宮沢賢治『注文の多い料理店』あらすじ|動物を食べるなら、人間も食べられる!

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解説

童話集にこめた宮澤賢治の思いを「序」の内容から読み解く。

童話集『注文の多い料理店』の「序」の部分を引用しながら、込められた思いを確認します。

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃色のうつくしい朝日の日光をのむことができます。

ここから始まる文章には、自然のいとなみやそのなかに見出せるものが対象で、それは素晴らしく、かけがえのないものとして捉えられていることを紹介しています。

ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたしはそのとおりに書いたまでです。

そうして賢治の空想の世界が広がっていきます。自然の中から詩や歌や童話の素材をもらって、そして物語として紡がれていきます。何よりも「あなたもこの世界に入ると同じような気持ちになりますよ」と誘ってくれているようで、自分もそんな世界に参加してみようという気になります。

ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。

自然のなかで感じたものそのままの<心象スケッチ>であるという注釈です。この基底には、生きものそれぞれが大切な仲間であり、人間もその一部であるという賢治の宗教観と、少し謙遜してまだまだ修行の身ゆえすべてが判明していないところもあるとことわっています。そして、あなたにも自ら感じてほしいと呼びかけています。

これらのちいさいものがたりの幾きれが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

この童話集のなかの数篇が、あなたの人生にとって生き方の指針のようなものになることを願っているということです。そして冒頭にかえり “ほんとうのたべもの” というのは “きれいにすきとおった風” であり “桃いろのうつくしい朝の日光” なのです。それは物質よりも自然の恵みのなかの真理を探し得た生き方です。

都会人の勝手気ままな傲慢に対して、仕返しする自然の生物の話。

作品注記に『糧に乏しい村のこどもらが、都会文明の放恣ほうしと階級とに対するやむにやまれぬ反感です』と書いてあります。

ひとりは「何でも構わんから、早くタンタアーンと、やってみたいもんだなあ」と言い、もうひとりは「鹿の黄色い横っ腹に、二、三発お見舞いしたら、ずいぶん痛快だろうね。くるくるまわって、それからどたっと倒れるだろうねぇ」と話します。

東京から田舎の山奥に狩りにきた金持ちの青年二人。人間の傲慢さで命をもてあそぶ狩猟であり、動物たちは殺されても構わないという考え方です。

大正のこの時代は、恐慌がおこり、貧しい村の暮らしはさらに一層、厳しくなります。信仰心を持ち、農民と共に生きた賢治はその苦しみや不条理を知っていました。

都会文明の名のもとに、勝手気ままに自然を汚したり、生きものを殺生する姿勢に、強い反撥はんぱつがあったことでしょう。人間を<主体>として、それ以外は<客体>で何をしても許されるとする自己中心主義に反感を持ち、<主客を逆転>させてみる。

自然の心象をスケッチする賢治にとって、「注文の多い料理店」は、人間が山猫に食べられようとする話になりました。自然の脅威や怒りを童話の世界にして届けます。

案内人は消え、二匹の犬も泡を吐いて死んでしまいます。不道徳な狩りの次は、ただ空腹を満たしたい二人。どこまで行っても自己欲求だけ。そこに現れた西洋料理店<山猫軒>。次第に異変に気づいた二人は、命を奪われる側の恐怖を味わいます。

まさに食べられそうになったすんでのところで、催眠から目覚めます。それでも味わった恐怖で、紙屑かみくずのようにくしゃくしゃになった顔は、東京に帰っても風呂に入っても元には戻りませんでした。山の霊のおそろしさといましめが、いつまでも二人の記憶に残り続けます。

人間と動物の不思議な逆転の話ですが、自然が傲慢な二人を異界に誘惑してこっぴどく懲らしめます。

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作品の背景

宮澤賢治は、1896年(明治29年)、岩手県花巻の裕福な家に生まれています。幼少のころから鉱物、植物、昆虫などに熱中します。この「注文の多い料理店」は、賢治の唯一の童話集です。自然界の “いのち” は、どれもみんな人間の “いのち” の大切さと同等であるという考え方です。

1920年10月、賢治は国柱会に入会、法華文学はその布教の活動のひとつでもあります。国柱会は元日蓮僧侶の田中智学により「我日本の柱とならん」から命名、創設された法華宗系在家仏教団体です。お題目は “南無妙法蓮華経” で、仏教の輪廻転生の生まれ変わりを信じていた賢治は、人間の心は過去からの無数の生物の記憶の集積と考えます。

そこで心に起こる現象を記録すれば、それはあらゆる生物の心の集合体であることの証明で、世界がひとつの心をもつという理想社会に近づけると考えます。それが賢治の童話の根幹にあり“法華文学”でもあります。

有名な「雨ニモマケズ」は、そんな自己犠牲の精神の自身への訓戒でもあります。そして賢治はその自然のテーマを文科ではなく理科の眼で、自然の仕組みの中に、人間も自然科学のなかのひとつとして組み込まれるイーハトヴの世界となっています。

発表時期

1924年(大正14年)12月1日、盛岡市杜陵出版部、東京光原社から童話集『注文の多い料理店』が刊行される。宮沢賢治は当時28歳。初版1000部のうち100部を印税にかえ受け取り、その後、売れ行きが芳しくなくさらに200部を買い取る。初版本の「イーハトヴ童話」の副題がついている。先立って4月には『春と修羅』が刊行されている。前年には、この「イーハトヴ童話」の「序」が書かれている。

尚、「注文の多い料理店」は東京にいた賢治が、妹トシの病気の知らせを受けてトランク一杯の書きためた原稿をもって帰郷したときの25歳の11月に書いている。その生涯を法華経信仰と農民生活に根ざした創作を行う。