梶井基次郎『檸檬』解説|レモン爆弾が、憂鬱を吹き飛ばす快感。

不吉な塊の爆破

私の心を抑えつける得体の知れない不吉な塊のせいで、私の生活は蝕まれ街を彷徨する。ある時、果物屋で見つけた一顆の檸檬。その単純な色、匂い、重さ、形。この完璧な檸檬が私を重苦しい憂鬱から爽快な気持ちに開放する。レモン爆弾が不吉な塊を吸収し爆破してくれた。色彩を思い描きながら、五感で読み進む美しい感覚の世界。

解説

①得体の知れない不吉な塊とは何なのでしょうか。

広い意味では、梶井基次郎の心を支配する運命で、もっとも怖れるものは死です。

主人公の私は、若くして肺尖カタルや神経の衰弱、そして借金に追われる貧乏な生活を送っています。また一方では、作家としての創作意欲や夢は大きく膨らみますが、なかなか評価は得られませんでした。そこには死の恐怖や重圧や焦燥感があります。

そうして重たく体にこびりつくような心身の疲労に対して、感受性だけが鋭く研ぎ澄まされていきます。今まで自分が幸福に感じていた美しい音楽や、美しい詩の一節にも、こころは休まることなく、この得体の知れない憂鬱な心情は、街を彷徨い続けていきます。

住んでいる京都に、仙台とか長崎とか違う街の、違う風景を重ね合わせ、幻想の街をつくって、そのなかに自分を見失ってしまうことを楽しんだりしています。

生活がむしばまれていないころの以前の私は、書店の丸善が好きでした。

ヨーロッパから輸入された高級なもの。赤や黄のオーデコロンやオ-ドキニン。洒落た切子細工きりこざいくや、典雅なロココ趣味、浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管きせる、小刀、石鹸、煙草などのデザインやフォルムなど。

先進的でモダンな造形美でお洒落な象徴。そうして、高価な鉛筆1本を買う贅沢を楽しみました。ところがそんな丸善の全てが重苦しい場所になっています。

全くそそられないのです。今は小さいころの遊び道具や、京都の伝統の祭りや行事のなかの色彩が、美しく頭の中を巡っていきます。

より普通だったり、俗っぽいもの、自然や日常のモノにある色彩の感覚に寧ろ安らぎを感じます。安くて、贅沢で、美しく、媚びてくるものが、私を慰めてくれます。

例えば、駄菓子屋で売っている花火のセット。安っぽい絵具で赤や紫や黄や青が着色され、縞模様が束になったものに、なぜか心をそそられます。また、びいどろの色ガラスで、鯛や花のデザインをほどこしたおはじきや南京玉。びいどろをなめた時のかすかな涼しい味、ほのかな爽やかな詩の美しさのような味覚を感じます。

②不吉な塊が、檸檬を握った瞬間から緩んできてとても幸福になります。

街を彷徨していると、夜の闇に、ぽつりと佇む果物屋を見つけます。

黒い漆の台の上に果物が、彩り豊かにボリュームたっぷりに並んでいるのを見つけます。夜は、店頭の電燈が驟雨しゅううのように果物に浴びせかけられ、絢爛で、ひときわ美しい。

そこに、珍しく檸檬がありました。ひとつの檸檬の色や形、重さに心身的な安らぎを感じます。檸檬は、全てを凝縮してくれた完璧なものだったのです。私は、あの檸檬が好きだ。

レモンイエローの絵具をチューブから搾り出して固めたような単純な色、丈の詰まった紡錘形の恰好。私は、檸檬をひとつだけ買います。

肺を病み熱を帯びた身体に、浸み透っていく檸檬の冷たさが、とても心地よい。鼻に近づけ匂いを嗅ぐと産地を思い起こし、強い匂いが鼻を刺激します。ふかぶかと胸いっぱいに匂やかな空気を呼吸すると、病気の身体が元気になるようでした。

そうして、幸せな気分で街を軽やかに興奮に弾んで闊歩します。

丸善の前に来ます。平素は避けていたのですが、その時はずかずかと入って行きました。そうすると、今まで私の心を満たしていた幸福な感情は、まただんだん無くなっていきます。香水にも、煙管にも心は向きません。集の棚でも、重たいものを取り出すのがつらい。

以前は、あんなに私をひきつけた画本にも興味がなく、手当たり次第に画本を積み上げ、奇怪で幻想的な画集の城をつくりました。

そして頂に檸檬を据え付けてみます。

檸檬の色彩は、ガチャガチャした色の諧調を、紡錘形の中へ吸収し、カーンと冴えかかっていました。私は丸善の棚へ、黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて出ていきます。

積み重ねられた洋書の上に檸檬がひとつ置かれます。それは秘かに、豊かさや舶来の象徴としての丸善を無きものにする企みでした。10分後、気詰まりな丸善が爆発するのを連想して、とても愉快な気持ちになります。

檸檬に、主人公の私の重圧と焦燥を象徴する丸善を閉じ込めて吹き飛ばす不思議。これで幾分、気分は幸せで軽くなったことでしょう。何という無邪気なたくらみ、そして美しいたくらみなのでしょう。得体の知れない不吉な塊もこの瞬間、粉々になったことでしょう。

梶井基次郎著「檸檬」色彩を楽しみ五感で感じながら読みたい作品です。

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