三島由紀夫『金閣寺』解説|認識か行為か、文武両道を生きた三島という虚像

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本作品のメッセージと感想

美の象徴の金閣を、焼かねばならない心理の流れ

溝口は、現実よりも観念の美としての金閣寺が常に存在し自己を支配しています。さらに自分が負っているハンディから外界と繋がれず孤独を感じています。

そして女性と関係しようとすると、必ず金閣が現れて邪魔され溝口は不能になります。やがて金閣を焼き尽くそうと試みます。炎のなかで美の魔力に魂を奪われ、究竟頂で死のうと一瞬考え拒絶されます。その心理の流れを以下に、追ってみます。

1.絶対の美である心象の金閣の幻影が自然のあちこちに現れます。

昔から父に「金閣寺ほど美しいものは此の世にない」と教えられます。溝口は金閣寺をこの時点では、まだ見たことは無いのですが、田の面の煌きや朝陽の輝きなど、金閣の幻影が現れます。外の世界とうまく繋がれない溝口にとって金閣寺は心象の美そのものです。

2.戦争によって、金閣寺も日本人も共に焼かれるという運命を抱きます。

戦時下の非日常ゆえに、金閣はいっそう輝いて見えます。戦火で「金閣寺も日本も自分も焼かれて無くなってしまう」という同じ運命を感じます。そうなれば吃音症の自身の苦悩も無くなります。戦争が、失われていく金閣の「永続的な美をひときわ魅力的なもの」にしています。

3.戦後に日本人が退廃し、金閣寺だけが美しさを残したことへの焦燥。

敗戦による断絶、頼るべきものを失った日本人。伝統美の象徴である金閣は、米兵と娼婦が訪れたり、不道徳な参観者がいたり、退廃します。溝口の心象の金閣寺は、逆に呪詛の対象になります。美はそこに在り、自分は此方こちらにいて、永遠に拒み続けている感情、金閣と溝口の関係は断たれます。

4.金閣寺を焼くことで、自身の虚無を失くそうとします。

自身の虚無の根源が、金閣の美の構造だったと知ります。伝統に対する愛憎共存のアンビバレントな態度、金閣を焼き滅ぼすことで、自分も虚無の中に没入したいという感情、人間や社会への厭世と、永遠の金閣の美。金閣と自身を失くすことで虚無を失くそうとします。

5.「究竟頂」の扉を開けようとするが、拒まれてしまう。

金閣の最上階、金箔の小部屋「究竟頂くきょうちょう」で溝口は死のうと考えます。しかし扉が開かない。溝口は絶対の美から拒まれます。極楽浄土の天上界は、人間にはふれることができないのです。拒まれていることを意識し戸外に出る。

左大文字山の山頂から炎を見ながら<生きよう>と思います。

ここには敗戦による断絶という裂け目があります。勝者への隷属、そして倫理や道徳の喪失と永遠の伝統美としての金閣の狭間で、愛憎が共存する感情が、突き出てきます。

溝口にとっては、金閣を焼くことが虚無を葬り、絶対を得る方法だったのでしょう。

そして三島にとって、天皇は絶対であると同時に、戦争で命を落とした同世代の一人としての思いを込めていると思われます。

三島が唱えた「認識」ではない「行動」の果てに

<柏木>は「世界を変貌させるものは認識だ」と言い、生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだといいます。

それに対して、<溝口>は「世界を変貌させるのは行為なんだ」と言います。

すると柏木は、君の好きな金閣は認識に守られて眠りを貪っていると思わないか、と反論してきます。まるで三島のなかにある「認識」と「行為」の対決のようです。

金閣という眼前の現実を無にする行為、それは美の総量を失わせる行為であり、同時に、金閣の幻想と共に心中する思いが強く芽生えます。永遠の美の観念を閉じ込めるものです。

溝口は柏木に言い返します。

世界を変えるのは「認識」ではなく、「行為」においてのみである。

ここに三島が二つをいかに捉えたか思わせる随筆があります。後の1968年に発表された『太陽と鉄』のなかで、三島は文武両道を以下のように綴っています。

「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の花とはすなはち造花である。かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求、およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであつた。<随筆:太陽と鉄より>

三島が正気を保つ方法は、その狂気を芸術的に生きてみることでした。この実際に起きた金閣寺放火事件を戦中・戦後を生きた同時代の連帯感として、三島は思想・哲学に替えて作品に描いています。

三島の思いは、彼が愛した葉隠れの武士道精神の究極の忠義としての「諫言かんげん」に近いものと思います。

日本を日本たらしめる文化概念としての天皇。そのために「諫言」することで、『憂国』での、君側の奸を退けようとした青年将校の至誠は、テロルの汚名を越えて、『英霊の声』での、「などてすめろぎはひととなりたまいし」の思いは不敬を越えて、そして『金閣寺』での、金閣ほどこの世で美しいものは他にないとの思いは、戦後日本人の退廃を越えて、心象の美を永遠の絶対としたのでしょう。

三島はこの事件を素材に「認識」と「行為」を文学的に表現しました。

作品の始めで、溝口の性質につて、無口な暴君あるいは諦観に充ちた大芸術家としています。

芸術であるからこそ、最後に溝口を生かしたのかもしれません。そして現実としての三島は行為として武の道を選びます。自衛隊の市ヶ谷駐屯地で天皇陛下万歳を叫び自刃します。

そこで撒かれた檄文の最後に、

生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。<三島由紀夫「檄」>

これが武としての行為、つまりは死を貫いた三島の最後でした。

この作品が発表された1956年は『もはや戦後ではない』と経済白書が高らかに謳った年です。戦後復興を終えて豊かさだけを追求する人々を三島は嫌います。

今も尚、この小説『金閣寺』には、三島の生き様と死に様が二重写しになり、日本という国家の幻影が揺れ続けている感覚に多くの人々が陥るのではないでしょうか。

昭和の元号とともに生まれ戦争の時代を生き、終戦を経験し、戦後体制に絶望した平岡公威という
ひとりの日本人が三島由紀夫という虚像を演じ文武両道を生きぬいてみせたのでしょう。

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