中島敦『山月記』解説|虎とは何か、尊大な羞恥心の変態した姿。

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解説

なぜ虎になったのか、そして虎の意味する寓意とは何か?

物語の中の重要な言葉として「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」が出てきます。

「臆病な自尊心」これは、自分の「自尊心」、つまり『誇り』 が傷つけられることの恐さから発する 臆病さ。行き過ぎれば人間的な成長を損なうことになります。

「尊大な羞恥心」これは、自分の「羞恥心」、つまりは『弱さ』を見破られたくないがゆえの傍若さ。行き過ぎれば人間的な関係を損なうことになります。

そして「猛獣使い」とは、この「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を、いかに自我の暴走を抑えて、礼節をわきまえ人と交わるか、世間のなかでうまくコントロールしていくかということになります。

これができなければ人間として社会に適応することが難しくなり、物語では象徴として虎に変わります。尊大な態度ゆえ、獣のなかでも恐れられ、そして孤独で獰猛な虎となります。兎を喰った血が口のまわりにつくことは強者の証ですが、それは畜生界の話であり、人間界ではこれほど嘆かわしく無法なことはありません。

つまり虎は、人間に非ざる生きものの象徴であり、李徴のコントロールのできない自我そのものを表します。

中島敦の表現者の苦悩のかたちとしての、もうひとつの見方。

33歳の若さで亡くなった中島敦は、涙をためながら「書きたい、書きたい。俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまいたい」と言ったのが、最後の言葉だったと伝えられています。

確かに、自我の強さ、そこに潜む「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」は、人の世に適合することができず虎と化しますが、地方役人の職を辞して財産を失ってまで生涯を賭してやりたかったのが詩作の道です。

物語に中に “理由も分からず押し付けられたものを大人しく受け取って、理由もわからず生きていくのが、我々生きものの定めだ” というフレーズがあります。

作者の中島敦自身も、教員の職(公務員)に就き、それから南洋にあこがれパラオに赴き、そこでもうまくいかず東京に戻ります。このパラオの赴任の間に、やっと友人の作家によって推挙された「山月記」と「文字禍」の二編が発表されますが、その翌年には亡くなっています。

また虎になった自分を、何故こんな事になったのか分らないが、どんな事でも起り得るのだと思うと、深くおそれた、というくだりがあります。

当然、病気など誰も望むものではありませんが、中島敦は次第に気管支炎を悪化させます、衰弱する心身にあっても作家として創作の思いは旺盛だったのでしょう。

そして虎になった、その理由として「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」に逆らえない、自我と我儘を持っているからという表現者の苦悩と孤高を自ら選んだことでもあります。

まさに人間から虎に変わりきろうとする、その最後の瞬間まで、妻子よりも自身の詩作への思いを優先させます。すべてを投げうっても残りの時間をできるだけ長く創作にあてたいとの気持ちが、つまりは人間ではなく虎 (あるいは実生活では自身の身体がやまいから次第に死へと向かっていく予感) として、自身の業としての創作欲が内面性として強く表れたと捉えることもできます。

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作品の背景

中国の古典、唐の李景亮撰と題する「人虎伝」を題材としている。「人虎伝」の李徴はその非人道的な悪行によって因果応報的に畜生道に堕ちる。それは寡婦との私通をとがめられて、その家に放火して皆殺しにしたことで虎になるという話ですが、この部分が「山月記」では中島の全くの創作となっており「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の中での人間的な苦悩が描かれています。

中島は変身譚への嗜好があり、文章の特色としては漢文読みくだし調の中に心理的な推移が伝わる。その家系から祖父は江戸末期の著名な儒者の孫弟子にあたる学者であり、漢文調の作品とも深い関係があります。

発表時期

1942年(昭和17年)2月『文學界』にて発表。短編小説のデビュー作となる、 中島敦は当時32歳。1933年4月、横浜高等女学校で教員となり、この年の12月に結婚。1936年に小笠原諸島や中国を旅行、1940年の暮れごろから喘息の発作がひどくなり、療養のため1941年に常夏の南洋パラオに南洋庁の官吏の仕事で赴任する。赴任にあたり自らの原稿を交流のある作家に預ける。

赴任から半年後くらいに「山月記」「文字禍」の2篇が『文學界』に掲載が決まる。雨の多いパラオではかえって喘息がひどくなり仕事への熱意もなくし1942年3月と東京に戻る。帰国後は喘息と気管支カタルで世田谷の家で療養。その後、『文學界』5月号に「光と風と夢」を発表し昭和17年上半期の芥川賞の候補となる。11月に気管支喘息の悪化と服薬の影響で心臓も衰弱し12月4日に死去。享年33歳。