メッセージと感想
カミュは英語版で、自ら寄せた序文に
「ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることの真理である。それはまだ否定的であるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう」
と記している。
この言葉で、ムルソーとこの作品を理解することができる。
物語のなか、マリイとムルソーの会話で、マリイが「あなたは私を愛しているか」と尋ねたときに、「ムルソーは、それは何の意味もないことだが、と前置きして「恐らく愛していないと思われる」と答える場面がある。
マリイとムルソーは、ともに存在し、感じあっている。幸せを感じるこの時だけが真実なのだ。ムルソーには、それが、愛(という言葉)と=(イコール)の関係ではないのだ。
“愛”という言葉には、どこか、より高次で包摂的で、抽象的な印象がする。だからマリイは“愛”という返答を期待する。しかしムルソーは、そうは考えない。今このとき、マリイといる時間が幸福なのである。現在の具体的な感情がすべてなのだ。
そして「愛していないと思う」と答える。相手は傷つくことになる。しかし、好きじゃないと言っているのではないのだ。 現に、マソン夫妻の仲睦ましさを見てムルソーはマリイとの“結婚”を考えている。
逆に捉えれば、ムルソーは、絶対や真理に対して真剣であり、その意味を探す情熱に燃えているのだ。正直で、素直で、愚直なのだ。
確信のもてない言葉は、彼にとっては嘘の言葉なのだ。それは結果的に相手を騙すことになる。その方が相手に失礼だと考えているのだ。その意味では、ムルソーは単純ではない、むしろ複雑である。だから内向的であり無口なのだ。
最も有名な言葉 「太陽のせいだ」も同じではないか。
人間は理性だけでは生きていない。本能に支配されることもあり、当然、そこには欲情もある。
また、逆に人間は規範や教義を都合よく使い、まやかしを言う場合だってある。ムルソーの態度は、理解しづらい、いや寧ろ、誤解を生む。ときに異常さすら感じさせてしまう。しかし、そこに真理を探す入口があると考えるのだ。
カミユのいう反抗とは、偽りの条理つまり不条理に対して、抗うことである。
ここでいう不条理とは、道理や論理にかなっていない、筋道の通っていないこの法廷であり、盲目的にキリストに従い、無神論者に教義をおしつける行為である。
反抗とは、そこに、はっきりした明快な理性でもって対峙し抵抗する態度である。
ムルソーは、殺人犯である。それも五発も撃ち込んでいるのだ。裁判によって相応の罰を受けるのは当然である。しかしムルソーが無神論者であるという理由で、検事や裁判長が情状の余地のない極刑に迷うことなく処したことは、不条理ではないか。
読者は、裁判での判事たちの口頭弁論の根底に、反キリストであることが理由(彼らの条理)であることを知っている。そして最後は告解の機会が与えられるという流れ。規範(法)や教義(信仰)も、その運用によって、かならず正義とは限らないのだ。しかし満員の傍聴者も判決に満足している。
ムルソーは虚無的な人間に見えるが、正直さが前面にあり、キリスト教や裁判制度の不条理に対しての反抗する。
最期に、
すべてが終って、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。
とある。この理解のヒントも同じ英語版の序文のカミユの文章に、
paradoxically, that I tried to make my character represent the only Christ that we deserve.
とあり、
皮肉まじりの表現になっているが、逆説的に、ムルソー(自分のキャラクター)を私たちにふさわしい唯一のキリストとして描こうとしたと記されている。それは神への冒涜の意味ではなく、ムルソーへの愛情からだとしている。
ムルソーはアンチヒーローだが、決して人間の屑ではないのだ。
福音書では、キリストは磔刑に処せられ、憎悪の叫びによって迎えられる。ムルソーもまた同じように見物人の憎悪を望んでいるのだ。
しかし彼の場合は、尚、大衆に対する抵抗の証としての喜びという意味なのだろうか。
「勇気を出せ!私の姿を見ろ!」とムルソーが叫んでいるようではないか。
今、神を否定するムルソーは処刑台に向かう。自然は、ただそこにあり、人を差別せず、太陽は、いつまでも照りつけるだけなのだ。ムルソーは自由に生きた。
神による支配ではなく、自己への誠実のなかで、人間の自由を信じ、幸福な気持ちで死んでいく。
『異邦人』の悲劇は、自分に正直であろうとする者の悲劇として描かれる。
その意味で、カミュは自由を愛し、太陽を愛し、人間を愛しているのだ。
作品の背景
アルベート・カミュは1913年にフランスの旧植民地アルジェリアのモンドヴィに生まれる。地中海の美しい太陽はいっさいの怨恨を奪い取ったと、その素晴らしさを語る。カミュにとって太陽と海が生命を形づくっている。貧しい暮らしと文字を読めない母、愛していたが会話が無かったことをカミュは後悔している。冒頭、始まるママンの死の描写はその象徴でもある。
サルトルもカミュも幼いときに父を失うが、サルトルが祖父の慈愛を受けて裕福に成長したのと対照に、カミュは貧困のなか自然児として成長する。20歳で結婚するが2年程で離婚。共産党にも入党するが数年後に関係を絶つ。
苦学してアルジェ大学に学び奨学金だけでなくさまざまなアルバイトにつく。卒業後は新聞社に入る。『異邦人』は一躍、カミュを文壇の寵児にした小説である。サルトルの『嘔吐』とともにフランス小説史上の傑作とされる。
サルトルは実存主義者だが、カミュは人格神を否定する点では実存的ではあるが、二人は同じではない。当時、カミュは特にその先にある行きすぎた暴力での革命主義に反抗する。ただ二人は異なる手法で人間の不条理を描いた。『異邦人』には「人間とは何か」というカミュの根源的な問いかけがある。
ムルソーは真理のために死ぬことを決意する。それは神による支配ではなく、人間中心の自由の思想を信じるがためである。その意味で、カミュはより自然主義であり人間主義である。
発表時期
1942(昭和17)年6月、『ガリマール社』より刊行。最大傑作と絶賛される。カミュは当時28歳。
遡って1937年に『幸福な死』という習作が書かれ、39年『手帖』に『異邦人』の冒頭を記す。9月、第二次世界大戦が勃発。軍隊に志願するが健康上の理由で不合格。40年、アルジェを去りパリに移る。5月に『異邦人』第1稿。6月、フランスがドイツに全面降伏。年末、再婚相手のフランシーヌの郷里、アルジェリアのオランに転居。
1942年6月に『異邦人』刊行。12月に『シーシュポスの神話』刊行。『ペスト』を構想。戦後はサルトルと並ぶフランス文壇を代表する作家となった。1957年10月、44歳の若さでノーベル文学賞を受賞。フランスの受賞者中、最年少である。60年1月、交通事故により46歳で死亡。