分別の道を一歩踏み外したことで起こった大惨事と、修復への道のり。
ジェニー・フィールズはふたたび看護婦となった。ガープ一家がドッグズヘッド港のフィールズ家の屋敷に移ったのも、ジェニーの提案によるものだった。
ここなら、寄せては返し、すべてを洗い清め、癒してくれる波の音も絶えることがない。
ダンカンは右眼があったところに、穴ができている。最初の義眼を見たのも祖母のジェニーと一緒だった。ヘレンは首のうしろをしたたかにぶつけ約六週間、添え木が必要だった。右の鎖骨が折れ、鼻梁が横につぶれ、九針縫った。歯が二本折れ、舌も小さく二針縫った。
口の中にはマイケル・ミルトンの全体の四分の三に相当するペニスがあった。
ガープはダンカンが倒れるのを受けとめようとしたときに、顔を強く打ち、顎が折れ、舌が滅茶苦茶(十二針も縫った)になり声が出なかった。口は針金で縛られ、母親と話すときも紙に書いて伝えるしかなかった。
紙に書くことで発言に慎重になれた、自分で言いたいと思っていただけかもしれない多くのことを改めて考えてみることができた。
ドッグズヘッド港の屋敷は傷ついた女性たちが、この屋敷で自分を取り戻していった。かつての性転換のロバータ・マルドゥーンもそうだった。
ロバータはダンカンにはフットボールの話をし、ガープには性転換の話をして楽しませた。ジェニーの庇護を受けている女たちも、世間の同情の無さの犠牲になっていながら、お互いが如何に反感を持っているかをガープは不思議そうに見た。
ガープは、ドッグズヘッド港の不幸な人たちに対しても寛大になってきた。
ハリソンとアリスのフレッチャー夫婦も見舞いに来て一週間滞在した。ヘレンはガープには話せないマイケルのことをハリスには話せた。ハリソンはまた子供をつくることを薦めた。アリスは大変でも、愚かしい筆談はやめてしゃべるように励ました。
ガープとヘレン、やがて二人はお互いを許し合い愛しあった。今度生まれてくる子供は女の子がいい、男の子でも絶対、ウォルトとは名づけない。ウォルトは亡くなったのだ。
猥雑でセンセーショナルな暴力、しかし「ほんとうのことか」が大切。
ガープは、あの惨事から想像を得て、性犯罪には裁判なしの虚勢罪の法律を描く『ベンセンヘイパーの世界』を書いていた。
定年を一年後にひかえたアーデン・ベンセンヘイバー警部が見た世界。それは強姦魔オーレン・ラスが、ホープ・スタンディッシュ夫人と三歳のニッキーを漁師用ナイフで襲い、夫人を連れ出し農業用のトラックに乗せ誘拐する。夫人は男のものを口に含み噛み切ることを考えたが難しく、オーレンは夫人を強姦した。ホープ夫人はオーレンの漁師用ナイフを発見すると、メッタ刺しにして男を切り刻んだ。やがてベンセンヘイバー警部はラス兄弟に幇助は睾丸を切り取る去勢罪となることを伝え、オーレンの行方をヘリコプターで追いホープ夫人を救出する。オーレンは死んだ。怯えるホープ夫人に警部は彼女の勇気を称える。
ガープは、まずこの第一章を書き前評判を狙った。この荒々しい強姦とその復讐の物語は、編集者のジョン・ウルフからは不評だったが、ジェニーは気に入ってくれた。
重要なことが秩序だって把握され、誰が英雄視されるかが理解されており、必要な怒りが表現され、欲望の醜悪さが度を越さぬグロテスクな形で描かれていると感じていた。
それは狂おしい悲しみからガープを解放した。ヘレンは口を出さないようにしていた。
『ベンセンヘイパーの世界』は、妻と子供を残酷な世界から護らんとする夫、ドーシー・スタンディッシュの不可能な努力を描いた。
その後、アーデン・ベンセンヘイバーは武装した伯父としてスタンディッシュ家でボディガードとなるが、過去の思い出の発作におそわれ一家の脅威となる。ホープは二番目の子供を産むことで夫の不安を和らげようとするが、スタンディッシュは、今度はホープが浮気をしているのではと疑い始める。彼は妻に対する愛を失い、自分自身も疑う。そしてホープが貞節を守っているかをベンセンヘイバーに頼む。妻は不能となった夫に対して妊娠のためだけに浮気をしていた。そして自宅の様子を外から覗くスタンディッシュをベンセンヘイバーが誤って銃で撃ち殺す。その後、ベンセンヘイバーは老人用精神病院で悪夢に苦しめられ、ホープは恋人の子どもを身ごもり生まれる。
夫、ドーシー・スタンディッシュは「この世界に対して忠実でない」男として、ベンセンヘイバーとともに「地球という惑星での生活に不向きな」人間として描かれる。ホープは適応能力がある人間として、耐える能力、弱い男性の世界のなかで強く生き残っていく女性として描かれる。
三人目の子供は、女の子でジェニー・ガープと名づけられた。
編集者のジョン・ウルフは、『ベンセンヘイパーの世界』が<猥雑でセンセーショナルな暴力と、なんら救いのないセックス>と評されたと述べたが、ガープは否定した。
ところがジョンが信頼する慧眼の持ち主で『性の容疑者』を称えた掃除婦のジルシー・スローパーが「ほんとうのこと」が書いてある本だと絶賛した。
献辞は、“ジルシ―・スローパーヘ” となった。
カバーの折り返しには「自分の愛する者に不幸が起こることを恐れるあまり、不幸が今にも起こりそうな緊迫した雰囲気を創りあげてしまう男の物語である。そしてその不幸が現実になる」とジョンが綴った。
女性運動家と崇められたジェーンの死と、女性しか認められない追悼集会。
作品の悪評をかわすために、ガープ一家はヨーロッパへと旅立った。ウィーン市は、ロシアの占領、戦争の記憶、廃墟の思い出からは遠く隔たっていた。
書評には「女性がこの社会で悩まなければならない、男性特有の神経症的なプレッシャーを、はじめて男性の側から深く研究せんとした試み」とあり、『ベンセンヘイパーの世界』は、「フェミニズムの小説」という風潮が出来上がった。
ジェニーは「わたしと同じようにおまえも、この時代にはびこる多くの偏見に向かって立ち上ろうとしているらしいね」と書いていた。
ニューハンプシャーの政治にジェニーは「巻き込まれ」そうだった。女性運動の問題が論争になり、現職知事は反動的な低能ぶりだった。貧乏人は州や連邦政府の援助を受けるべきでないとし、ニューヨークから離婚女性たちが抗議に来ていた。
そこには、広範な乱婚、社会主義思想、別居手当があり、女性集団生活の中心地はドッグズヘッド港「急進的女性運動家ジェニー・フィールズの巣窟」とされた。
なぜか、ガープの「堕落」した小説が「女性運動の新しいバイブル」として「この時代の道徳的頽廃と性的危機を謳いあげる荒っぽい讃美歌」とされた。
ガープは、母ジェニー・フィールズが暗殺されたことをロバータの電話で知る。
それは、彼女が演説のため壇上に立ち、喝采、口笛、野次が湧き上がる中で起こった。どこかのバカな「おとこ」が鹿狩り用のライフル銃で撃った。「女性を憎んでいるおとこ」だった。
ロバータは、ジェーンの追悼式が開かれるが、そこにガープは来ない方が良いという。
「母さんは女性運動家と呼ばれるのが大嫌いだった」とガープが言うと、「お母さんは自分がどう思おうと女性運動家だったのよ。女性になされる不義をあばき、女性が自分の人生を生き、自分だけの選択ができるようにひたすら努力してくれた」とロバータが答える。そして「これは女性のためのお葬式なのよ」と言った。
ガープは女装をして参列した。会場には、追悼の雰囲気と、同志が一堂に会した緊迫した雰囲気が渾然としている。活動家や新州知事候補やエレン・ジェイムズ党員など女性たちが次々と壇上に上がりお悔やみを述べる。
傷つけられた女性の意識と、その女性を支援する運動家の意識の違い。
ガープは自分の肩を誰かが引っぱるのを感じた。そして女は言った「T・S・ガープじゃないの」 ガープはその女がパーシィ家の一番下の子、プー・パーシィだと気づいた。「ここに男がいるわ」とプーの金切り声が叫んだ。
ガープは何とか集会を逃れ、ボストン行きの飛行機に乗り込むと、集会で見かけた女性が機中にいた、彼女こそがエレン・ジェイムズだった。
エレン・ジェイムズは、ジェニーを慕ったが、今こうしてガープと話していることに感謝した。彼女は『ベンセンヘイパーの世界』を取り出し最高の強姦小説だと言った。
彼女も作家を志望している。ガープには彼女が抗体を持たない、死を運命づけられた子供の一人に見えてきた。両親も亡くなった家族のいないエレンに、ガープは家族になってあげようと思った。
彼女は「わたしはエレン・ジェイムズ党員が大嫌いです」と筆記し、自分だったらこんなことはしないと舌の無い口を開けてみせた。
彼女は、書きながらこれまでの人生のすべてをガープに伝えた。ガープはエレン・ジェイムズを伴ないながら「これからは自分の母親、ジェニー・フィールズに最も似た人間になるよう努力しよう」と決意した。
アーニー・ホームの家では、ボジャー補導部長から「アーニーは『ベンセンヘイパーの世界』の載った雑誌を見ているときに心臓発作で、死んでしまった」と聞いた。その前日には、脂肪シチューことスチュアート・パーシィが長患いの癌で逝っちまっていた。
ガープは、スティアリング学院でアーニー・ホームの後任になりたいと申し出た。彼にできることは書くこととレスリングだった。
ガープの作品はだんだん作家個人の人生に接近することで弱体化してきた。
彼は人生を真実の姿で想像する自由を失い、記憶することだけでしか真実を描くことができず、心理的に苦痛となり稔り少ないものであった。
小さな良きものに感謝しようじゃないかーそれがガープの生だった。
ヘレンはレスリング室に訪ねて、片っ端から本を読む生活がまた始まった。
強姦され、舌を斬られたとき十一歳だったエレン・ジェイムズが、ガープ家で生活を始めたのは十九歳で、すぐさまダンカンの姉となった。ヘレンのベビーシッターとしての辣腕ぶりも発揮した。
母のジェニーは莫大な財産とドッグズヘッド港の傷ついた女性たちの邸宅に関する遺言執行者にガープを指名していた。ロバータは「フィールズ基金」と称し、ガープと共同で管理することにした。
ガープの母、ジェニー・フィールズを殺したのは狂気である。過激主義である。独善的な、狂信的な、不気味な自己憐憫である。エレン・ジェイムズ党員がそれとどこが違うだろう。彼女たちの姿勢も絶望的で、人間の複雑さに対する理解を欠いているのではないか?
ガープはエレン・ジェイムズ党員を嫌った。しかしエレン・ジェイムズのエッセイ「どうしてわたしはエレン・ジェイムズ党員ではないか」には力があり、感動的で、ガープは読んでいて涙があふれてきた。
そこには「エレン・ジェイムズ党員が個人的な創傷をいかに薄っぺらに、政治的にしか模倣していないか、よく分かる。そのために、エレン・ジェイムズの苦悩は長びかされ、きわめて社会的な犠牲者に仕立てあげられてしまった」と書いていた。
賛否が起こり、ガープはエレン・ジェイムなる存在が持つ意味について断固として言い放った。“女性運動に悪しき名を与える戯けた者” たる党員をこきおろした。
ガープは、ダンカンの描いた挿絵による『ペンション・グリルパルツアー』の特製本を新たに父子の作品としてクリスマスに出版し、想像力が戻ってきた。
ガープが死ぬ。それはレスリング室での出来事だった。練習の指導を行っていた時だった。ヘレンもいつものように隅で本を開いていた。
看護婦を装ったプー・パーシィの弾丸がガープを撃った。プーは狂信的なエレン・ジェイム党員となっていた。
心配するなよー死後の世界がなくたって、どうだというんだい?ぼくの後も世界はあるじゃないか。たとえ死後に死しかなくても、小さな良きものに感謝しようじゃないか。
そう言って、逝ってしまったガープは三十三歳だった。