紳士泥坊がまんまと盗みどこかに隠した消えた大金。二銭銅貨の中の一枚の紙片に綴られた、南無阿弥陀仏の謎の暗号を解く。その素晴らしい推理でついに金を探しあてる松村、知識を誇る彼に私が仕掛けた悪戯なトリック。日本で最初の推理小説、江戸川乱歩のデビュー作。
登場人物
私
場末の貧弱な下駄屋の二階の六畳一間に、ごろごろしている金のない無職の若者。
松村武
私の友人で下駄屋の下宿の同居人で、紳士泥坊の盗んだ金の在り処の謎を解く。
紳士盗賊
新聞記者になりすまし、まんまと電気会社社員の給料を盗み出し何処かに隠す。
あらすじ
あの泥坊が羨ましい、二人の間にこんな言葉が交わされるほど貧乏する。
場末の貧弱な下駄屋の二階の六畳一間で、松浦武と私が変な空想ばかりしてゴロゴロしていた頃だったので、世間を騒がせた大泥坊の巧みなやり口を羨むような、そんなさもしい心持ちになっていた。
その泥坊事件というのは、芝区にある大きな電気工場の給料日当日の出来事で、一万人近い職工の一か月の賃金を銀行から引き出し給料袋に詰め込んでいる時に、玄関に一人の紳士が現れた。
紳士は朝日新聞の記者を名乗り、支配人に面会を申し込んだ。この支配人は記者の操縦がうまいことを自慢にしており応対した。男は鼈甲縁の眼鏡をかけ口ひげを生やし、黒のモーニングの扮装で現れ、高価な埃及煙草に火をつけた。
そして三十分ばかり支配人と労使協調や温情主義などの問題を論じる、それから支配人が便所に立った間に、男も姿を消した。
その後、会計主任から賃金支払いの金が何者かに盗られていると報告を受けた。
調べてみると、いつも賃金計算をする事務室がその時は改装中で、支配人室の隣室で計算作業が行われ、昼食の休憩時間のたまたま空になった時に忍び入って持ち去られたというものだった。損害額は、二十円札や十円札で合わせて約五万円(現在の価値で三千万円前後)であった。
紳士盗賊が捕まるが、盗んだ五万円が見つからず懸賞金がかけられる。
この新聞記者と自称する男は、紳士盗賊と呼ばれ世間を騒がせている大泥坊であった。
管轄警察署の司法主任他が臨検して調べるが手懸りがなかった。市内の巡査派出所へも人相書きが廻ったが何の手ごたえもない。さらに各府県の警察署へも依頼されたが賊は上がらなかった。
もう絶望かと思われる中、一人の刑事が賊が喫っていたFIGAROという埃及の舶来の煙草をたよりに煙草店をあたっていた。その時、偶然にもある旅館の前でこの埃及煙草の吸殻があった。ここから足がついて紳士盗賊もついに獄裡の人となった。この刑事は工場の支配人の部屋に残された珍しい埃及煙草から探偵の歩を進めたのであった。
取り調べを受けて白状したところによると、支配人の留守の間に隣の部屋に入り例の金を盗んだということだった。押収された紳士泥坊の着ていたモーニングには手品師の服のように隠し袋がついていて、そこに五万円(現在の価値で三千万円前後)の金を隠したのだった。
この紳士泥坊は、盗んだ五万円の隠し場所について一言も白状しなかった。
警察と、検事廷と、公判廷と三つの関所で攻め問われても知らないの一点張りだった。紳士泥坊は隠匿のかどで窃盗犯としてはかなり重い懲役に処せられた。
困り果てた被害者の工場では、責任者である支配人がその金を発見したものには発見額の一割の賞金をかけることを発表した、つまり五千円の懸賞である。
これからお話ししようとする松村武と私自身とに関するちょっと興味のある物語は、この泥坊事件がこういう風に発展している時に起こったことである。
松村は二銭銅貨と煙草屋と按摩の話で閃き、何処かへ出かけて行った。
冒頭の通り、この頃の松村武と私は窮乏のどん底にのたうち廻っていたのである。
まだしも幸運だったのは、時候が春であったため寒いときだけ必要な羽織とか、下着とか、夜具や火鉢などを質屋へ運び、お金に代えて一息つけたのであった。
あるとき私は松村の机の上に煙草のつり銭の二銭銅貨を置いていた。
松村が「どこの煙草屋だ」と聞くので、私は「飯屋の隣の婆さんのところだ」と答える。
松村が「婆さんの外に、どんな連中がいるか」と聞くので、私は「婆さんよりもっと不機嫌な爺さんがいて、娘が一人いて、娘は監獄の差入屋とかへ嫁いでいる」と答える。
松村は立上って広くもない部屋をノソリノソリと歩き始めた。私は松村を残して飯に行った。私が飯屋から帰ってくると、松村は珍しいことに按摩を呼んで揉ませていた。
昨日、質屋の番頭を説きつけ手にした二十円の共有財産が、按摩賃六十銭だけ減ってしまった。
按摩が帰ると松村は何か紙切れに書いたものを読んでいる。やがて懐中からもう一枚の紙きれを取り出して二枚を比較研究している。鉛筆を持って、新聞紙の余白に、何か書いては消し、書いては消していた。松村は食事さえ忘れて没頭していた。
「君、東京地図はなかったかしら」突然、松村がこういって私の方を振り向いた。そして松村は階下へ降りておかみさんから東京地図を借りてきた。時計はもう九時を打った。
松村は一段落ついたと見え私に向かって「君、ちょっと十円ばかり出してくれないか」と云うのだ。
私は松村のこの不思議な挙動に対して、読者にまだ明かしていない私だけの深い興味を持っていたので、全財産の半分の十円を与えることに異議を唱えなかった。
松村は私から十円を受け取ると、古袷一枚に、皺くちゃのハンチングという扮装で、何も云わずどこかへ出ていった。
隠された五万円を見つけ出し、南無阿弥陀仏の謎解きを私に披露した。
翌朝十時頃、眼を醒ますと縞の着物に角帯を締めて紺の前垂れをつけた商人風の男が風呂敷包を背負って立っていた。松村武であった。
松村はニタニタ笑いながら低い声で「この風呂敷包の中には、君、五万円という金が入っているのだよ」と云う。
松村は五万円も無論有難いが、あの天才泥坊に打ち勝った勝利の快感がたまらないようであった。「俺の頭はいい、少なくとも貴公よりいいことを認めてくれ。君が俺の机においた二銭銅貨で、君が気づかず俺が気づいたことで、二銭銅貨の二百五十万倍の金を探し出すことができた、まさに頭が優れているということだ」と自慢する。
そして彼は謎解きを説明しだした。それは私の好奇心を充たすためと云うよりも、彼の名誉心を満足させるものであった。
俺は君が風呂に行った後、あの二銭銅貨を弄んでいると、あれは銅貨で作った何かの容器のようでネジを廻すと上下に開き、中から紙が出てきた。
その紙には次のように書きつけてあった。
陀、無弥仏、南無弥仏、阿陀仏、弥、無阿弥陀、無陀、弥、無弥陀仏、無陀、陀、南無陀仏、南無仏、陀、無阿弥陀、無陀、南仏、南陀、無弥、無阿弥陀仏、弥、南阿陀、無阿弥、南陀仏、南阿弥陀、阿陀、南弥、南無弥仏、無阿弥陀、南無弥陀、南弥、南無弥仏、無阿弥陀、南無陀、南無阿、阿陀仏、無阿弥、南阿、南阿仏、陀、南阿陀、南無、無弥仏、南弥仏、阿弥、弥、無弥陀仏、無陀、南無阿弥陀、阿陀仏、
この坊主の寝言のようなものをみて、最初はいたずら書きだと思ったが、これは<南無阿弥陀仏>の文字で作った暗号ではないかと思った。そしてその時に閃いたのが、例の紳士泥坊のことだ。これは手下か相棒に金の在り処を示すものだと思った。
無論空想さ。だがちょっと甘い空想だからね。そこで君に二銭銅貨の出所についてあんな質問をしたわけさ。ところが煙草屋の娘が監獄の差入屋へ嫁いでいるというではないか。
未決監に居る泥坊が外部と通信するためには、差入屋を媒介とするのが最も容易だ。
もしその目論見が何かの都合で手違いになり、そして差入屋の女房から親の煙草屋へ運ばれなかったと、どうして云えよう。
さて、この無意味な文字の配列を解くキーは何かと考え、俺は暗号と考え、南無阿弥陀仏の文字を組み合わせて置き換えたのだろうと想像した。そして講談本から武将の真田幸村の旗印の六連銭を思い浮かべ、そこからインスピレーションで盲人の使う点字が浮かび、按摩を呼んで教えてもらった。
自慢気に五万円を誇る松村に、それが私の悪戯なトリックだと説明する。
そういって松村は、按摩の教えてくれた点字を書いた紙片を机から取り出した。
点字の五十音、濁音符、半濁音符、拗音符、促音符、長音符、数字などが並べて書いてあった。そして暗号を解いた結果として翻訳したものがこれだ。<※青空文庫より図を引用>
ゴケンチョーショージキドーカラオモチャノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤショーテン。
つまり、『五軒町の正直堂から玩具の札を受取れ、受取人の名は大黒屋商店』というのだ。
紳士泥坊は一番安全な隠し場所は、隠さないで隠すことだと考えた。衆人の目に曝しておいて、誰にも気づかれない隠し方が最も安全と考えた。
そこで玩具という巧妙なトリックを考え出した。
「正直堂は、玩具の札なんかを印刷する店で、大黒屋商店の名で玩具のお札を注文していたんだ。そして紳士泥坊一味は、本物の紙幣を工場から盗み出し、印刷屋へ忍び込んで注文した玩具の札と摩り替えておいたのだ。そうすれば本物の札は、印刷屋の物置に残っているわけだからね」と云い、
「そして実際に俺は番頭に扮装して訪れて、摩り替えられた本物の五万円をまんまと横取りしたわけさ」と松村は云う。
私は笑い転げて、そして笑いを噛み殺して言った。
君は現実がそれほどロマンチックだと信じているのかい。そして私は松村の暗号の翻訳文に八文字ずつ飛ばして印をつけた。
ゴケンチョーショージキドーカラオモチャノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤショーテン。
この『御冗談』。誰かの悪戯ではないだろうか。その札の表面には<圓>という字の代わりに<團>という字が大きく印刷されてあった。
二〇圓、十圓ではなくて、二〇團、十團であった。
私は済まぬという気持ちと遣り過ぎた悪戯について説明した。
正直堂という印刷屋は、実は私の遠い親戚であった。ある日、そこで本物と少しも変わらぬ玩具の札をみたのであった。それが長年の大黒屋という得意先の注文品であることを聞いたのである。
私は話題となっている紳士泥坊の一件と結び付け、悪戯を思いついたのである。
あの暗号文も勿論、私が作ったものであった。煙草屋の娘が差入屋に嫁いでいることなど出鱈目であった。煙草屋に娘がいることさえ怪しかった。
最後に、トリックの出発点になった二銭銅貨について、詳しい説明を避けねばならぬことを遺憾に思う。へまなことを書いては、あの品を私に呉れた人が迷惑を蒙るかもしれないからである。
読者は私が偶然それを所持していたと思って下さればよいのである。