映画のなかで魅了された、せつなくも美しい愛を感じる場面の数々。
食べて、歌って、愛して ー 腕を組み抱き合い踊る姿に永遠の絆を誓う。
ゴッドファーザーは、PARTⅠ.Ⅱ.Ⅲのシリーズがありますが、マリオ・プーゾとコッポラの約束により、原作者の死によって三作で完結しています。
観客は、ニューヨーク州ロングアイランドのヴィトーの邸で、ネバダ州タホのマイケルの邸で、そしてローマのバチカンの祝賀の宴で、コルネオーネ・ファミリーに再会します
PARTⅠでは、ヴィトーと愛娘コニー、花嫁の父として踊る場面。威厳ある父親の存在感。それはアメリカに渡り、富と権力を得て、だれからも操られることなく成功したヴィトーの人生が栄華を極めるコルネオーネ・ファミリーとして描かれます。
PARTⅡでは、マイケルがケイと湖畔で踊る場面。PARTⅠでの恋人時代の二人が未来を誓い踊る場面とオーバラップして一転、二人の表情は厳しい。映画では「五年で合法化すると言って、すでに七年が経っている」とケイはマイケルに詰問しています。
PARTⅢでは、コルレオーネ財団の叙勲の祝宴でマイケルと愛娘メアリーが踊る場面。「この世で一番の宝は富や権力でなく子供だ」とマイケルは手紙を書き、来てくれたケイと子供たち。勲章を受けるマイケルは、特に娘のメアリーの再会を喜びます。
舞曲タランテラの音楽に乗せ、Mangiare(食べて)、 Cantare (歌って)、 Amare(愛して) ― このイタリア人気質を、哀切なメロディは、どこかせつなくも愛おしい人生賛歌として奏でます。
如何なる困難をも乗り越えて、お互いを信頼し、尊敬し、愛していこうとする家族の<絆>が、大切な思いとして刻まれています。
三者三様のファミリーの統治の考え方と支える愛のかたち
PARTⅢの製作によって、コルネオーネ・ファミリーは、<ヴィトーの時代><マイケルの時代>そして<ヴィンセントの時代>と三世代を描くことができました。
ヴィトーの時代、貧しさゆえに犯罪に手を染め、それは自分に定められた運命として巨大なコルネオーネ・ファミリーを一代で築き上げます。ヴィトーは自分の組織を誇りに思います。夫の為すことを妻が従う、という夫唱婦随の関係です。カソリックの信仰心の強いイタリアの大家族主義の象徴として描かれます。
マイケルの時代、自由で自我が開放されたアメリカの発展する空気の中で、ケイと出逢います。愛ゆえに二人は結婚しますが、マイケルは後継のドンの役割として組織を合理的に統率します。ケイには家名を守る―血の掟―名誉への異常な固執が理解できません。自立したアメリカの個人主義の象徴として描かれます。
ヴィンセントの時代、彼はソニーの愛人が産んだ私生児です。かつてのヴィトーとは異なりますが、孤独で不遇な生い立ちです。その背景が、父親譲りの暴力性と強さを併せ持たせます。血の粛清の実行者は、ヴィンセントです。そしてドンの座につく代償に、メアリーとの愛を諦めて、新世代を築こうとします。
マイケルは「この道を歩むつもりなど無かったが、父親を助けるため、家族や子どもを守るため生きてきた。そして結局、最も愛するきみを失ってしまった。自分は違う人生を夢見ていた」と語ります。
ケイは「今でもマイケルを愛している」と言います。そして「子どもたちもあなたを愛している、特に、娘のメアリーは」と返します。
クライマックスでは、マイケルの娘メアリーが、巻き添えになって死にます。老境にかかり苦悩し懺悔し続けたマイケルですが、アポロニアに続き、今、眼前の敵は容赦なく愛娘の命を奪っていきました。発狂せんばかりの慟哭の果てに静寂が訪れ、数年後、孤独の中でマイケルは死んでいきます。
最終章に見る、繰り返される恋情とせつない愛の記憶の回想。
PARTⅢに登場するのは、老いて苦悩するマイケルの姿です。この最終章にこめられたコルレオーネ・ファミリーの壮大な家族の物語を確認しておきます。
恋人から妻、そして友人へ。ケイのマイケルを愛し続ける心情について
ケイはマイケルがファミリーのビジネスに関与しない前提での交際でした。
映画(PARTⅠ)で、カルロはマイケルによって殺されます。コニーのマイケルへの呪詛のような罵り。「あんたの夫は人殺しだ」と喚きたてるコニー。ケイは疑心します。
映画(PARTⅡ)で、レイク・タホの邸の二人の寝室に銃弾が撃ち込まれます。子どもが危機にさらされ母親としての防衛本能が働きます。さらにマフィアの公聴会でマイケルは、巧みな篭絡で勝利を得ます。すでにケイの心はマイケルにはありません
ネバダからキューバへ事業の拡大を図るマイケルと、ハイマン・ロスという新たな敵と向き合うマイケル、そしてマイケルの子を中絶するケイ。
マイケルとケイの確執は頂点に達します。ケイは「あなたをもう愛していない」そして「ずっとあなたを愛し続けると思っていた」と告げ、さらに「これ以上、あなたの子どもを産みたくない」と流産ではなく堕胎だったことを語ります。
そしてケイは、シシリーの古臭い名誉を侮辱して、決定的な破綻を選びます。
マフィアの世界に入り変貌したマイケルに、ケイは子どもたちの安全や未来のために、共に暮らすことはできないと決心する。マイケルは形相を変え「子どもは絶対に渡さない」と面罵し、ケイを家から追い出してしまう。
ママ・コルレオーネに苦しみを吐露すると、ママは「子供はまた産まれる」と慰めます。しかしマイケルは「時代が違う」と苦しみます。
家名を守るという “名誉” に固執し、犯罪を重ねるマイケルを理解できず、それでも心の奥底に優しかった過去のマイケルへの愛情が僅かに残ります。それはシシリーを訪れたケイとマイケルの会話の中に現われました。
映画(PARTⅢ)で、ケイは街角で観る人形劇でのシシリーの “名誉” を否定します。マイケルの行動は常軌を逸しており、彼女は許せません。
この物語は、濃淡こそあれ、ずっと続くケイのマイケルへの『愛情』に支えられています。ただケイは、自我を尊ぶ個人主義のリベラルな時代のアメリカ人なのです。シシリーに伝わる『家族の名誉』は土着の血の結びつきにしか見えず、理解できないのです。
ケイはマイケルの叙勲式で「社会的な地位を得たあなたは、昔より危険だ」と言い、忌み恐れます。それでもシシリーでの二人の再会は、少しずつ “憎しみ” を洗い流してくれました。二人は過去の良き日を思い、何とか失った愛情を友情に替えようとします。
今では、子供たちはケイに引き取られていて、長男のアンソニーは、マイケルに似てファミリーの道を拒絶しオペラの道を歩みます。娘のメアリーは心優しい美しい女性に成長しました。
運命に翻弄されたマイケルの苦悩について
マイケルは自ら進んでコルネオーネ・ファミリーの後継となりますが、そのことが何を意味するかを充分に理解しているくせに、ケイと家族を築くことを両立させようとしました。
冷酷な犯罪ビジネスや抗争のなかにあって、自我が強く個人主義の現代アメリカの女性であるケイとの家族の両立は不可能です。
経緯を確認すれば、ヴィトーの襲撃と命の危険に遭遇したことが発端で、父の安全を守るために止む無くマイケルは殺人者となります。短気で激情型のソニーと、性格が弱いフレッドの三人兄弟の中で偶然の巡りあわせでした。
そしてソニーが殺され、最愛のアポロニアも殺されたことで、復讐心が芽生えます。さらに家族の血統と名誉はマイケルの肩にのしかかります。結果、マフィアの世界では、悲惨な抗争に発展することになります。
マイケルは父を助け、家督を継ぎます。ケイと恋人時代であったマイケルは変貌していきます。冷酷な人格になるマイケルを、ケイは忌み嫌います。
ランベルト枢機卿に「次兄のフレッドを殺した」と告解するマイケル。ドン・トマシーノ(原作ではトッマジノ)の棺に「何故、あなたは愛され、自分は恐れられるのか」と苦悩するマイケル。自身の徹底的な合理性や冷酷さが、人間の愛情を欠いていることに気づいていません。
マイケルの「運命」に翻弄された姿が、愛を失った孤独な老境に映し出されます。
ヴィトーの場合は、その出自や貧困の時代背景から悪に手を染めますが、運命を是と受け入れ組織を大きく拡大します。そしてマフィアとしての「友情」と「忠誠」という人間関係を形成していきます。
ヴィトーは無口で謙虚で情深い人間として描かれています。
比してマイケルの場合は、父を救い、ひいては家名を守るために代替わりしますが、決して組織を愛してはいません。ヴィトーの時代のクレメンツァやテッシオのような苦楽を共にする仲間はなく、マイケルの時代のロッコやネリは、ずっと功利的な関係です。原作ではロッコに目をかけたのも、ネリを不遇から救ったのもヴィトーでした。
マイケルの合理的な冷酷さと血の掟が、決定的に家族の絆を破綻させます。
コルネオーネ・ファミリーという大きな組織の運営と、敵対する五大ファミリー。そしてケイと約束した合法的な組織への移行、つまりマフィア稼業を辞める約束です。
しかしそれは非現実的でした、マイケルの精神は両端に引き裂かれていきます。
マフィアの戦いのなかでは、アポロニアであれば分かりませんが、ケイは明らかに、その知性においてマイケルに盲従することは不可能です。マイケルも名誉を否定されることは我慢できない。それはシチリアの血統でしょう。
マイケルにとってケイとは、マイケルにとってアポロニアとは何だったのでしょうか。
冷酷に言えば、マイケルにとってケイは形式上の夫婦です。言葉は思考であり、倫理や道徳や主義を発言させます。説得が不可能なことを知るマイケルは、ケイのビジネスへの不干渉を要求しますが、表層は別として、精神的な結びつきは不可能なのです。
同じ形式上であってもアポロニアであれば、ママ・コルレオーネのようになったかもしれません。しかしママ・コルレオーネはイノセントを装いながら、立場をよく理解していました。
アポロニアであっても、シシリーからアメリカに渡り、自由な個人主義の社会の中では、うまくいったかどうかは不分明です。まさに「時代が違う」のです。
ヴィトーの築いたファミリーはマイケルからヴィンセントへ継承される。
PARTⅢで、若き恋が描かれます。ヴィンセントとメアリーの二人が、祖父であるヴィトーが設立したジェンコ・オリーブオイル会社の跡地に佇み「ソニーは街のプリンスで、マイケルは一家を救った英雄」と昔話をする場面は印象的です。
ヴィンセントからメアリーを引き離すマイケルは、マフィアのビジネスの行く末を知っています。だからメアリーとの別れは、ドンになる代償なのです。メアリーの恋心は、父親のマイケルによって引き裂かれるのです。
ヴィンセントは、きっぱりと「きみとは違う道をいく、おれを忘れろ」と言います。
メアリーが願う世界とは異なるマフィアの世界。それはヴィンセント自身が選んだことで、パパを怨んではいけない。ヴィンセントの覚悟です。新しい時代には、新しい人間が統治する。ヴィンセントこそが、これからのドンとなりうる資質を持っています。
脚本は、見事な構造を見せます。マイケルが、ヴィンセントのような態度であれば悲劇は、起こりませんでした。ただし、メアリーが生きていればその後は、どうなったかは分かりません。メアリーは別れを告げるヴィンセントに「愛し続ける」と言うことでしょう。
メアリーは、若き頃のケイと同じ引き裂かれる立場で、その理由が理解できないはずです。
映画を観賞する人々は、新しい時代のドンとなるヴィンセントは、マイケルではなくソニーの血を引き継いでいることを知ります。さらに、ファミリーのためには愛すらも捨てる、マイケルにもソニーにも無かった非情の強さです。
ヴィトーが築いた愛と家族、そしてマイケルが築こうとした愛と家族。その基底にあるシシリーの系譜、そしてファミリーのビジネス。コルネオーネ・ファミリーの世代を繋ぐ壮大な叙事詩です。
そして残酷なほどの人生に、愛する人との思い出だけを残して・・・
家族とコルレオーネ・ファミリーの二つを守ろうとするマイケルは、何とか上に登れば願いが実現すると懸命ですが、登れば登るほど上はさらに汚いことを知ります。
立ちはだかる政治やバチカンの伏魔殿のなかマイケルは引き戻されもがきます。
そして、最愛のメアリーを失います。大きな人間愛がテーマの『ゴッドファーザー』ですが、映画ではハッピーエンドではありません。家族は崩壊し、一人残された孤独なマイケルの死は、老いさらばえ憐れなほどです。
原作『ゴッドファーザー』は犯罪小説です。しかし奥底に流れる主題は「人が愛し、ともに生き、家族をつくる」というシンプルで難しく、多くの人が共有できるテーマです。
その形に、「ヴィトーの時代」と「マイケルの時代」そして「ヴィンセントの時代」があり、価値観の違いがあります。それは時に、近代化や物質文明では覆い隠せない、原風景として記憶された血を呼び覚まします。
観客は、残酷な悲劇の中に、たくさんの愛の言葉や幸福なひとときを感じたことでしょう。
胸が切なくなる、理解はできても認められない気持ち、辛いけれど仕方がないと思う気持ち、愛は、そんな思うままにならない連続の中を、乗り越え生きるために与えられた試練なのかも知れません。
全編をつつむニーノ・ロータの哀切のメロディは、この上なく美しいく、エンディングのマスカーニの “カヴァレリア・ルスティカーナ” のシシリーの山間部を舞台にした恋と名誉の歌劇は壮大な人間物語を奏で、そしてエンドロールでの ”Promise Me You’ll Remember” の孤独な詩は観衆に静かに囁きかけます。
こうしてマリオ・プーゾの原作を経て、映画のPARTⅠ.Ⅱ.Ⅲは完結します。
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