三島由紀夫『金閣寺』解説|認識か行為か、文武両道を生きた三島という虚像

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生来の重度の吃音症に苦悩する溝口は、金閣の美に憑りつかれる。脳裏にたびたび現れる金閣の美と呪詛の中で、やがて金閣を放火する。なぜ金閣を焼かねばならなかったのか、そしてなぜ溝口は生きようとしたのか。実際の事件を題材に、三島は自身の哲学や思想を告白体でこの作品にこめ完成させた。心象と現実、愛憎の葛藤のなかで三島が生きた戦中・戦後の時代。文と武を共にみせた三島という虚像を考えてみる。

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登場人物

私(溝口)
学僧で生まれつきの吃音きつおんで引込み思案。人生に金閣の美と呪詛がいつも立ちはだかる。

鶴川
溝口と同じ徒弟。裕福な寺の家柄の子で金閣で修行し、溝口の良き理解者でもある。

柏木
大谷大学で知り合った内反足ないはんそくの障害を持つ男で、独自の哲学と女扱いが詐欺師的に巧い。

田山道詮和尚(老師)
金閣の住職だが世俗的、私の父とは起居を共にした禅堂の友人で私を徒弟として預かる。

解説

美の象徴の金閣を、焼かねばならないとする
戦中・戦後を生きた三島の哲学と思想を考える

日本海に突き出た成生岬なりゅうみさきの貧しい寺に生まれた溝口は「金閣寺ほど美しいものは此世このよにない」と父に教えられ、やがて金閣は絶対の美の象徴となります。

金閣寺は、1397年の室町時代の建立で、実際に起こった金閣寺放火事件は1950年(昭和25年)7月2日ですから550年を越えて存在し続けました。

溝口は体が弱く、生まれつきのひどい吃音症で、最初の音でどもってしまい内界と外界が上手く繋がれず世界から拒まれていると感じています。内的自己に支配されている溝口は、自分は無口な暴君あるいは諦観に充ちた大芸術家を想像します。吃音のけ目が、逆に自分を選ばれし者とするのです。

溝口の心の中には、現実の目で見た金閣よりも観念として美の象徴である金閣がいつも支配し続けます。心象の金閣と、戦中・戦後の時代に翻弄され、目の前で変わりゆく金閣。本質と現象の金閣、やがて溝口が人生と繋がろうとすると金閣が目の前に立ちはだかり邪魔をしはじめます。そしていつか溝口は金閣寺を焼かねばならないと考えはじめます。

戦中の皇国史観と戦後の無軌道な混沌。君主から象徴に変った天皇。そんな心象と現実、愛憎の葛藤に苦しむ身体的ハンディを背負った孤独なひとりの若者が、認識を否定して行為に突き進み、そして生きようと諦観する。そこに作家、三島の思いをこめます。

心象としての金閣の美と、有為子の死。

物語では、

溝口は、まだ見ぬ金閣を心象のなかで絶対の美と考えます。

父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、また金閣というその字面じづら、その音韻から、私の心が描きだした金閣は、途方もないものであった。(第1章)

と金閣の美が、心の中で大きくなっていく様子が描かれます。

遠い田のが日に煌めいているのを見たりすれば、それを見えざる金閣の投影だと思った。・・・その峠のあたりから日が昇る。現実の京都とは反対の方角であるのに、私は山あいの朝陽の中から、金閣が朝空へそびえているのを見た(第1章)

こうして金閣の幻影が、常に見え始めてくるのです。

プラトン哲学のイデア論をひいて言えば、金閣寺は溝口にとって本質的な美です。

理想であり絶対です。心の中で永遠に生き続ける美なのです。

そして吃音症という外界と繋がれない身体的なハンディが、その思いを狂信的な

状態にしています。 

冒頭にエピソードが挿入されます。初恋は人生の大切な通過儀礼です。

溝口は有為子ういこという美しい女性に恋します。やっとの思いで告白しようとしますが、言葉がうまく発せず、有為子から吃音を侮辱されます。あえなく初恋は破れ、有為子を呪い、死を願います。そしてその通りになるのです。

ある日、有為子ういこの恋仲の海軍の兵が脱走します。憲兵が行方を探し、有為子を詰問し、彼女はついに隠れ家を伝えます。溝口は思います。

「裏切ることによって、とうとう彼女は、俺をも受け入れたんだ、彼女は今こそ俺のものなんだ」

これが溝口の考え方です。裏切りという醜さを自身と共有できたのです。

しかし憲兵が追いつめるなかで、有為子は、意外な行動に出ます。石段を駆け上り恋人に追っ手を知らせ、応戦する恋人の銃に有為子は倒れ、恋人もこめかみを撃って自害します。

有為子の死は、溝口にとっては、一瞬が、天に召される悲恋の絵画のように、永遠の美として記憶されたのです

有為子の存在は、溝口にとっては美に拒絶された自己でありながら、同時に心象の美として絶対と化したのです。

そんな溝口のプラトニック・ラブでした。つまりプラトン的な、溝口の心象に生き続ける美しい愛となったのです。

心象の美より現実の美を求める熱狂

重い肺病の父は、命あるうちにと、溝口を金閣寺の住職に引き合わせます。 溝口はこの世で一等美しい金閣に胸がときめきます。

「どや、きれいやろ。一階を法水院ほすいいん、二階を潮音洞ちょうおんどう、三階を究竟頂くきょうちょうと云うのんや」と父は説明します。

はじめてその目で見た金閣寺は、古い黒ずんだっぽけな三階建てにすぎず、美しいどころか、不調和な落ちつかない感じです。

美というものは、こんなに美しくないものだろうか?(第1章) 

溝口にとって、心象の金閣と実際の金閣とは全く異なっていたのです。

つまり本質と現象の違いです。理想と現実の違いです。

しかし帰ってくるとまた美しさを蘇らせます。溝口は父親に、「地上でもっとも美しいものは金閣だと、お父さんが言われたのは本当です」と手紙を書きます。

溝口にとって、現実の金閣は理想の金閣と同じように美しくなければならなかったのです。

やがて父親が死にます。金閣の住職、田山道仙どうせん和尚は、約束通り溝口を徒弟として迎えます。数か月ぶりの金閣は晩夏の光の中に静かです。

溝口は

「私の心象の金閣よりも、本物のほうがはっきり美しく見えるようにしてくれ。又もし、あなたが地上で比べるものがないほど美しいなら、何故それほど美しいのか、何故美しくあらねばならないのかを語ってくれ」(第2章)

と呟きます

溝口は美への熱狂や狂信を抱えています。心象と現象の金閣を一致させたいのです。

時は1944年、昭和19年の夏です。三島の満年齢は昭和のこよみと同じです、つまり19歳です。小説『金閣寺』は三島の戦中・戦後の天皇の姿を金閣に仮託したものとして読むことができます。

戦争の危難が、私と金閣を一体にした

戦乱と不安、多くの屍とおびただしい血が金閣の美を富ましている。その夏の金閣は、戦争のなかで、いきいきと輝いているように見えた。と溝口は、つまり三島は考えるのです。

溝口の心の中で、戦争の炎に包まれいきいきと輝く金閣を幻想するのです。

こうして心象としての金閣の美が完成されるのです。なぜか?

それはあのときの有為子と同じように、金閣と共に焼き滅ぼされ灰になることで醜い自分が美しく永遠になるからです。

溝口は金閣寺で、同じ修行僧の鶴川に出会い親しくなります。鶴川は、溝口の吃音を気にしない育ちの良い優しい男で、溝口の暗い感情を、いつも明るい感情に翻訳してくれました。溝口が陰画なら、鶴川は陽画のようでした。

溝口と鶴川、二人の若者が鏡湖池きょうこちのほとりに立つ。金閣も向こうのほとりに立つ。そして対面し、対話した。金閣は私たちより先に滅びるかもしれない。すると金閣は、私たちと同じ生をいきているように思われた。やがて空襲で金閣も二人も焼けてしまう。

死を前にした金閣の荘厳な姿、それは現実の金閣が心象の金閣と一致したものです。

吃音により外界がいかいから疎外されている溝口は、金閣と共に死ぬという同じ運命を辿ることで、醜い自分が、美の本質と一体化できると感じるのです。

それは三島をはじめ、当時の若者たちが、国のために、天皇陛下のために、死んでいく運命を当然と受け入れていることを意味しています。

終戦までの一年間、溝口は金閣に最も親しみ、その安否を気遣い、そしてその美におぼれた時期だったのです。

その年の11月に、B29の東京大空襲があり、やがて京都も空襲を受けると思われた。金閣が焼ければ、頂の鳳凰ほうおうは不死鳥のように蘇り飛びち、形態をいましめられた金閣は、湖の上にも、暗い海のうしおの上にも、微光をしたたらして漂いだすだろう。

ここで、戦時中の軍人と恋人の話が挿入されます。

溝口は、鶴川と南禅寺の茶室で、若く美しい女が乳房から乳を茶碗に滴(したた)らせ、

男がこれを飲み干す様子を目撃する。

それは士官の子を孕んだ女と、出陣する士官との永遠とわの契りの儀式だった。溝口はこの女を、有為子の蘇りだと思った。

そして両親のことを思う。病弱だが心優しかった父親に対して、母親は、現実的で功利的。父が病気の時に叔父と密通し、父が死ぬと寺を売り、その金で父の療養費を清算し、叔父のもとへ走ったのです。

京都にはもう空襲は無いことを母から知らされます。そして金閣の後継ぎになることを願う。 こうして帰る寺を失くした溝口は、金閣が空襲で焼けることも期待できずに、和尚の後継者になり金閣を自分のものにしようと考えはじめます。

金閣と自分との関係が絶たれる

終戦を迎えます。敗戦の衝撃、民族的悲哀から金閣は超絶していた。もう空襲で焼かれるおそれがないことで、

「昔から自分はここに居り、未来永劫ここに居るだろう」(第3章)

という表情を取り戻させた。金閣は無益な気高い調度品のようにしんとしていた。

そして溝口は、

「金閣と私との関係は絶たれたんだ」(第3章)

と考える。

「これで私と金閣が同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた。」(第3章)

敗戦によって人々は価値が崩壊したというが、逆に、金閣は未来永劫存在するということになった。

つまり金閣が永遠に存在することで、共に生き、共に死ぬことはなくなったのです。溝口はこれからずっと、心象の金閣の美によって自分の人生を妨げられることになるのです。

終戦後は想像もつかない新しい時代となった。士官は闇屋になり悪へ向かって駆けだした。戦争が終わって、人々は邪悪な考えにかられる。背徳の世界がやってきました。溝口は

「世間の人たちが、生活と行動で悪を味わうなら、私は内界の悪に、できるだけ深く沈んでやろう」(第3章)

と考えた。

それは、溝口が生きる世界、つまり老師にうまく取り入って、いつか金閣をわがものにしようというたくらみでした。

占領軍が到着し、俗世のみだらな風俗が金閣のまわりに群がった。

ある朝、米兵と外人兵相手の娼婦がやってきて、口論が始まり、妊娠した腹を命ぜられるままに踏みつける溝口、この悪の行為の褒美に煙草を貰い、溝口は偽善の気持ちで煙草好きの老師に渡します。

ここでは戦中の、有為子と恋人の海軍兵との死をもって美を永遠とする行為とは正反対に、戦後の敗戦国として米国に汚される金閣のなかで、生きるための屈辱的な光景として描かれています。

それでも老師は溝口を大谷大学へ進学させます、つまり後継者の候補とするのです。あのときの娼婦が流産を理由に金をせびりに来ますが、老師は経緯を知ったがすべて不問にします。

溝口の複雑な思いは、占領軍に逆らえなかったという言い訳と、女の腹を踏んだ甘美な感触の狭間で、老師もそのことをも理解していたと結論づけます。

つまり老師もまた、間接的に、敗者の意識にいて平然とした態度でいることをおそれます。

金閣の幻影が現れ不能に終わる

大学で、溝口は内翻足ないほんそくという足をひきずって歩く障害を持つ柏木と知り合う。

柏木は自身の障害を逆手に女をうまく口説く男で、自分こそが特別と認識し、その認識によって世界を変えることで、並の人間よりも数倍、贅沢に生きようと考える。そして詐術を用いて上流の美しい女たちの自尊心を引き寄せていく。

溝口は柏木の考え方に感銘しながらも、その精神性に距離を置こうとする。

柏木は、世のなかは認識で変わるのだと説明し、童貞の溝口に女を紹介しようとする。

溝口は有為子との恋に破れ、金閣との関係も絶たれ孤独だった。柏木が、溝口を人生へ促してくれる親切あるいは悪意をありがたくも思った。

ある時、柏木のつきあっていた令嬢と4人で嵐山に遊びに行く。溝口は柏木から同じ下宿の娘を紹介される。柏木が令嬢と二人で消え、溝口は娘と二人、残される。

ここで溝口は女の身体に手をのばそうとする、すると・・・

そのとき金閣が現れたのである。(第5章)

目の前に金閣寺が立ちはだかり、溝口は不能になります。女と溝口の間、すなわち人生と溝口の間に金閣があらわれるのでした。

金閣に阻まれて、溝口は人生を進んでいくことができないのです。

その夜に、溝口は鶴川の死を知ります。事故でした。溝口にとって明るい昼の世界をつなぐ一縷いちるの糸が絶たれたのでした。溝口は外界から完全にふさがれようとしています。

ある時、柏木が捨てた女で、以前、鶴川と見た南禅寺の女を紹介される。柏木は女に酷くあたり、出ていく女の後を追って慰めろという。

女の家で、鶴川と見た南禅寺の話をすると、女は懐かしく喜び、乳房を露わにしてみせた。しかし溝口にはその乳房が金閣に見えてしまうのです。溝口には、柏木のように認識によって世界を変えることはできないのです。

「又もや私は人生から隔てられた!」と独言ひとりごとした。

溝口は呪詛のように金閣に呼びかける。

「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」(第六章)

その後も人生の幸福や快楽に化身しようとするときに、金閣が現れた。

女と自分との間、人生と自分との間に金閣が立ちあらわれる。

昭和24年の正月のこと。

溝口は新京極の雑踏の中で芸妓を連れ歩く老師を見る。その後、溝口は愛人の芸妓の写真を老師の読む朝刊に挟み、老師の憎しみを期待した。

この住職の祇園通いという俗な行為と、その行為を糾弾する溝口の行為は、正義などではなく、聖職への冷ややかな目線であり、寧ろ、戦後の堕落の中で背徳を共有しようとする厭世的な態度です。同時に寺を継ぐという母の打算的な目的には自分は従わないという意志もあります。

その年11月、老師は「お前をゆくゆくは後継にしようと心づもりしていたこともあったが、今は、はっきりそういう気持ちがないことを言うて置く」と明言した。

後継者として外されたことを通告される。自ら未来の道を閉ざした溝口は、目に見えて学業をおろそかにし、破滅の道を進んでいく。

老師は溝口に、芸妓のことについて「知っておるのがどうした」と、現世を完全に見捨てた人の顔になった。生活の細目、金、女、あらゆるものに手を汚しながら現世を侮蔑していた。

溝口は、柏木に金を借りて旅に出た。

私の環境から、私をいましめている美の観念から、私の轗軻不遇かんかふぐうから、私のどもりから、私の存在の条件から、ともかくも出発せねばならぬ。(第7章)

舞鶴湾から由良の海岸を目指し、遠く裏日本の海を思うとき、突然、浮かんできた想念。それは

「金閣を焼かねばならぬ」(第7章)

ということだった。

溝口はなぜ老師を殺そうと考えなかったかを自ら問うた。もし老師を殺しても、人間の悪は次々と現れる。それに比べて、金閣はまさに有意といえる。つまりひとつしかない美の存在である。

これは溝口が有為子に抱くたったひとつの美の存在と重なり合います。金閣を私が焼けば、人間の作った美の総量の目方を確実に減らすことになる。金閣の存在する世界を、金閣の存在しない世界へ押しめぐらすことになろう。

世界の意味は確実に変わるだろう。(第8章)

冬が来た、決心は強固になった。

借りた金を返さない溝口に対して、柏木は老師に談判をして返してもらうことに成功した。

老師は「困ったことをしてくれたな。今後こういうことがあったら、もう寺にはおかれんから、そのつもりでいなさい」と溝口に言った。

突然、事態は明瞭になった。決行を急がねばならぬ。

変貌させるのは「認識」ではなく「行為」

事故だと聞いていた鶴川の死だったが、柏木によると、鶴川の死は失恋をして、自殺をしたというものだった。柏木は・・・

「君の中で何かが壊れたろう」と言い、「この世界を変貌させるのは認識だ」(8章)

「認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永遠に変貌するんだ」(8章)

と言った。

柏木はこの生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったという。それは内翻足ないほんそくという障害を抱え生きる柏木の思想になっている。

しかし溝口にとっては、記憶の意味よりも記憶の実質を信じるに至った。鶴川の死の事実よりも、溝口の心象の鶴川の姿を大切に考えている。溝口は・・・

「世界を変貌させるのは行為なんだ、それだけしかない」(8章)

と言い返した。

それは初恋だった有為子と同じように、大切な友人だった鶴川もまた、死という行為によって永遠に溝口のなかに生きたのだった。

溝口は、老師から貰った学費を五番町の遊郭ですべて散財する。これまで女の前に現れていた金閣はもう現れません。なぜか?それは溝口がすでに金閣を焼く決心をしており、人生に関わろうとは考えていないから。

数日後、カルモチン(睡眠薬)と小刀を死の準備のために買います。

その日が来た、昭和25年7月1日である。

「私の内界と外界がいかいとの間のこの錆びついた鍵がみごとにあくのだ。内界と外界は吹き抜けになり、風はそこを自在に吹きかようようになるのだ」(9章)

燦然ときらめく幻の金閣と、闇の中の現実の金閣が一致し、虚無の美しさにかがやいていた。

わらにつけた火は枯野の色を浮かべ四方に伝わった。私は頂上の究竟頂くきょうちょうで死のうと考えた。金色こんじきの小部屋に達したかった。しかし扉があかない。

ある瞬間、こばまれているという確実な意識が生まれ、階段を駆け下りて戸外に出た。

左大文字山ひだりだいもんじやまの頂に来て夜空を見た。そしてはるか谷間の金閣を眺め下ろした。金閣の形は見えず、おびただしい火の粉が飛び、金砂子きんすなごを撒いたようである。

ここで溝口は、炎に包まれた金閣を見ながら、小刀とカルモチンを捨て煙草を喫む。

そして、ひと仕事を終えて一服している人が、そう思うように、「生きよう」と思った。