まるで異端審判、神を信じない罪。
第二部では殺人に対する法廷での審議と裁定の模様と、死刑に至るまで。
逮捕され何度も尋問を受ける。“ナイフが向けられたので銃で撃った”という殺人事件であり、警察は興味を示さないが、予審判事が好機の眼でムルソーを観察した。
予審判事は、母親の葬儀でのムルソーの「無感動」を知り、これが最大の争点だという。
弁護士は母親の死に対して「その日苦痛を感じたか」と訊ねた。ムルソーは、自分は深くママンを愛しているが、「健康なひとはだれでも、多少とも、愛する者の死を願ったことがあるものだ」と答える。
弁護士はムルソーの言葉に驚く。裁判でそんな言葉を発したら大変なことになる。ムルソーはただ正直なだけなのだろう。もちろんママンが死なない方が良いと思っている。だが、社会では人前で誰もそのようなことは語らない。ましてやこんな場で・・・。弁護士は興奮して言葉を遮る。
ムルソーは「自分は世間の人と同じ感情だ」と言いたいのだ。しかし世間というものはそのような感情を「表には出さない」のだ。
予審判事は、ムルソーが口数少なく内向的な性格との情報を持っており、それを確認すると、「特に話すべきことがないので黙っている」と答える。
予審判事が問題とする点は「第一発と第二発との間に、なぜ間をおいたのか?」である。
読者は第一部を読み、ムルソーの敵はアラブ人のナイフだけでなく苛烈な太陽であったことを知っている。
この物語は、常に眩しい太陽の光のもとで進行している。
ムルソーは、瞬間、ナイフの切っ先に太陽の光が乱反射し眼を覆われた感じになったのだろう。
太陽の攻撃を払いのけるために、あとの四発が必要だった。
あまりに感覚的であり、それは判事に理解できる言葉ではなかった。
一発目は刃物を向ける相手に対しての正当防衛としても、その後に何故、四発を撃ちこんだかの理由を問われているのである。しかしムルソーは「太陽が眩しかったから」というのが、理由である。
予審判事は十字架を取り出す。彼は法の番人であると同時にカトリックの守護者でもある。ムルソーは法の裁きの前に悔悛を求められる。十字架を振りかざし「人は誰も神を信じる」という信念に、ムルソーは「うんざりしてついていけない」と答える。この会話は規則的にタイプに記録されていく。
何度も予審判事と話すが、ムルソーの答えは同じだった。こうして十一か月が過ぎ、ムルソーは「反(アンチ)キリストさん」と呼ばれ、無神論者として整理された。
物語の題である異邦人(L’Étranger)は、“外国人”という程度の意味のようだ。
ムルソーは自由が無いことが何より辛かった、女への欲望や煙草について制約されることが苦しかった。しかし数か月して「自由人の発想」から「囚人の発想」に慣れてきた。そして、思い出だけが支えとなった。
殺人より以上に、無信仰が裁かれる。
ムルソーはアルジェの重罪裁判所で裁かれる。公判は二日。初日は被告及び証人の審問、二日目は検事と弁護士の弁論、そして判決となる。法廷には陪審員、新聞記者、弁護士、検事、判事たちが登場する。
陪審員はすでに着席しており、母親の通夜に参列した老人たちのイメージと重なる。葬儀が儀式であれば、裁判もまた儀式である。ここでもムルソーは主役でありながらその作法をよく分かっていない。傍聴人席にはムルソーの友人たちの姿がある。
裁判長は「一見無関係に見えるが大いに密接な関係にあると思われる問題」として母親の葬儀でムルソーが示した「無感動」に関心を示す。
「アラビア人の殺害は意図をもって行ったのではなく、偶然だ」とムルソーは言う。
証人は二つのグループに分かれる。
養老院の院長、門衛、ペレーズ。彼らはムルソーの母親の死に際しての態度について証言する。
公判では養老院長はムルソーが冷静だったと証言する。母親の顔を見ず、一度も涙を見せず、埋葬が済むと黙禱もせずに立ち去った。さらに葬儀社の一人から母親の年齢を聞かれても知らなかったと証言する。
検事は勝ち誇った叫びをあげる。
続いて門衛が喚問され、ムルソーが母親の顔を見たがらなかった、煙草を吸い、よく眠り、ミルク・コーヒーを飲んだと証言する。三人目のペレーズは、辛さと苦痛でムルソーの顔を見ることができなかったと証言した。
第二のグループの証人たちはムルソーの友人たちである。
彼らはムルソーに役立ちたいと望むが、セレストは「運命の悪戯だった」と答え、マリイは「結婚する予定だ」と答え、逆になれそめを確認される。マリイは海水浴場でムルソーと再会し喜劇映画を見に行って、夜を伴にしたと語る。
これは検事によって「ムルソーは母の死の翌日、海水浴に行き、女と情事をはじめ、喜劇映画を観て笑い転げた」と組み立てられる。
マソンは「あれは誠実な男」だと述べ、サラマノは「犬の件で親切だった」と答え、「ママンとは話すことがなかったので養老院に入れることになった」と付け加えたが、誰も聞いていなかった。レエモンは「彼に罪はない」と言い、被害者が恨みを抱いたのは自分で、ムルソーが浜辺にいたのは「偶然の結果」だと主張する。
検事は手紙の代筆、警察での証言を受けて、「ムルソーは女衒であるレエモンの共犯者である」と述べ立てる。弁護人は彼が告発されたのは「母親の葬式を出したからか、それとも一人の男を殺害したからか」と反論すると、
検事は「重罪人のこころをもって、母を埋葬したがゆえに、私はあの男を弾劾する」と強引な論法で押す。しかし傍聴席には著しい効果を与えた。
「重罪人のこころ」こそが、問題だとすり替えられる。これは“神を信じぬこころ”ということになる。つまり無神論者だからこういう行為に及ぶということになる。
検事はムルソーが犯罪を計画したことを論証しようと長い弁論を行う。ムルソーは、魂のかけらもない、人間らしいものは何一つない、人間の心を守る道徳原理を一つとして持っていないと糾弾する。
そして人間社会のいっさいの掟に無関心で、社会を滅亡させかねない空虚な心しか持たない人間として「死刑」を要求する。
外国人という程度の意味の異邦人(L’Étranger)のムルソーは、法廷によって、フランス国家の枠組みから外れた異端者とされる。
裁判長はムルソーに動機を確認すると、ムルソーは「太陽のせいだ」と言う。まさに灼熱の太陽が攻撃的な情念を高揚させたのだ。抗うことのできない焼けつく太陽の仕業だったが、当然、この言葉は法廷内の人々の失笑を買う。
この言葉で、ムルソーの殺人は狂者の行為と決定されたはずだ。
午後に入って弁護士のいつ果てるとも知れない陳述が行われる。
弁護士はムルソーの代りに「私」という言葉を使い、私(ムルソー)が人殺しをしたのは事実だが、私は律儀な男であり、会社に忠実で、規則正しく勤勉で、誰からも愛され、他人の不幸に同情深く、力の及ぶ限り長く母親を扶養した、模範的な息子で養老院に安楽な暮らしを期待したと弁論した。
そこには主役は不在で、ムルソーは、この長い裁判にめまいさえ覚え情状酌量を要求する弁護士の声も耳に入ってこなかった。法廷は審問を終えて、陪審員長の答申を受けて、判決が下りた。
裁判長は「あなたはフランス人民の名において広場で絞首刑を受ける」と言った。
フランス人民という獏たる観念と、異邦人を発見し、あるいは創り出し、抑圧し、排除するという正義を、植民地アルジェリアの宗主国であるフランス国家の法の正義として宣言したのだ。
死刑囚となったムルソーは司祭の面会を拒絶する。ムルソーは独房の窓からただ空を仰ぐ。ムルソーは思考する。彼は「絞首刑を逃れることができるか」と考えたが、不可能なことを知る。
「自由の身になる」ことを空想することも、叶わぬことを知る。そしてムルソーは唯一、残された特赦請願を考えてみる。しかしそれは神を認めることを意味する。ムルソーは、すぐに却下して死を受容する。
精神の自由こそ尊いと考える人文主義。
面会謝絶のなか、強引に司祭が入ってきてムルソーと対面する。「神の正義」を語り「神の助けが必要」だと説く。
「僕に死刑を与えたのは人間の裁きだ。自分は有罪とされ償いをしている。これ以上、だれも僕に要求することはできない」とムルソーは反駁する。この感覚は、ソクラテスの「悪法もまた法なり」のように、裁きを否定するが、法には従うというニュアンスに近い。
司祭は「神の裁き」を問題にしている。しかしそれも所詮、人間が作ったものにすぎないはずだ。司祭はムルソーに自分を「父」と呼ぶように求め、「わが子」のために祈ろうとする。否定するムルソーに「神の顔を見よ」という。
このとき、ムルソーの内部で何かが張り裂けた。
怒鳴り出し、罵り、祈りなどするなと言い、消えてなくならなければ焼き殺すぞと、言う。
無口で無感動だったムルソーに、言葉が降りて来る。そして司祭に向かって
「君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかしその信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きていることにさえ、自身がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、きみよりも強く、また、私の人生について、来たるべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕らえていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕らえている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。
と放ち、このあとも言葉の礫は続く、口数の少なかったムルソーの、なんという長広舌だろう。
ムルソーは、まやかしを受け入れない。法律(規範)でもなく、神(教義)の導きでもなく、自らの真理に辿り着き、信念を持ち、何ものにも捕らわれない精神の自由を持ったまま、死を受け入れる自分に辿り着いたのだ。
夜の果てでサイレンが鳴る、それは神とは永遠に無関係な世界への旅立ちを告げていた。
ムルソーはママンのことを考える。人生の終わりになぜママンが「婚約者」を持ったのか、なぜ人生をやり直そうとしたのか、自分が解放される感じ、すべてを生き直す気持ちになったに違いない。誰も彼女のために泣く権利などない、そう考えた。
このことはムルソーもまた、自分が幸せなことを意味する。