サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ/ライ麦畑でつかまえて』解説|大人のインチキと闘う、ホールデンという魂。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

作品の背景

サリンジャー自身、1944年6月6日にDデーの作戦に参加している。連隊は3100名足らずでユタ・ビーチに上陸し、6月の終わりまでに2500名が死傷した。このとき『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の6章分を持ち込んでいた。その後もヒュルトゲンの森などの4つの戦闘を経験する。後に発表されたこの作品は、戦争体験からくる心的外傷後のストレス障害(PTSD)や分裂症気味な影響が表れている。

出版当時の1951年は、朝鮮戦争のさなかだった。現在、世界30数か国、約6500万部を売り上げ、毎年50万部以上が売れているとされ、アメリカの青春を象徴する小説である。戦争を描くことなく、戦争のトラウマを思春期の成長の中に描いたこの作品は、国境や人種を越えて、人々に訴えかけている。

主人公の姿は、国の歴史や社会制度を越えて根底から何かを揺さぶる。物語は、子供の無垢な純粋さと、大人の欺瞞に満ちた現実の狭間で、思春期の主人公が子供の心のまま、大人の世界に強い反撥心を描くが、決して凡庸で感傷的なものではなく、因襲道徳の建前や公序良俗の欺瞞を壊そうとする烈しい反逆の行動である。

ホールデンは大人のような巧妙な現実処理の能力はなく、すべてが「インチキ」に見え、その対処方法を持たない。精神と肉体を傷つけながら彷徨う姿は、思春期の象徴的な姿であると同時に、社会の不条理に抗う人々の心の奥の精神かもしれない。そして同時に自身の闇も表出させる。その結果、ホールデンは頭の右半分が白髪になる。西部の病院で療養し、去年のクリスマスの出来事を回想する形をとるが、破滅的な行動の結果、半分は老成したように感じられる。

アメリカはベトナム戦争を経験し、反戦のムーブメントが起こり、傷ついた若者がその後も声をあげたが、結局は、加速するグローバリズムのなかで分断の危機にある。世界も尚、イデオロギーや宗教や地域間の紛争も絶えることはなく、全ての出来事は権力者たちの政治や経済において正当化されるが、一般の人々は多くは犠牲者の側にいる。

そこに潜む「インチキ」に、対処方法を見いだせないたくさんの人々が現実を生きている。

そして誰もが損なわれていく。その意味において、この作品は普遍的であり、決して若者が偽善的な社会に反抗し神経症になっていく短絡的な青春物語ではなく、社会システムの欺瞞に人間として自由を持ち続ける魂のありかたを探すための治癒力をつけるものとして考えたい。

発表時期

1951年(昭和26年)7月、リトル・ブラウン社から出版。最初に持ち込んだ出版社からは、主人公が「クレイジー」と評され突き返されるが、その後、評判になり予測をはるかに超える出版部数を記録する。1941年に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に取りかかり、1951年の夏に完成させた。サリンジャーは当時32歳。

その後、それまでに発表した29篇の短編小説の中から9編を選んだ『ナイン・ストーリーズ』(1953年)を上梓する。引き続き『フラニー』(1955年)、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』(1955年)、『ゾーイ』(1957年)『シーモア―序章―』(1959年)と発表。それらは「グラース・サーガ」と通称され話題を呼んだ。以降、新しい作品は生まれず、1965年に新作短編『一九二四年ハプワス十六日』が雑誌ニューヨーカーに掲載された後、再び沈黙する。

晩年は人前に出ることもなく2010年ニューハンプシャー州にあるコーニッシュにて90歳の生涯を終える。日本語版の題名としては『ライ麦畑でつかまえて』『ライ麦畑の捕手』『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『危険な年齢』などがある。格式と言葉に重みのある野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』(1964年)と現代感覚に通じる平易で読みやすい村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(2003年)と、主に二つの翻訳が楽しめる。