梶井基次郎『桜の樹の下には』解説|絶対の美しさと死は、表裏一体。

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永遠の美は死と繋がっている。

桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。
なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。

引用:梶井基次郎 桜の樹の下には

「桜の樹の下には屍体が埋まっている」で始まる有名な短編。どうして桜はあんなにも美しいのかが信じられない。神秘的な美しさと臭気漂う醜い屍体。生と死、美と醜が表裏が一体であるとして、不安や憂鬱から解放されようとする作者の心境が描かれた作品です。創作への高い意欲を持ちながらも、せまって来る死を見つめる梶井基次郎の眼が、幻想的な桜への心象に対して、「美しさは死とつながっているのだ」と結論づけます。

あらすじ

桜のあの美しさが、信じられないもののようで不安になっていた。

どんな樹の花でもそれが真っ盛りになると、一種、神秘的な雰囲気を撒き散らすものだ。それは人の心を打たずにはおかない、不思議な生き生きした美しさだ。

ただ俺は逆にその美しさが信じられずに、不安で憂鬱で空虚な気持ちになる。

そこで、桜の樹の下に屍体が埋まっていると想像してみる。それは、馬や犬猫や人間の腐乱した屍体で、うじが湧いてたまらなく臭い。

そこから美しい水晶のような液をたらしていている。それを蛸のような根が抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根からその液体を吸っている。あの花弁もしべも、あの屍体からできていると思うと不安から自由になった。

透視術でみると、屍体の養分を毛根が吸い上げ維管束を上がっていくのが見える。あんなに美しい花弁やしべは、水晶の液で作られていくのだと分かった。

これで、俺を不安がらせた神秘から、俺は自由になることができた。信じられないほどの美しさと惨劇の平衡の中でこそ、自分の心象が明確になる。

この渓間で見る鳥や植物は、ただそれだけでは、朦朧とした心象に過ぎない。

俺には惨劇が必要で、目に映る自然の美しさとその裏の惨劇との一体の中でこそ不安がなくなり、そこで美しさがはっきりと表れ見えてくるのだ。

解説

『生』のなかで『死』をどのように受け入れるか。

肺病に侵され自然の中で療養する梶井基次郎にとって、忍び寄る死は大きな不安であり怖れでもあります。まだ多くの作品を書きたいという作家としての創作欲と焦燥感もあります。

交友のあった川端康成への書簡から、題材はこの伊豆湯ヶ島で見た自然ですが、話者の「俺」聞き手の「おまえ」の関係で書かれており、山里の風景や四季折々の花々、生物の営みが、作者自身の研ぎ澄まされた感覚に写されています。

それは末後の眼というよりも、何故、美しいのかという問いや、美しいことへの不安に対して、答えを知りたいとする思索。屍体の存在、その醜なるものからしたたる水晶のような滋養を吸い上げるところを見たという透視術、その養分のおかげで美しくなるのだという梶井自身が辿り着いた真理。

その透明な感性で、不安、倦怠、焦燥をを退け、『死』に 立ち向かい、そして受け入れようとする力強い姿勢です。この「俺」と「おまえ」は、共に梶井自身であり、美しさと死が一体であることを自問自答します。

さらにウスバカゲロウがアフロディーテのように生まれ来て、空めがけ舞い上がり求愛し、その後で、何万匹もの屍体が水面を覆う姿を目の当たりにしたとして、生殖と豊饒そして死という春の美しい惨劇を写実的に描きます。

それは俯瞰的に、すべての人間の営みにも通じますし、何万もの人々が死んでいった戦争の時代の鎮魂かもしれません。

その現実からも、桜の花と屍体、美と醜は一体と確信し、自身を死の怖れから自由に解放します。

空想だとしながらも、この感覚こそが美しさの実相なんだとしています。

幻想的な桜の美しさの所以を、自身に近づく死のなかに見て、絶望の闇から輝く生を掴もうとする想像世界をぜひ味わってみてください。

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