安部公房『箱男』あらすじ|匿名と贋者が、交錯する社会。

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解説>箱男とは、何者なのか?なぜ箱男になっていくのか?社会の登録を逃れ、都市を彷徨う箱男たち。帰属を捨て存在を放棄しながら、見て/見られ、覗いて/覗かれる。贋者が匿名に入れ替わり、社会に箱男があふれる。あなたを箱男の不思議に誘惑するシュールで迷路な物語。

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登場人物

ぼく(箱男)
元はカメラマン。T市での路上生活を記録する。空気銃で肩を撃たれ犯人を探し始める。
医者(贋医者) / 供述書ではC
贋の箱男、元は軍の衛生兵で軍医殿の戸籍を借り贋医者としてT市に診療所を開業。
彼女(看護婦) / 供述書では戸山葉子
中絶で病院を訪れその後、看護婦見習に。元は画学生でモデルで生計を立てていた。
軍医殿
麻薬中毒。医者の名義をCに貸し診療所を開設させ、自分の妻をCの内縁の妻にする。
奈奈
軍医殿の正妻、看護婦。軍医殿の同意でCの内縁の妻になるが、戸山葉子が来て別居。
A
アパートの窓の下に住みつく箱男を空気銃で撃つが、後に自分も箱男となり家を出る。
B
箱男Bの抜け殻のダンボール箱は、公衆便所と板塀の隙間で朽ちていた。
C
贋医者で「供述書」の名前はC。職業は医師見習い、贋の箱男で軍医殿の殺害を計画。
D
中学生。アングルスコープを作り、女教師宅のトイレを覗こうとして見つかる。
ショパン
父親の引く箱の馬車に乗り花嫁の家の近くで立ち小便をして見られて町を出て行く。
ショパンの父
60歳で、息子ショパンの結婚式に箱をかぶって箱男の馬車になり息子を引いていく。

あらすじ(ネタバレあり)

軍医殿の殺害を巡って箱男(元カメラマン)、看護婦、にせ箱男(贋医者/C)の四人の登場人物を中心に、箱男の匿名性と社会との関係性を問題提起します。安倍公房の「箱男」は、それぞれの章からなり、実験的に新聞記事や詩、冒頭のネガフィルムや写真などの挿入もあり、あらすじを作成することが難しく、私の解釈でまとめてみました。※《章》_(新潮文庫Page)を表記すると同時に【補足】の説明も加えます。

箱男とは、如何なる存在で、どのようにして生まれるか。

挿入-《上野の浮浪者一掃 けさ取り締まり 百八十人逮捕》(Page:006)

【注記】新聞の記事が紹介されます。それは二十三日未明の上野周辺。

「東京上野署は、冬の季節に向けて上野周辺の浮浪者の一斉検挙を実施し、合計百八十人を、軽犯罪法(浮浪の罪、立ち入り禁止違反)、道交法(路上禁止違反)違反現行犯で逮捕、連行し、指紋や顔写真を取り「二度と浮浪しない」との誓約書を取り釈放。しかし一時間後にはまたもとの場所にまいもどった。」と紹介。

【解釈】百八十人の浮浪者が、「もとの場所」に戻ったとしています。この物語では、<浮浪者>と<箱男>は区別されています。<浮浪者>は、社会集団として一定の場所に帰属しており、<箱男>は、全く帰属場所のない個の人々を指しています。

《ぼくの場合》(Page:007)

これは箱男についての記録である。ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺りまで届くダンボールの箱の中だ。つまり、今のところ、箱男はこのぼく自身だということである。箱男が、箱の中で、箱男の記録をつけているというわけだ。

【解釈】上記の個所は、後の《Cの場合》(Page_154)にも、全く同じ書き出しで始まります。つまり、箱男である<元カメラマン>とにせ箱男である<贋医者/C>は、記録のノートの書き出しが同じです。つまり引用文中の<ぼく>は、物語の中で<元カメラマン>と<贋医者/C>の二人が存在します。(「ぼく」という呼称の人間は複数登場します。)

《箱の製法》(Page:008-013)

次に、箱のつくり方が詳細に記されます。

材料としてダンボール空箱、ビニール生地、ガムテープ、針金、切りだし小刀を用意。

ダンボール空箱は、縦横一メートルで、高さが一メートル三十前後。そして覗き窓を縦二十八センチ、横四十二センチ開けて、そこに艶消しビニール幕を縦に1本切れ目を入れて取り付ける。さらに箱の左右に、径十五センチくらいの範囲に小さな穴をあける(音が聞き分けられたり、補助の覗き穴にもなる)。

その他に針金を壁に吊るすかぎにしておき、身の回りのものの整理に使用する。そして長靴を用意し、ドンゴロス(麻袋)を腰に巻き付ける。

【解釈】特に、ビニール幕に切れ目を入れた覗き窓と、箱の内側の余白部分の記録をする個所は後の展開の大きなポイントとなっています。

挿話-《たとえばAの場合》(Page:014-023)

解釈】挿話が入ります。Aがどのように心理変容して箱男になったか。アパートに住むAが、箱男を目撃し嫌悪し撃退しますが、その後、次第に自らも説明がつかない魅力に惹きこまれていき、ある日、箱をかぶって部屋を出ていってしまう話が紹介されます。

箱男は全国各地にかなりの数がいるが、話題になったことはあまりない。世間は、箱男について口をつぐんでいる。でも箱男になる動機は、例えばAの場合である。

ある日、Aのアパートの窓の下に一人の箱男が住みついた。Aは、不法に領分を犯されたような、苛立ちと困惑、異物に対する嫌悪と腹立ちを感じる。警察に相談したが迷惑顔で被害届を書くように言われ、自分で解決するしかないと考えた。そして友人から空気銃を借りる。

ある日、窓から見るAと箱男の視線が合う。覗き穴のビニールが割れ、白っぽく濁った片目がこちらをうかがっており、Aは逆上し空気銃で撃った。そして箱男は、姿を消した。

Aは、それから半月ばかり箱男のことを忘れていたある時、冷蔵庫の買い替えをした。そして梱包していたダンボールを見た途端に箱男の記憶が蘇る。Aは手を洗い、鼻をかみ、うがいをして窓のカーテンを閉め箱の中に這い込んでみた。懐かしい場所のような気がした、辿り着けそうで、手の届かない記憶。

翌日、ナイフで箱に覗き窓をつけ、頭からかぶってみた。胸の動悸が危険を告げて、思いっきり乱暴に(ただし壊れないように)箱を蹴飛ばした。

三日目。すべての光景から棘が抜け落ち、すべすべ丸っこく感じる。壁のシミ、積み上る古雑誌、タバコの吸い殻が溢れるコンビーフの空缶。そんなすべてが棘だらけで、無意識に自分に緊張を強いていることを気づかせた。

翌日、Aは箱をかぶったままテレビを見た。

五日目からは食事と、大小便と、睡眠以外は箱のままで過ごすようになった。ずっと自然で、気も楽だ。

六日目。最初の日曜日。街に出て必要なもの一式をかかえて箱に籠城する。Aは、箱の内壁に手鏡を吊るし、ポスターカラーで唇を緑に塗り、眼のまわりを虹の七色で輪を描く。そしてはじめて、箱の中で軽く手淫し、箱をかぶったまま寝た。

そして翌朝(ちょうど1週間目)Aは箱をかぶったまま通りにしのび出て、戻ってこなかった。

匿名の市民だけのための匿名の都市、そんな街のことを思い描き、夢を見た事のある者は、Aと同じ危険にさらされている。めったに箱男に銃を向けたりしてはいけない。

【解釈】以上のAの挿話は、後の本題である贋医者が、箱男(元カメラマン)を空気銃で撃ち、その後、箱をかぶって贋箱男となって病院を出て行く心理変容の共通原理となっています。

箱男のぼく(元カメラマン)が空気銃で撃たれた理由は・・・

《表紙裏に貼付した証拠写真についての二.三の補足》(Page:040-049)

【解釈】巻頭に、ネガフィルムが挿入される(Page_000)空気銃を小脇に、銃口を下に向けて体のかげに隠し、小走りに逃げて行く中年男の後姿。正体は、贋医者/Cの男。

撮影日時・・・約一週間ないし十日前の、ある夕刻

撮影場所・・・醤油工場の長い黒塀の、山よりの端

箱男のぼく(元カメラマン)は立小便の最中に、空気銃を持った男に撃たれた。

狙撃者の正体についての最初の推測は《Aの場合》を考えた。自分も箱男になろうとする場合は、空気銃で狙撃することが一般的な傾向のようだ。東京の盛り場ならいざ知らず、このT市の繁華街では、二人の箱男を受け入れる余地はない。どうしても縄張り争いになる。

だが推測は一転した。自転車に乗ってやって来て「坂の上に病院があるわ」と言って、白い指先から千円札が三枚投げ込まれた。それは若い娘で、自転車をこぐ脚の運動が、強くぼくをとらえた。

坂の上の病院を訪れると、空気銃男は、その病院の医者で、自転車の娘が看護婦であった。夜明け、化膿した肩のうずきが、ぼくをしめあげ病院に行き、注射器を持った自転車娘と、メスをつかんだ空気銃男が、ぼくを待ち受けていた。

ぼくは、<箱男>の知り合いのふりをして、<箱男>なら面識があるので、代わりに五万円で、箱を買い受けてやろうと約束をした。今になって思うと、箱で何をたくらんでいるのか、その場で聞きただすべきだったと思う。

《安全装置を とりあえず》(Page:024-039)

【解釈】危険を予期する箱男(元カメラマン)のぼくは、ノートを証拠物件(安全装置)として残しておくつもりである。

いま、運河をまたぐ県道三号線の橋の下で雨宿りをしながらこのノートを書きすすめている。

ぼくは、漁業組合の倉庫と、材木置場という箱男の雨宿りとしてふさわしくない場所で二時間以上待っている。その理由は、ぼくの箱が五万円で買い手がつきその取引のために買い手を待っている。

もっとも今は後悔気味だ。いずれ手痛く後悔させられそうな予感。気が滅入り惨めな気分、箱男の特権を自分からあっさり放棄してしまったようなものである。覗き見た彼女の脚に、すっかり武装解除されてしまった。ぼくの箱に何か変化が起き始めているのだろうか、この町はぼくに悪意をもっている。

そこで安全装置としてこのノートを証拠物件として残しておくつもりである。

どんな死に方をしても、ぼくには自殺の意志が少しもなかったということを。「箱男と浮浪者は違う」。とくに「ワッペン乞食」には、露骨な敵意と蔑みを突き付けられる。

あんがい浮浪者(乞食)までは、まだ市民に属する周辺の一部分で、箱男は浮浪者(乞食)以下かもしれない。

心の方向感覚の麻痺は、箱男の持病である。ただ落伍者意識はなく、別の世界への出口のような気さえする。

彼女のかわりに代理人がやって来て、この橋の下を処刑場にするつもりなのだろう。こちらが天性の「殺され屋」である以上、存在しないも同然の箱男なのだから、殺しても殺したことにはならないのだ。

このノートも、ビニール袋に入れて、赤いビニールテープで、目立つようにして拳大こぶしだいの石を結びつけておく。そして相手が変な素振りを見せたら、袋を流れにほうり込んでやろう。表紙裏の右上の隅、セロテープで貼りつけた白黒のネガフィルムも証拠になってくれるだろう。

挿入-《それから何度かぼくは居眠りをした》(Page:052-057)

【解釈】貝殻草の匂いを嗅ぐと、魚になった夢を見るという。そんな話を書いている。

貝殻草は塩分を含んだ湿地を好むので海辺に育ちやすく、一説によると花粉に含まれるアルカロイドが眩暈めまいに似た浮遊感をひきおこし、呼吸器膜を刺激し水に溺れたような錯覚におちいるらしい。

夢の中の魚が経験する時間は、覚めている時間とは違う流れで速度が遅くなり、地上の数秒が、数日間にも、数週間にも引き延ばされて感じるらしい。

そして夢の中の贋魚は、嵐がやって来て死んでしまうのだが、夢から覚める前に死んでしまっているので、もうそれ以上、覚める訳にはいかなかった。死んだ後でも、夢を見つづけなければならなかった。

にせ魚も箱男も、同じだと思われる。箱をかぶって、ぼく自身でさえなくなった、贋のぼく。箱男とは夢から覚めても、けっきょく箱男のままでいるしかないのだ。

《約束は履行され、箱の代金五万円といっしょに、一通の手紙が橋の上から投げ落とされた。つい五分ほど前のことである。その手紙をここに貼付しておく》(Page:058)

手紙には以下の通り書いてある。

あなたを信頼します。領収証はいりません。箱の始末も一任します。潮が引き切る前に、箱を引き裂いて、海に流してしまってください。

《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》(Page:059-064)

やってくるのは医者と思ったが、彼女は自分でやって来た。この五万円を受け取ってしまった以上、ノートを始末したくらいでは間に合わない。彼女が要求しているは「箱」の始末なのである。

《鏡の中から》(Page:065-082)

もう何度も通った道なのだが、箱をかぶっての坂の上の病院の赤い門燈は、ひどく遠く感じられた。医者とは顔を合わせたくないので生垣をまたいで庭に入り込む。彼女の部屋は、建物の裏にまわって、左から二つめの窓である。あれから一時間足らずだし五万円を返して約束を取り消してもらい、よく話し合ってみたい。

捨てずに持っていた車のバックミラーで何とか工夫して覗くと、部屋には二人の人物がいた。一人は彼女だった。素っ裸のまま、部屋の中央付近で誰かに話しかけている。話しかけられているのは箱男だった。ぼくとそっくりな箱をかぶって、ベッドの端にかけていた。ぼくのと寸部違わないダンボールの箱なのだ。計画的に真似た、ぼくの贋物に違いない。なかみは・・・むろん医者だろう。

肩の手当の後で、聞かされた身の上話は次のようなものであった。彼女は、見習い看護婦として今の職につくまでは、貧しい画学生でモデルをして生計を立てていた。二年前に、この病院で妊娠中絶の手術を受けた。三か月、無料で入院させてもらっているうちに看護婦がやめ、代わりに居ついてしまった。

彼女は、肩の傷口から出た空気銃の弾や、髪の形などから、ぼくが変装を脱いだ箱男であることを見抜いていたはずである。ぼくは裸の彼女を覗いていたが、すでに他人(それもぼくの贋物)に覗かれてしまっている裸を覗いていた。よけいに嫉妬心を掻き立てられる。

もし二人がぐるだとしたら、ぼくはさぞかし、いい笑いものになったことだろう。しかし、裸の彼女から意地の悪さや企みは感じられない。屈辱感はあっても憎しみの感情は湧いてこない。想像していたよりもはるかに魅力的な裸。当然のことだ、現実の裸に想像が追いついたり出来るわけがない。

裸は肉体とは違う。裸は肉体を材料に、眼という指でこね上げられた作品なのだ。

そして裸の女と贋箱男は、さまざまに語らっていた。五万円を受け取った、あの瞬間から、本物の権利は向こうに移り、ぼくの方が贋物になったと考えるべきかもしれない。

挿入-《行き倒れ 十万人の黙殺》(Page:050-051)

【注記】新聞の記事が紹介されます。それは二十三日、午後七時ごろの新宿西口地下通路。

四十歳くらいの浮浪者が柱に寄りかかって死んでいるのをパトロール中の新宿署員が発見。同署の調べでは、身長一メートル六三、中肉。花模様の長袖シャツに作業用長ぐつをはき、髪はボサボサの浮浪者風。現場は一日の乗降客数十万人にも及ぶが、だれひとり気にも止めず。警察官が見つけるまで六.七時間、何の通報もなかった。

贋医者/Cが軍医殿の殺害を計画後に、想定した供述書。

【解釈】最初、にせ医者/Cは軍医殿を殺して箱男に偽装し海に葬るため、ぼく(元カメラマン)と箱男を入替(ぼくの箱を捨てる)のために襲撃し、五万円で買い取り(箱の処分)の取引をしたようだ。しかし、以下に続く《供述書》《Cの場合》《続・供述書》の内容から、贋医者/Cが、新たな<贋箱男>になっていく様子が描かれている。

《供述書》(Page:149-151)

T海岸公園に打ち上げられた変死体についての供述書。

姓名 C 

本籍 (略)

職業 医者見習(看護夫)

生年月日 昭和元年三月七日

私はCが本名で、使用していた名前は、戦時中私が衛生兵として従軍した際に、上官である軍医殿の名を本人の了解のもとに借用したものである。家族については、内縁の妻、<奈奈>と同居し、<奈奈>は看護婦として家業を手伝う。<奈奈>は、もとは軍医殿の正妻だが、私との同居は、軍医殿の同意と了解のもとなされた。また昨年、あらたな看護婦見習として<戸山葉子>を雇い入れた際に、不満として別居を申し出、私もこれに同意して現在にいたる。

《Cの場合》(Page:152-159)  

書きかけの供述書をわきに押しやって、一冊のノートをひろげる。四六判、橙色の縦罫…君がぼくのノートとそっくりのを用意したとは知らなかった。

表紙をめくる。第一ページ目は、次のような文句で始まっている。

「これは箱男についての記録である。ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺まで届くダンボールの箱の中だ。つまり、今のところ、箱男はこの僕だということでもある。」

場所はT市、九月最後の月曜日…・

どうやら君は、まだなに一つ始まっていない明後日のことを、既に起こった出来事として記録し始めているらしい。

【解釈】つまり、この供述書は贋医者/Cが未来の想定で書いたもので、現実ではない。

「…人影もまばらな海岸公園の外れに身元不明の変死体が打ち上げられた。頭から包装用の段ボール箱をかぶり、腰ひもで体に固定していた。市中を浮浪していた箱男が誤って運河に墜落し、潮に流され辿り着いたのだろう。検視の結果、死亡時はおよそ30時間前と推定された。」

【解釈】箱男は、元カメラマンからにせ医者/Cに変わっているが、贋医者/Cが、軍医殿からの視点(軍医殿が箱男になっている想定)でノートを記述している。  

《続・供述書》(Page:160-168)

お尋ねの変死体は、私が医療行為のため姓名を借用していた軍医殿に間違いがないこと。軍医殿には、かねてから自殺の危険があったこと。

私は終戦の前年、某地野戦病院にて軍医殿の従卒に配属される。当時、軍医殿は材木から糖分をつくろうと酵素の分離抽出に没頭されていた。ある時、軍医殿は奇病にかかり、やがて麻薬を常用。終戦時には、軍医殿は中毒症状になり、私が代診として診療所を開設し経営ならびに診療にあたった。

不当医療行為を行った理由は、

第一には、軍医殿のために麻薬の補給を続ける必要があったこと、これが時間をかけた安楽死であることを承知しながら見捨てることができなかったこと。

第二には、軍医殿の資格を看板にすることで生計が確保されたこと。また経理は一切、軍医殿の妻である<奈奈>の手中にあったが、後に内縁の関係になったのも軍医殿が私に見捨てられることを恐れ引き留め工作として、私と関係を結ぶように<奈奈>にせまったためのやむなく取った手段であること。

第三には、評判が良かったこと。ただ法をおかして良いというようなことはありえず、贋医者としての罪がゆるされるとは思っていない。

そして八年目に、異常な言動や麻薬の使用量から監査を受けることとなり、軍医殿と相談の結果、診療所を閉鎖しT市に移転してきたというのが現在に至る経緯です。

死体はダンボール箱を被っていたということですが、心当たりはまったくありません。

ただ軍医殿は、姓名、戸籍、資格などと共に人格まで私に譲渡してしまい自分が何者でもなくなったと信じているようでした。

麻薬中毒患者が薬を手に入れるためにいかに狡猾、無鉄砲になるかは世間周知の事実でありましょう。死亡診断書を作成しようにも、私と同姓同名であり、私は軍医殿に自殺だけは見合わせるよう懇願しました。

すると図に乗った軍医殿は、そのかわりに麻薬の量を増やしてほしい、新しく来た看護婦見習<戸山葉子>の裸体を鑑賞させよ、裸体のままの<戸山葉子>に浣腸(かんちょう)してもらいたいと私を困らせました。

私は贋医者であることが罪であると思い、心から反省しているのです。これを機会に一切を正直に申し述べ、長年の心の重荷を清算したいと考えます。

【解釈】この記述は、検死の時刻を月曜の早朝とし三十時間前のであり、この時点でノートには、三十時間後の未来を記録していることになる。あくまで想定である。

挿入-《別紙による三ページ半の挿入文》(Page:083-091)

真っ暗な中で、服を脱ぎ、明かりをつけた。裸になった私(看護婦)は男の目脂めやにを拭き、男はいろんな姿勢を要求した。でもすぐに注射が効きはじめて目つきも怪しくなり、でも最後はけっきょく浣腸かんちょうをさせられてしまった。

【解釈】贋医者が看護婦に、看護婦と軍医殿(虚勢豚)とのやりとりを根掘り葉掘り聞く会話文で綴る。

贋医者/Cは安楽死を装って、軍医殿を殺す。

《死刑執行人に罪はない》(Page:169-183)

遺体安置室で寝たふりをするぼく(軍医殿)のところに、君(贋医者)が箱(ぼくの棺桶)を持ってやってくる。君(贋医者)は、ぼく(軍医殿)の肩を小突いてみる。ぼくは寝たふりをつづける。

ぼくの左上膊じょうはくにゴムを巻き、静脈をさぐり出す。注射器のポンプは、二十の目盛りいっぱいに引かれているが、中に入った塩酸モルヒネ三ccを送り込む。口に死相が現れる。さらにポンプを押しつづける。送り込まれるのは空気だけだ。

そしてぼくは死んでしまう。

溺死に見せるため、大型の漏斗じょうごを口にくわえさせ、タンクの中の海水を注ぎ込む。ぼくの死体に箱をかぶせ、固定用の紐で腰に括りつける。そして死体の捨て場は、例の醤油工場裏。水面まで崖が切り立っていて、確実に流れに乗ってくれる。

【解釈】殺されようとする遺体安置室にいる軍医殿のことを、贋医者/Cが軍医殿の視点(軍医殿の立場)を<ぼく>としてノートを綴っている体裁になっている。

《ここに再び、そして最後の挿入文》(Page:184-192)

昭和三十八年二月に名古屋高裁で出された安楽死の判例について、

一 病人が不治の病におかされ、死が目前に迫っていること。

二 苦痛が誰の目にもしのびないおのであること。

三 病人の苦しみの排除が目的であること。

四 病人の意識が明白であり、本人の嘱託または承諾のなること。

五 医師の手によること。もしくは、うなずける充分な理由があること。

六 死なせる方法が倫理的に妥当であること。

ぼくが言いたかったことは、法律の届かない場所に住む人間が相手なら、すべての殺人が安楽死なのだ。戦場での殺人や、死刑執行人の処刑が罪に問われないように、箱男殺しも罪になり得ない。判例の病人という字句を箱男と置き換えて読みなおして貰いたい。

ぼく(元カメラマン)は、贋医者/Cと看護婦に会いに行く。

《書いているぼくと、書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって》(Page_092-148)

四つん這いになった裸の彼女の姿が瞼に焼きつけられ、吐き気がする異常な緊張。

三時一八分。ぼくは、湾を隔ててT港と向かい合う市営の海水浴場に辿り着く。一週間前、傷の手当を受けに病院に行く前の身支度を整えたのも、ここだった。箱男が箱から抜け出すのにおあつらえ向きの場所なのである。

体を洗い、洗髪し、髭を剃り、下着とシャツの洗濯もすませた。下着とシャツが乾くまでのあいだ、箱の中で過ごした。

贋箱男との不意の出会い。しげしげと、腰をかかげて四つん這いになっている彼女を覗き込んでいた複製。箱をこれほど醜く感じたことはなかった。箱に未練なんかなかった、うんざりだ。このノートだって、この行を最後に破り捨ててしまってもかまわない。

さてそろそろ箱ともおさらばとするか。だが、シャツも下着も乾きが悪い。

箱を片付け、中のものを整理することを考えた。箱暮らしをはじめた当初は、やみくもに物を貯め込んだ時期があるが、年月と経緯で所持品を単純化してしまった。

だが限界がある。たとえば小型ラジオを愛用していたものがあっさりガラクタ扱いできるのかどうか。ところがぼくは出来た。そのラジオの話だけは、ぜひ彼女に聞かせてやろう。

この五万円、一応、預かりはしたけれど、まだ受け取ると決めたわけじゃない。只今、考慮中、しかし箱の始末は注文どおりにつけた。どうです、箱の住み心地は?ところで、ぼくという人間を知ってもらうためにラジオの話しでも聞いてもらうとするか。

じつは以前、ひどいニュース中毒にかかっていた。世界は湧きっぱなしの薬罐やかんみたいなもので、ちょっと目を放した隙に、地球の形だって変わりかねない。漁りまわっても事実に近づいたわけじゃないのは百も承知していながら、ぼくに必要なのは、事実でも体験でもなく、きまり文句に要約されたニュースという形式だった。

「その五万円は、君が箱男と親しくしているとの触れ込みを信じて買い取ってもらうために預けた金だ」と贋箱男が言った。そして「たしかに、箱ってやつは見るとかぶるとでは、大違いだね」「これじゃ箱男になりたがるのも無理はない」と贋箱男は穏やかな調子で噛みしめるように繰り返した。

窓のビニール幕が割れて、眼がのぞいた。見られているのもぼくだが、見ているのも同じぼくなのだ。

贋箱男は「君はこの家の中で自由にふるまってもらい、彼女とどんな関係になろうと、一切干渉しない。邪魔したり、口出ししたり目障りになるようなことは一切しない。ただ一つだけ、覗く自由を与えてほしい」と言った。無論、箱はかぶったままだ。

悪くないかもしれない。箱男が無害な存在であることは、誰よりもこのぼく自身がよく知っていることだ。

「覗き」という行為が、あなどりの眼をもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないから、やむを得ず覗かせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識である。

ぼくが、すすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りし、そして箱男になったのも自然なことだった。

贋箱男は「君も煮え切らない男だな」と口早に言った。ぼくは「あんたが目障りだからさ、世間が箱男を黙殺するのは中身が誰だか分からないからさ。でもあんたの正体は、はっきりしている。ぼくは嫌だな。じろじろ見詰められるのは嫌いなんだ。」と返す。

贋箱男が「だから五万円も払ったんじゃないか」と言うので、ぼくは「覗くことには馴れっこだけど、覗かれることには、まだ馴れていないんだ…」と言った。

「君、裸になって見せてあげたら?」贋箱男が彼女に言った。彼女は、白衣のボタンを外しはじめた。箱男が<専門の覗き屋>なら、彼女は<天性の覗かれ屋>なのである。

贋箱男と彼女は、彼女が一年前に子供をおろしに病院に来たのが、そもそもの馴れ染めで、金がないので働いて返させてくれと言われた。そして関係を持ち、それまでの看護婦はさっさとやめて行った。それまでの看護婦は贋箱男の妻だった。

ぼくは、下着が乾きしだい出発するつもりでいる。箱から出るために必要なのはズボン。それと商売道具のカメラ一式を除けば、箱の中の必要かつ十分なすべての生活セットを餞別として譲ってもいい。最初のうちは小型ラジオは持っていた方がいいかもしれない。ニュース毒に完全に免疫になるまでは、孤独感に襲われてしまうから…

ぼくは、贋箱男に物的証拠があることを話す。「せっかくだが、何をほのめかされているのやら、見当もつかないな。」と贋箱男が言い、「それじゃ、言わせてもらうよ。ぼくを空気銃で狙ったのは、誰だったっけ」とぼくは返す。

あいにく、動かしがたい証拠があってね。撃たれた瞬間、そこは商売柄、すかさずシャッターを切ったのさ。現像もその日のうちにしてみた。空気銃を脇の下に隠しながら、坂道を逃げ上っていく後姿。髪の刈り方、猫背に合わせて仕立てた服、目立つズボンの皺、スリッパ式の短靴…。

すると贋箱男の覗き窓のビニール幕が割れて、中から空気銃が突き出た。

「身体検査しなさい」と贋箱男が彼女に言った。白衣を脱いだ裸の彼女がぼくに近づく。

ぼくは、脱衣籠に引き返し、ずた袋からわにの縫いぐるみを引きずり出す。中には海岸の砂が詰めてある。もろに殴れば頭蓋骨だってへこむだろう。筒先めがけて叩きつけてやった。すごい破壊力で覗き窓の上縁に食い込み、箱が跳ね上がった。

不意をつかれた医者のいまいましげなうめき声。弾は天井に向けて飛んだ。医者も負けずに、覗き窓から腕を突き出してきた。わにの砂袋を向うすねに叩きつけてやった。

彼女とぼくを残して、贋医者/Cの箱男は出て行った。

挿話-《Dの場合》(Page:193-208)

【解釈】少年Dが女教師のトイレを覗こうとして見つかり、逆に覗かれる話。

少年Dは強さに憧れていた。かねがね、もっと強くなりたいと願っていた。そして手製のアングルスコープを作って、体操の女教師がピアノの練習が終わり規則通りにいくトイレを覗き見ようとする。しかし現場の女教師に見つかり、ピアノ室でショパンを聴かされた後に、鍵穴から覗く女教師に、罰として服を脱ぐことを命じられ射精してしまうところを覗かれてしまう。

《…‥・・・・・・・・・・・》(Page:209-221) 

やっと辿り着いた病院のドアには錠が下がり、本日休診の札がかかっている。

ぼくはベルを押す。贋箱男と思い、間違えて彼女がせかして迎い入れる。

箱を脱いでという彼女に、いま裸であることの事情を説明する。洗濯した下着が乾くのを待っていたら、眠り込んでしまって、眼が覚めたら下着もズボンもどこかに消えてしまっていた。なんとかズボンだけは手に入れなきゃどうしようもない。

街の方にむかっていたら、ぼくとそっくりな箱男(贋医者/C)が歩いるのを見た。

「裸だっていいわよ、(箱男をやめる)約束は約束でしょう?」「それじゃ、私も裸になってあげる。どうせ、私の写真を撮るつもりなんでしょう。二人で裸だったら気兼ねもないんじゃない」

「白状するよ、ぼくは贋物だったんだ。」「でも、このノートは本物なんだよ。本物の箱男からあずかった遺書なのさ。」

《開幕五分前》(Page:222-225)

君との間に、熱風が吹いている。官能的で、妬けつくような、熱風が吹きまくっている。この熱風自体の中に終末の予感がひそんでいる。これは恋愛だけれど、まず、失恋の自覚から始まった恋愛、終わりから始まる逆説的な恋愛なんだ。ある詩人が言った。愛することは美しいが、愛されることはみにくい。

《そして開幕のベルも聞かずに劇は終わった》(Page:226-233)

玄関のドアが閉まる音。彼女が行ってしまった。ドアが閉まる音には、深い憐れみや思いやりがこめられていた。十分だけ待って、ドアを釘付けにしてやろう。玄関を終えたら、あとは二階の非常階段のドアのかんぬきだ。建物全体が完全に外界から遮断されて出口も入口もなくなるのだ。

そうした上で、ぼくは出発する。箱男にしかできない脱出だ。

ぼくが外から戻ってから、彼女が立ち去るまでの間、けっきょく一言も言葉を交わさなかった。心残りがなくはないが、言葉が役立つ段階はすでに過ぎた。もう二か月近く、彼女は裸で暮らしたのである。ぼくも箱の下は素っ裸だった。家では二人とも裸だったのだ。

一日に一度、ぼくが箱をかぶって街に出た。透明人間のように街をうろつき、食料品を中心にした日用雑貨を調達してまわった。二階の廊下で箱と長靴を脱ぐと、待ち受けていた彼女が、下から裸で駆けあがってくる。一日のうちでこの瞬間が、いちばん刺戟的だった。

だから今日、裸の彼女が駆けあがってくるかわりに、服をつけた彼女が黙ってぼくを見上げているのに気づいたとき振り出しに戻った落胆をおぼえただけですませられた。

ぼくからやりなおしを申し出るのを待ってくれているのだろうか。しかし、何度やりなおしてみたところで、いずれまたこの同じ場所、同じ時間が繰り返されるだけのことだろう。

挿話-《夢のなかでは箱男も箱を脱いでしまっている。箱暮らしを始める前の夢をみて いるのだろうか、それとも、箱を出た後の生活を夢みているのだろうか・・・・・》(Page:214-221) 

【解釈】ぼくは夢の中で町を出ていく決心をする。

目指す家は、坂の上にあって、町の出口にあたっていた。町の慣習では、結婚式には馬車で花嫁を迎えねばならない。馬車とは名ばかりで、車を引いていたのは馬ではなく箱をかぶったぼくの父親だった。父はすでに六〇歳を越えていた。

しかし本物の馬の十分の一もはかどらない。容赦ない震動でぼくの生理的欲求が限界に達しズボンの前を開いて深い解放感にひたる。しかし道端にいた花嫁は、灌木に身をひそめており視線が合った。彼女がぼくのペニスを眼にしたことは確実だ。

「なぁ、ショパン、あきらめが肝心だよ」露出狂の男が結婚に不向きなくらい、いまの若い娘には常識だからな。

露出狂に対する偏見と、公衆便所の建設を怠った町の行政の責任さ。さぁ行こう、こんな町にもう未練なんかないだろう。都会に着いたぼくらは、とりあえずピアノつきの屋根裏部屋を借りた。そして傷心をまぎらわせるために画用紙にペンで彼女を描き続けた。

やがて紙を節約して小さく切り刻み肉眼で見分けがつかないほどの細やかな線を刻み込み作業に熱中していった。いつかぼくの画は世間に認められ行列を為しながら売れて行った。父の箱もダンボールから赤い本皮製になっていた。父は本物の馬を買った。

そんなわけで、いまではもうぼくの名前を知らない者はいない。世界の最初の切手の発明者、製作者としてショパンの名前がない百科事典はない。だが郵便事業が発達し、国営化されるにつれ、ぼくの名前は切手の贋造者として知られ、どこの郵便局にもぼくの肖像画が飾られていない。ただ父親が愛用していた赤い箱の色は、一部、郵便ポストの色として受け継がれている。

《…‥・・・・・・・・・・・》(Page:234-238)

今こそ最後の打ち明け話。彼女はいまも建物の中に閉じ込められっぱなしのままでいるはずだ。箱から出るかわりに、世界を箱の中に閉じ込めてやる。彼女の部屋を訪ねてみた。むろん箱を脱いで、裸のままだ。

闇の奥のへ小さな気配を想像していたぼくは、思いがけない部屋の変化にうろたえた。

部屋だったはずの空間が、どこかの駅に隣り合った路地に変わっていた。彼女はどこに消えたのだろう。

そうだ、忘れないうちに、大事な補足をもう一つだけ。箱を加工するうえで、いちばん重要なことは、落書きのための余白をじゅうぶんに確保しておくこと。じっさい箱というやつは、見かけは単純な直方体にすぎないが、内側から眺めると百の知恵の輪をつなぎ合わせた迷路のようなものなのだ。もがけばもがくほど、迷路に新しい節をつくってますます仕組みをもつれさせる。

現に姿を消した彼女だって、この迷路の何処かにひそんでいることだけは確かである。手掛かりが多ければ、真相もその手掛かりの数だけ存在していいわけだ。

救急車のサイレンが聞こえてきた。

解説(ここを読み解く!)

●小説「箱男」に、巧みに仕掛けられたトリックへの誘い。

安部公房は、小説「箱男」は、これまでの小説の作法がもつ主題や物語が先にありきではない書き方をしたとしており、作品は、それぞれが「ひとつの章」になっていて、読者が「再構成」することで参加できる形式を試みたという。

箱男/贋箱男と<ぼく>という一人称の入れ替わり、時空の不一致やヒントとなる新聞記事、挿話、写真などミステリーであると同時に実験的である。さらに箱男の視姦が、「見る」は一人称だが、「のぞく」は疑似三人称となり、読者も箱男と同じ体験をする。犯人捜しの探偵小説を越えて、安倍公房のいう「メビウスの輪」のような終わりのないシュールな世界に迷い込んだ感じにしてくれる。

また文中では、浮浪者(乞食)と箱男を明確に区別しており箱男は自ら進んで社会と分離し自由を選んだ人々で、市民社会からだけでなく浮浪者からも迫害を受ける。箱男とは、何者なのか。という問いは、全員が登録化されていく民主主義を生きる現代人への問いかけにもなっている。

●民主主義をつきつめると、全員が箱男になるというメッセージ。

民主主義は市民の匿名性で成り立っている。身分や財産などで区分されない平等な個人が、投票(参政権)のもとに政治に参加する。そこには個人の匿名性(身元属性を明かさない)が保証される。一人一人が、完全に匿名の行為を行えば、全員が箱男になってしまう。

現代にあって、より良いものは民主主義であるが、果たして真の民主主義が、良き個人によって営なまれているかは疑問である。為政者の偽善やフェイク、強欲資本主義やニュース中毒のなかで、卑しい覗き見だけの社会に陥っていないか。そこから逃れ、義務/権利を放棄してしまう「箱男」が増えていくのだろうか、「箱男」になることは、フィクションでは可能でも現実ではなかなか難しいだろう。

最終の帰属である国家は果たして健全に成立するのか。50%を切る投票率に、真の民主主義は反映されているのか。やや飛躍的に解釈すれば、参加する民主主義のあり方が問われている。安部公房の箱男の寓意は、民主主義の正しい運営のための問題提起としての意味も持っている。

●箱男のテーマは、デジタル社会でさらに加速化した病巣になる。

デジタル技術を駆使する現代の情報化社会では、「匿名性/実在」と「贋物/本物」の境界は、判別しにくい。「箱男」の話は荒唐無稽すぎてビッグデータやAIの時代には、陳腐なテーマように見えるが、実はデータの取扱われ次第では神経症をはらみ、病巣はさらに深刻になる。

現代人はデジタルデバイスのアクセスで圧倒的なデータの保有者であると同時に提供者である。シングルID(認識番号)が採番され管理される。総ては登録され分析される。人々はブロックチェーンなどの進化で、さらに詳細に覗かれていく。「箱男」は、自発的に社会から離脱することで誕生し「見る/見られる」「覗き/覗かれる」関係となるが、現代の人々は暗号化のもとで圧倒的な蓄積データで可視化されている。

匿名だが暗号化され個人属性が蓄積され「見る/見られる」「覗き/覗かれる」ことの利活用は高度化する。現代の意思疎通の回路は、快/不快や健全/不健全が入れ子の状態になってくる。SNSは繋がる便利な側面と誹謗中傷を煽る側面もある。回路を遮断するには、「別の世界への出口」が必要になってくる。

精神が不安や恐怖にまでエスカレートしていく高度情報化社会のなかで、自身の属性を消し解放される透明な「箱男」の存在への欲求は、潜在的には高まるのかもしれない。

作品の背景

「箱男」は、ダンボール箱を頭から腰までかぶり、覗き窓をつくりそこから外の世界を彷徨する人物の記録の物語。一人称の語りに加えて、新聞記事や詩、冒頭のネガフィルムや8枚の写真や供述書などが集まりさらに、ひとつひとつのエピソード(章)が、不規則に続くというさまざまな実験が行われた小説である。発想のきっかけは、浮浪者の取り締まり現場に立ち会った際に、上半身にダンボール箱をかぶった浮浪者と遭遇してイマジネーションが膨らんだと安倍公房は語っている。また「贋医者」については戦争中の経験を積んだ衛生兵が、自分(安部公房は東大医学部卒業)よりも技術が上で、国家登録が否かで本物か贋物か判断するが、実際は免状を持つ医師が危険な場合も多い現状なども問題として提起し「乞食」である「箱男」と「贋物の<箱男>」の関係について、登録されたものが贋物(疑い)である可能性を問題とする。都市における登録と匿名性、見る/見られる、覗く/覗かれるという関係や人間の帰属の本質的な意味について問う前衛的な作品である。

発表時期

1973年(昭和48年)、3月30日に『新潮社』より刊行。安部公房は当時、49歳。「箱男」は書き下ろし形式ではあるが、いくつかの予告編や短編が、雑誌『波』の「周辺紀行」に掲載される。「燃えつきた地図」の次の長編で、約6年の歳月をかけ、書きつぶした量は3千枚を越え、原稿用紙500枚を300枚にした。また作品の実験的な試みは、演劇集団「安部公房スタジオ」での演劇活動など幅広い表現手法と相まっている。小説家であり劇作家であり演出家でもある安部公房の前衛的でシュールな世界である。