安部公房『壁‐S・カルマ氏の犯罪』解説|実存の不安からの脱出!空っぽの心が求めるものは?

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無機物よ立ち上がれ!

ぼくは名刺が帰ってくるのを待ちます。仲直りしたいと思いました。外では二人の大男がぼくを見張っています。ぼくはまどろみそうになりますが体がしびれて動けません。

何時間かたってドアの上の隙間から名刺が入ってきました。そして大声で言いました。

「起きろ、起きろ、みんな起きろ。革命だぞ!」

すると脱ぎすててあった上衣が生物のようになり、ズボンが立ち上がりました。下駄箱から靴がぽんと飛び下り、まるで透明人間がはいているようでした。机の上から眼鏡があげは蝶のように舞い上がりました。ネクタイが壁から蛇のようにするりと這い下りました。帽子がころげ落ち、ポケットから万年筆がトンボのように飛び立ち、手帳が蛾のように飛び出し電球にぶつかって床に舞い下りました。

「みんな集まれ」と名刺が言い「マニフェストを壁に貼ろう」

死んだ有機物から 生きている無機物へ!

「われわれは闘争しなければならない」と名刺が言うと、いっせいに拍手が起こる。

当面の攻撃目標は、日曜の午前十時。敵は動物園でタイピストのY子を誘惑する計画をもっている。われわれは全力をあげてこれを妨害しなければならない。

われわれは敵を永遠の被告たらしめることができた。今度は敵の存在理由を根絶するのだ。

眼鏡は、「女の子に逢うときに外される、おれはすべてを見る自由がほしい」と言い、万年筆は、「完全に搾取されている、書いたものを自分のものにしたい」と言い、時計は、「長針と短針が合える十二時だけを指していたい、 奴らのために三時だの、七時だのいやらしい時間はもう指ささない」と冷たく言う。

「そうだ、おれたち物質は堕落した」「畜生、首を絞めるということがどんなことだか思い知らせてやろうか」とネクタイがしわがれた声で呟いた。

他の身の回り品たちも興奮して口々に叫ぶ。

「おれたちにとって奴等は無用の長物だ。」「一方的な搾取」「われわれ物質は主体を恢復かいふくしよう」「生活権を奪取するんだ。」まるで階級闘争ですね。 

名刺は、無機物たちに敵の外出を阻むことを命じ、その間に動物園に行ってY子を誘惑すると言います。

明け方になって、すべての無機物はもとの位置に戻ります。

突然、身体が動かせるようになり、ぼくがベッドから名刺にとびかかると、名刺は外へ滑り出しました。

ぼくは、悲しくなりました。おかしなことばかり多くて、普通のことがほとんどない。従来、ぼくは理性は人間を不幸にするものだと考えてきたほうなのです。そんなことを考えながら、ぼくは果てしない空間をどんどん落ちていき、 気づけばあの「曠野」を歩いていました。

突然、田舎にいるはずのパパがぼくの部屋にやってきます。

パパは、ぼくが正気かを心配しているようですが、あまり親身に感じられません。そして来たばかりなのにすぐに帰ろうとする。門の影に潜んでいる二人の大男たちとも顔見知りのようだった。ぼくは、これは本物のパパなのかと疑う。

ぼくは言う「人間って名前の代わりを用意しておくわけには行かないものなんでしょうかねぇ」
パパは言う「もう帰らなければならない。もしかして家に代わりの名前が一つくらいないとも限らないからね、見てくることにしよう」

時間は九時半、あわててY子と待ち合わせの動物園に急ごうとするが、ズボンや上衣やネクタイ、眼鏡、靴、万年筆、帽子、手帳の執拗な抵抗にあいます。無機物たちはぼくの外出を阻止します。

力つきて、気を失い、そのまま床に倒れ、眼を覚ますともう日差しが傾いていました。

ぼくはそれでも動物園に向かう、閉園近くでしたが、中はひどい混乱でした。うろうろしながらベンチの前に来ると、そこに名刺とY子がいました。

Y子が言う、「人間たちは私たちのことを堕落したとか異常だとかいうかもしれないわ。」こともあろうにY子がまるで自分が人間でないようなことを言います。名刺は言う、

「全体このやっかいな人間どもは、堕落といい異常といい、悪いことは全部おれたちになすりつけようする。だが、だまされちゃいけない。こうしたことは全部人間の卑劣な責任回避の口実にすぎないんだ。なまけものの天国、必然と偶然の境目のなくなった世界、結局そうした奴等のあさましい願望がおれたちの責任でつぐなわれなければならないんだ。

これは人間に翻弄される全ての無機物たちの思いと言うことなんですね。作者は人間の傲慢さを指摘しているのでしょう。

ぼくが名刺のすぐ後ろに来ると、名刺が振り向きました。不敵な笑いをうかべ肘でY子をうながします。「まぁ、人間のあひるかしら」とY子が言いました。

「Y子!」とぼくはかろうじて叫びました。

しかしぼくがY子だと思っていたのは、実はマネキン人形だったのです。

そのマネキンは、中学校の頃にG町のマネキン専門店のショー・ウィンドウで見たもので、いかにも可愛らしい姿に心を寄せていました。ぼくの初恋だったかもしれません。

そうなのです、主人公の初恋は人間ではなく、マネキンだったのです。
そして今、Y子は、ぼくの状況によって人間にもマネキンに見えてしまうのです。

閉園のベルが鳴り、名刺とマネキンのY子が遠ざかっていきました。

あたりの景色がうるんで見え、気がつくと夜でした。ぼくは運河にそった、街灯で明るい静かな通りを歩いていました。角を曲がるとそこはG町の裏通りであのマネキンの立っていたショー・ウィンドウがありました。

なかは空っぽで殺風景でした。ドアの前には中学生のころ空想の中でライバルに仕立て上げたあの男の人形が立っていました。男はY子の行方を探しているようです、マネキン同士の恋愛で すね。

男にマネキンのY子がいた場所を教えるとお礼をするという。

その礼とは、名前のないぼくが監視しつづけられ、裁判は永久に続き、すべての事件がぼくの罪状とされ、死刑は免れないというこの状況から解放させるもの、だと言うのです。

監視も無い、法律も無い、人権も無い・・・状況からの解放。
 それは<世界の果て>に行ってしまえばいいのです。

「世界の果・・・。ぼくは幾度かそんなビラを見ました」と言うと、「現代の流行なんですよ」「早く出発しなさい」と男は言う。

「ええ。できればぼくも、この屈辱から遠出したいと思っていました」
「是非、そうなさい。それ以外にあなたの存在理由はない」

そこで、これを差し上げましょう。

今夜、催される、世界の果に関する講演と映画の切符です。これがお礼です。

特殊喫茶・鳩。
キャバレー・ロンド。
ラ・クンパルシータ。 

「切符をお持ちですか?」そう語りかけたのは、マネキンのY子でした。案内されて、広い部屋へ突き飛ばされると、ドアもY子も消えました。

中から「切符をいただきます」と言われ、映写機から曠野の風景が広がります。
それは、ぼくの胸にあらわれたあの曠野でした

そして“旅への誘い”という単調なメロディを聞かされた後で、講演がありました。その話は、世界の果ては世界が四角と考えられていたころと変わり、地球が球体となって事情が変わった。世界の果てという概念も全く逆となり、一点に凝縮してしまった。

世界は四方八方から追いつめられて、みなさん自身の部屋が世界の果で、壁はそれを限定する地平線にほかならぬ。

そう言うと、スクリーンには部屋の画面が現れました。それはぼくの部屋でした。

いよいよクライマックス、映画の主人公の劇的登場というアナウンスが流れます。それが、ぼくということでした。ぼくは舞台に上がるように言われます。スクリーンいっぱいにぼくの影がゆれました。ぼくは影になったのでした。

すると二人の大男がぼくの背中を突き飛ばし、ぼくはスクリーンのなかに頭からつっこんで行きました。

ぼくは―というよりもはや “彼は” と言わなければならないでしょう。(ここから3人称に変わります、つまり人間一般ということですね)

彼は部屋のなかに倒れていました。目の前には壁がありました。壁は限りない広さで彼の前に立っていました。それは実証精神と懐疑精神の母胎であると考えました。

するとひとつの詩が彼の眼と脣の間で歌いだすのでした。

壁よ
私はお前の偉大ないとなみをめる
人間を生むために人間から生まれ
人間から生まれるために人間を生み
おまえは自然から人間を解き放った
私はお前を呼ぶ 人間の仮設(ヒポテーゼ)と

ふと壁が見えなくなります。物質からメタフィジカルなものになったのです。またたきを繰り返すと壁は帰ってきました。そして壁は彼の中に吸収され、次第に透明になって消えて行きました。

彼ははるかな地平線を見つめ、あたりは暗くなり、青白い月が天頂の窪みにころげこみ、

彼はひざを抱えて砂丘に坐っているのでした。

しばらく行くと砂丘が見えなくなり、何かが地面を割って出てきます

それは壁でした、ぐんぐん成長してきました。そして塔のようにそびえ立ちます

壁の後ろには大きなドアがあり地下室を下りていく。そこは誰もいなく、タイピストのY子とマネキンのY子の左右半分ずつ、くっつけ合わせた肖像画が画いてありました。 一枚のビラを確認します。それは裁判速報で、

「被告は世界の果ての逃亡を決意し、その目的をもって部屋の壁を吸収した。そのため被告が吸収した無人の曠野には壁が生え、目覚ましい成長をとげつつある模様。その成長する壁を調査すべし」

とあります。

突然、電話がかかり彼がとると、私は≪成長する壁調査団≫のユルバン教授で、生粋の都市主義者だと言います。

そして、成長する壁、生命ある壁!とは何という現代の現代の叙情詩か・・・、それは都市主義者の思想の夢だと語り、彼の所へ来ると言います。

≪成長する調査団≫が到着する。団長は黒いドクトルで、副団長はパパでした。

田舎のパパは、調査団に入ってurbanist(ユルバニスト)、都市主義者に変わったのです。そしてパパ‐ユルバン教授は、ぼくの胸のなかを解剖しようとします。

タイピストとマネキンの二人のY子が現れて、歌を歌うことで、危険を知らせ、解剖を免れ、救われて、ぼくは直接成長する壁まで案内することにします。

「さようなら」とY子は遠のいていきました。Y子とはお別れです。さすがに、人間のY子を吸収するわけには行きません。

ここで「ラクダが針の穴をとおるのは、金持ちが天国へ行くよりも容易やさしい」と聖書を意味不明に解釈して、≪成長する壁調査団≫は国立動物園からラクダを至急、取り寄せます。

ラクダは曠野を嗅ぎつけてやってきます。ユルバン教授がラクダに乗るとみるみる縮小しました。そして彼の眼のなかに入りこんだのでした。目のなかを進むと涙腺にあたり、ノアのミイラとボロボロの方舟が現れます。

そこで泣き出してしまって、涙があふれ、洪水が起こりノアは消え、方舟も消え、ラクダも消え、投げ出されたユルバン教授が泳いでいる。ここは「不思議な国のアリス」の「涙の池」みたいですね。

彼がハンカチで鼻をかむと、鼻の粘膜の中から、ユルバン教授は帰ってきます。二人は、もうこりごりという感じで帰っていきました。

彼はただひとり、あとに残されて、全身に何とも言えないこわばりを感じました

それが胸の中の曠野で成長している壁のせいだと気づきました。壁が大きくなって、体の中いっぱいになっているにちがいありません。

首をもたげると窓ガラスに自分の姿が映って見えました。もう人間の姿ではなく、四角な厚手の板に手足と首がばらばらに、勝手な方向に向かってつきだされているのでした。

遮るもののない広い曠野と目の前のものを遮る壁が、同一化してくるのです。そして、ついには彼の全身が一枚の壁そのものに変形してしまっているのでした。

見渡す限りの曠野です。その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。