本作品のメッセージと感想
名前を失うことは、社会的な存在基盤を失うこと
名前はアイデンティを形成する大きな要素です。唯一の個人と紐づいたもの、つまり識別機能です。
主人公は都市生活者らしい、都市は、物語の象徴です。会社員であり生活者です。名前を表すものが個人を証明する。名刺や様々なカード類、身分を証明する公的、私的なもの、その他、いろいろとありますよね。
それらを全て失えば、自身あるいは自身の所属の証明は不可能です。名前がなくなり、ぼくは空虚感が広がり、胸の中がからっぽになる。
そして陰圧から雑誌のグラビアの曠野の写真を呑み込んでしまう。逆説的に言えば、社会からの存在権を失った主人公が “どこまでも果てしなく続く広大な砂漠” を呑み込んだことは、心のなかの原風景に誘われたのかもしれません。
「目が覚めて調子が悪いことに気づく」ところから物語が始まっています。
現象的には名前に逃げ出されたのですが、もしかしたら「身心」と「名前」のアイデンティの相性の悪さを提起しているのかもしれません。
人間の手が介入しない手つかずの自然、人類が誕生したころの原野、まだまだ僅かばかりのモノを道具として発明していた時代。当然ながらマテリアリズムは存在しません。
人間は本来、人工的なモノとどのような相性だったのか?物質文明のなかで、人間の「身心」は溢れる情報とモノに一体、どこまで耐えられるのか。
それはまさに現代社会における実存の不安なのです。
果てしない近代化の先で、人間はどうなるのか。
この作品には、宗教や哲学的な要素がいっぱいです、でもそれがどこかちぐはぐであまり役にはたっていないようです。
不条理のなかで、何もかもが無益なのを、ユーモアたっぷりに楽しめる。
あえて、原罪や人間の業というものを考えてみた。
なるほど、サルトルが提唱した「実存は本質に先立つ」(仏:l’existence précède l’essence)は、モノと人間を比べた場合に、おおいに説得力があります。
この物語では、全てのモノが立ち上がります。物質文明の反乱です。
死んだ有機物から 生きている無機物へ!と名刺が扇動してモノたちが反抗する。
モノだけではない、人間が発明した言葉も、さまざま専門知識や技術も、ぼくの味方にはなってくれない。
病院では、科学で解明できない非科学的なものは排除される。哲学者、法学者、数学者たちの専門性も、問題の解決には効果がない。好意を抱いているY子も、吸収してしまうので共にいることはできない。
田舎のパパは、都市主義者に変わった。ユルバン教授となったパパは、成長する壁とは何かの解剖を試みる。名前を失った結果、肉親も恋人も、そして田舎からも都市からも疎外される。
人間の造った人工の社会は、記号化されていない存在を許さない。人権も保護されなくなり、心の中さえも覗こうとしているのだ。
Y子が発したように「もう我慢できない!」と叫びたくなる。
あくまで安倍公房のワンダーランドであり、不条理なファンタジーです。しかしこの無意識下のお話、どこかで理解できる感じがする。言葉も知識も無力化し、職場やプライベートの人間関係から疎外され自ら、心のなかに壁を立てる。
壁こそが、自分らしい実存の世界なのだ。
都市が発展すればするほど、心の壁もまた成長していくのである。
そしてついに、<世界の果=自分の部屋=自分の心>のなかを生きることで、外なる世界と内なる自己が同一化するのである。
これは近代人の実存をテーマにした大人たちの「不思議の国のアリス」かもしれない。