私があなたのために取り戻してあげたのよ」と坂木哲子は言った。そして「犯人を捕まえた」という。
犯人に会いに地下のエレベーターを降りて部屋に着く。そこに区役所の土木課長をしている坂木の夫とその部下、桜田が待っていた。さらに奥の倉庫のような部屋に椅子があり、そこに猿が一匹、坐っていた。
「猿があなたのところから名札を盗んでいったのよ」
と坂木哲子は言った。
いないあいだに猿に取られたりしないように、と松中優子は言ったが、あれは冗談じゃなかったんだ、とみずきは思った。
坂木哲子は、「猿があなたのマンションに忍び込み名札を盗み出したのよ。それが一年くらい前。ちょうどあなたの名前忘れが始まったのもその頃でしょう?」と言った。 そのとき
「申し訳ありません」
と猿がはじめて口を開いた。「言葉が喋れるんだ」とみずきは唖然とした。
「はい、しゃべれます」
と猿は表情を変えずに言った。
「なぜ名札を取ったりしたの?」
とみずきは猿に尋ねてみた。
「私は名前をとる猿なのです」
と猿は言った。
それが私の病気で、とりわけ心を惹かれる人の名前があると手に入れずには いられないのです。
と猿は言った。 猿は身も世もなく松中さんに焦がれていたという、猿としてあれほど心を惹かれたことはあとにもさきにもありません。猿の身で松中さんを自分のものにすることはできません。
ですから何としてもあの人の名前を手に入れようとしました。せめて名前だけでも手にしたかったのです。
しかしそれが果たせないまま、あの人は命を絶ってしまった。
みずきが松中優子の自殺と猿が関係しているかと尋ねると、猿は、「いいえ」と首を振り「松中さんは抜き差しならぬ心の闇を抱えていた、おそらく誰もあの人を救うことはできませんでした」と話す。そして、
大沢みずきさんの名札も、わたしのささやかな胸を強く揺さぶりました。
と迷惑をかけたことを、猿はみずきに心から詫びた。
名前を盗むことのプラス面
猿は品川区の下水道に潜伏していたという。坂木は土木課の夫に協力してもらったという。猿は高輪あたりの地下に仮住まいをつくり、そこから下水道づたいに都内各所を移動していた。
「こんな悪さをする猿は生かしておいてもためにならんでしょう」と部下の桜田が言うと、猿は「お願いします。わたしを殺さないで下さい」と深く頭を下げて頼んだ。
そして、猿は「人さまの名前を盗むことはいけないことだと認めながらプラスの面もある」という。
それは名前に付帯しているネガティブな要素をいくぶん持ち去ること。
そして、「もし松中優子さんの名前を、あのときに盗み出すことに成功していたら、あくまで小さな可能性としてですが、松中さんはあのように自らの命を絶たずに済んだかもしれないのです」と続ける。
「どうして?」と尋ねるみずきに、
「名前を盗むことに成功していたら、私はそれと一緒に、あの人の心に潜む闇のようなものをも、いくらか取り去っていたかもしれません。私はそれを名前ごと、地下の世界に帯同していくこともできたのではないかと思うのです」
ここで言う地下の世界とは、きっと<潜在意識>のこと。そこに閉じ込める。つまり松中優子の名前を盗むことで、優子は、ときどきに名前を失うことになるが、自分を忘れ、辛いことを潜在意識下に置くことができるという意味 なのでしょうか?
「こいつ命がかかっているから、猿知恵を働かせて必死に言い訳をしている」と桜田が言ったが、坂木哲子は
「あなたは名前を盗むことによって、善きものと同時に、そこに在る悪いものをも引き受けるということなのね?」
と問うと、
「選り好みはできません。そこに悪しきものが含まれていれば、わたしたち猿はそれをも引き受けます。全部込みでそっくり引き受けるのです。」
と言う。
「じゃあ私の名前には、どんな悪しきことがあったのかしら」
とみずきは猿に尋ねた。
そのことをここで話すと、みずきが傷つくことを気にしたが、みずきの構わないからという承諾を得て、品川猿は、話し始める。
「あなたのお母さんは、あなたのことを愛してはいません。小さい頃から今にいたるまで、あなたを愛したことは一度もありません。(中略)お姉さんもそうです。お姉さんもあなたのことを好きではありません。お母さんがあなたを横浜の学校にやったのは、いわば厄介払いをしたかったからです。(中略)あなたのお父さんは悪い人ではないのですが、いかんせん性格が弱かった。だからあなたを護ることができませんでした。そんなわけであなたは小さい頃から、誰からもじゅうぶん愛されることがなかった。あなたもそのことはうっすらわかっていたはずです。でもあなたはそのことを意図的にわかるまいとしていた。その事実から目をそらせ、それを心の奥の小さな暗闇に押し込んで、蓋をして、つらいことは考えないように、嫌なことは見ないようにして生きてきた、負の感情を押し殺して生きてきた。そういう防御的な姿勢があなたと言う人間の一部になってしまっていた。そうですね?でもそのせいで、あなたは誰かを真剣に、無条件で心から愛することができなくなってしまった」
「あなたは現在のところ、幸福な結婚生活を送っていらっしゃるように見える。実際に幸福なのかもしれません。しかしあなたはご主人を深く愛してはおられない。そうですね?もしお子さんが生まれても、このままいけば、同じようなことが起こるかもしれません」
みずきは、身体ぜんたいがほどけていくような気がした。
猿の言うとおりだった、みずきにもそれは分かっていた。でもそれを見ないように、今まで生きてきた。目をふさいで、耳をふさいで・・・
こうして猿がみずきの名札を盗むことで、今まで蓋をしてきた「家族に愛されなかった」記憶を、名前を返すことで再認識させ、「心の闇」と向き合うことになります。
まだ私に相談したいことはあるかしら?
大丈夫です、ありがとうございました。私はそこにあるものごとと一緒に、これからの人生を生きていきます。それは私の名前であり、私の人生ですから。
猿は高尾山へ放たれることになった。別れ際、みずきは松中優子の名札を猿に渡した。「この名札は何よりも大事にします。そして盗みもきっぱりやめます。」猿は約束した。
家に戻り、みずきは猿から返してもらった「大沢みずき」の古い名札と、「安藤(大沢)みずき」の名前が刻まれたブレスレットを封筒に入れ押入れの段ボールにしまった。
ようやく自分の名前が手元に戻って来た。彼女はこれから再びその名前と共に生活することになる。
うまく運ぶかもしれないし、運ばないかもしれないが、とにかくそれが彼女の名前であり、ほかに名前はないのだ。