安部公房『箱男』あらすじ|匿名と贋者が、交錯する社会。

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箱男とは、何者なのか?なぜ、箱男になっていくのか?社会の登録を逃れ都市を彷徨う箱男たち。帰属を捨て存在を放棄し、見て/見られ、覗いて/覗かれることを求めて、社会に箱男があふれる。あなたを箱男の不思議に誘惑するシュールで迷路な物語。

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登場人物

ぼく(箱男)
元はカメラマン。T市での路上生活を記録し、空気銃で肩を撃たれ犯人を探し始める。

医者(贋医者) / 供述書ではC
贋の箱男。元は軍の衛生兵で、軍医殿の戸籍を借り贋医者としてT市に診療所を開業。

彼女(看護婦) / 供述書では戸山葉子
中絶で病院を訪れた後、看護婦見習に。元は画学生で裸のモデルで生計を立てていた。

軍医殿
麻薬中毒の医者。名義をCに貸し診療所を開設させ、自分の妻をCの内縁の妻にする。

奈奈
軍医殿の正妻で看護婦。軍医殿の同意でCの内縁の妻になるが、戸山葉子が来て別居。

A
アパートの窓の下に住みつく箱男を空気銃で撃つが、後に自分も箱男となり家を出る。

B
Bもまた箱男だが、抜け殻のダンボール箱は公衆便所と板塀の隙間で朽ちていた。

C
贋医者で「供述書」の名前はC、職業は医師見習い。贋の箱男で軍医殿の殺害を計画。

D
中学生。アングルスコープを作り、女教師宅のトイレ姿を覗こうとして見つかる。

ショパン
父親の引く箱の馬車に乗り、花嫁の家の近くで立ち小便をして見られて町を出て行く。

ショパンの父
60歳。息子ショパンの結婚式に箱をかぶり、箱男の馬車になり息子を引いていく。

あらすじ

軍医殿の殺害を巡って箱男(元カメラマン)、看護婦、にせ箱男(贋医者/C)の四人の登場人物を中心に、箱男の匿名性と社会との関係を問題提起します。安倍公房の『箱男』は、それぞれの章が前後し、実験的に新聞記事や詩、ネガフィルムや写真などの挿入もあり、流れを構成し直しながらまとめてみました。

※《章》_(新潮文庫ページ)を表記すると同時に【補足】の説明も加えます。

箱男とは如何なる存在で、どのようにして生まれるのか。

挿入-《上野の浮浪者一掃 けさ取り締まり 百八十人逮捕》(6P)

【補足】新聞の記事が紹介されます。それは二十三日未明の上野周辺の模様を記載。

「東京上野署は冬の季節に向けて周辺の浮浪者の一斉検挙を実施し、合計百八十人を、軽犯罪法(浮浪の罪、立ち入り禁止違反)、道交法(路上禁止違反)違反現行犯で逮捕、連行し、指紋や顔写真を取り「二度と浮浪しない」との誓約書を取り釈放。しかし一時間後には、もとの場所にまいもどった。」と紹介。

【補足】浮浪者は、「もとの場所」に戻ったとしています。この物語では、<浮浪者>と<箱男>は区別されています。<浮浪者>は、社会集団として一定の場所に帰属していますが、 <浮浪者>ではない<箱男>は、帰属場所のない個の人々を指しています。

《ぼくの場合》(7P)

これは箱男についての記録である。ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺りまで届くダンボールの箱の中だ。つまり、今のところ、箱男はこのぼく自身だということである。箱男が、箱の中で、箱男の記録をつけているというわけだ。

引用:安倍公房 箱男

【補足】上記の個所は、後の《Cの場合》(154P)にも、全く同じ書き出しで始まります。つまり、箱男である<元カメラマン>とにせ箱男である<贋医者/C>は、記録ノートの書き出し部分が同じです。つまり引用文中の「今のところ、箱男はこのぼく自身」の部分の<ぼく>は、物語の中で<元カメラマン>と<贋医者/C>の二人が存在します。(*「ぼく」という呼称の人間は複数登場しますので注意。)

《箱の製法》(8P-13P)

次に、箱のつくり方が詳細に記されます。

材料としてダンボール空箱、ビニール生地、ガムテープ、針金、切りだし小刀を用意。

ダンボール空箱は縦横一メートルで、高さが一メートル三十前後。そして覗き窓を縦二十八センチ、横四十二センチ開けて、そこに艶消しビニール幕を縦に一本切れ目を入れて取り付ける。さらに箱の左右に、径十五センチくらいの範囲に小さな穴をあける(音が聞き分けられたり、補助の覗き穴にもなる)。

その他に針金を壁に吊るすかぎにしておき、身の回りの物の整理に使用する。そして長靴を用意し、ドンゴロス(麻袋)を腰に巻き付ける。

【補足】特に、ビニール幕に切れ目を入れた覗き窓と、箱の内側の余白部分の記録をする個所は後の展開の大きなポイントとなっています。

挿話-《たとえばAの場合》(14P-23P)

補足】挿話が入ります。《Aがどのように心理変容して箱男になったか》という話。アパートに住むAが、箱男を目撃し嫌悪し撃退しますが、その後、次第に自らも説明のつかない魅力に惹きこまれていき、ある日、箱をかぶって部屋を出ていってしまう話が紹介されます。

ある日、Aのアパートの窓の下に一人の箱男が住みついた。Aは不法に領分を犯されたような苛立ちと困惑、異物に対する嫌悪と腹立ちを感じる。警察に相談したが迷惑顔で被害届を書くように言われ、自分で解決するしかないと考えた。そして友人から空気銃を借りる。

ある日、窓から見るAと箱男の視線が合う。覗き穴のビニールが割れ、白っぽく濁った片目がこちらをうかがっており、Aは逆上し空気銃で撃った。すると箱男は姿を消した。

半月経ち、Aは箱男のことを忘れていたある時、冷蔵庫の買い替えをした。梱包のダンボールを見た途端に箱男の記憶が蘇る。Aは手を洗い、鼻をかみ、うがいをして窓のカーテンを閉め箱の中に這い込んでみた。懐かしい場所のような気がした、辿り着けそうで手の届かない記憶。

翌日、ナイフで箱に覗き窓をつけ、頭からかぶってみた。胸の動悸が危険を告げて、思いっきり乱暴に(ただし壊れないように)箱を蹴飛ばした。

三日目。すべての光景からとげが抜け落ち、すべすべ丸っこく感じる。壁のシミ、積み上る古雑誌、タバコの吸い殻が溢れるコンビーフの空缶。そんなすべてが棘だらけで、無意識に自分に緊張を強いていることを気づかせた。

翌日、Aは箱をかぶったままテレビを見た。

五日目からは食事と、大小便と、睡眠以外は箱のままで過ごすようになる。ずっと自然で、気も楽だ。

六日目。最初の日曜日。街に出て必要なもの一式をかかえて箱に籠城する。Aは箱の内壁に手鏡を吊るし、ポスターカラーで唇を緑に塗り、眼のまわりを虹の七色で輪を描く。そしてはじめて、箱の中で軽く手淫し、箱をかぶったまま寝た。

そして翌朝(ちょうど1週間目)Aは箱をかぶったまま通りにしのび出て、戻ってこなかった。

匿名の市民だけの匿名の都市、そんな街のことを思い描き、夢を見た事のある者はAと同じ危険に晒されている。めったに箱男に銃を向けたりしてはいけない。

【補足】以上のAの挿話は、後の本題である贋医者が、箱男(元カメラマン)を空気銃で撃ち、その後、箱をかぶって贋箱男となって病院を出て行く心理変容の共通原理となっています。Aの場合の心理変容は、不審→嫌悪→排除→無意識→試行→抵抗→従順→安心の流れで、潜在意識下の箱男への願望があります。

箱男のぼく(元カメラマン)が空気銃で撃たれた理由は・・・

《表紙裏に貼付した証拠写真についての二.三の補足》(40P-49P)

【補足】巻頭にネガフィルムが挿入されています(巻頭0P)それは空気銃を小脇に、銃口を下に向け体のかげに隠し、小走りに逃げて行く中年男の後姿。正体は、贋医者/Cです。

撮影日時・・・約一週間ないし十日前のある夕刻

撮影場所・・・醤油工場の長い黒塀の山よりの端

箱男のぼく(元カメラマン)は立小便の最中に、空気銃を持った男に撃たれた。

狙撃者の正体についての最初の推測は《Aの場合》を考えた。自分も箱男になろうとする場合は、空気銃で狙撃することが一般的な傾向のようだ。東京の盛り場ならいざ知らず、このT市の繁華街では、二人の箱男を受け入れる余地はない。どうしても縄張り争いになる。

だが推測は一転した。自転車に乗りやって来て「坂の上に病院があるわ」と言って、白い指先から千円札が三枚投げ込まれた。それは若い娘で自転車をこぐ脚の運動が、強くぼくをとらえた。

坂の上の病院を訪れると、空気銃男はその病院の医者で、自転車の娘が看護婦であった。夜明けに化膿した肩のうずきが、ぼくをしめあげ病院に行き、注射器を持った自転車娘とメスをつかんだ空気銃男が、ぼくを待ち受けていた。

ぼくは<箱男>の知り合いのふりをして、<箱男>なら面識があるので、代わりに五万円で箱を買い受けてやろうと約束をした。今になって思うと、箱で何をたくらんでいるのか、その場で聞きただすべきだったと思う。

【補足】この物語の箱男の謎を解く鍵として、「二人の箱男を受け入れる余地はない」。つまりひとつの街にふたりの箱男が存在しないことが前提となっています。

《安全装置を とりあえず》(24P-39P)

【補足】危険を予期する箱男(元カメラマン)のぼくは、ノートを証拠物件(安全装置)として残しておくつもりです。

いま、運河をまたぐ県道三号線の橋の下で雨宿りをしながらこのノートを書きすすめている。

ぼくは漁業組合の倉庫と、材木置場という箱男の雨宿りとしてふさわしくない場所で二時間以上待っている。その理由は、ぼくの箱が五万円で買い手がつきその取引のために買い手を待っている。

もっとも今は後悔気味だ。いずれ手痛く後悔させられそうな予感。気が滅入り惨めな気分、箱男の特権を自分からあっさり放棄してしまった。覗き見た彼女の脚にすっかり武装解除されてしまった。ぼくの箱に何か変化が起き始めているのだろうか、この町はぼくに悪意をもっている。

そこで安全装置として、このノートを証拠物件として残しておくつもりである。

どんな死に方をしても、ぼくには自殺の意志が少しもなかったということを。「箱男と浮浪者は違う」。とくに「ワッペン乞食」には、露骨な敵意と蔑みを突き付けられる。

あんがい浮浪者(乞食)までは、まだ市民に属する周辺の一部分で、箱男は浮浪者(乞食)以下かもしれない。

心の方向感覚の麻痺は箱男の持病である。ただ落伍者意識はなく別世界への出口のような気さえする。

彼女の代理人がやって来て、この橋の下を処刑場にするつもりなのだろう。こちらが天性の「殺され屋」である以上、存在しないも同然の箱男なのだから、殺しても殺したことにはならないのだ。

このノートもビニール袋に入れて、赤いビニールテープで目立つようにして拳大こぶしだいの石を結びつけておく。そして相手が変な素振りを見せたら、袋を流れにほうり込んでやろう。表紙裏の右上の隅、セロテープで貼りつけた白黒のネガフィルムも証拠になってくれるだろう。

【補足】「覗き見た彼女の脚に、すっかり武装解除されてしまった」とある。つまり、箱男は医者から空気銃で撃たれ、そして若い女(看護婦)が交渉に訪れ、箱男を辞めようとする。もしもの時のために、自殺ではなく他殺であることの記録をノートに残しはじめる。

挿入-《それから何度かぼくは居眠りをした》(Page_052-057)

【補足】貝殻草の匂いを嗅ぐと、魚になった夢を見るという挿入話を書いている。

貝殻草は塩分を含んだ湿地を好むので海辺に育ちやすく、一説によると花粉に含まれるアルカロイドが眩暈めまいに似た浮遊感をひきおこし、呼吸器膜を刺激し水に溺れたような錯覚におちいるらしい。

夢の中の魚が経験する時間は、覚めている時間とは違う流れで速度が遅くなり、地上の数秒が数日間にも数週間にも引き延ばされて感じるらしい。

そして夢の中の贋魚は嵐がやって来て死んでしまうのだが、夢から覚める前に死んでしまっているので、もうそれ以上、覚める訳にはいかなかった。死んだ後でも夢を見続けなければならなかった。

にせ魚も箱男も同じだと思われる。箱をかぶって、ぼく自身でさえなくなった、贋のぼく。箱男とは夢から覚めても、けっきょく箱男のままでいるしかないのだ。

《約束は履行され、箱の代金五万円といっしょに、一通の手紙が橋の上から投げ落とされた。つい五分ほど前のことである。その手紙をここに貼付しておく》(58P)

手紙には以下の通り書いてある。

あなたを信頼します。領収証はいりません。箱の始末も一任します。潮が引き切る前に箱を引き裂いて、海に流してしまってください。

《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》(59P-64P)

来るのは医者と思ったが、彼女は自分でやって来た。この五万円を受け取ってしまった以上、ノートを始末したくらいでは間に合わない。彼女が要求しているは「箱」の始末なのである。

《鏡の中から》(Page_065-082)

もう何度も通った道だが、箱をかぶっての坂の上の病院の赤い門燈は、ひどく遠く感じられた。医者とは顔を合わせたくないので生垣をまたいで庭に入り込む。彼女の部屋は建物の裏にまわって、左から二つめの窓である。あれから一時間足らずだし五万円を返して約束を取り消してもらい、よく話し合ってみたい。

捨てずに持っていた車のバックミラーで何とか工夫して覗くと、部屋には二人の人物がいた。一人は彼女だった。素っ裸のまま、部屋の中央付近で誰かに話しかけている。話しかけられているのは箱男だった。ぼくとそっくりな箱をかぶってベッドの端にかけていた。ぼくのと寸部違わないダンボールの箱なのだ。計画的に真似た、ぼくの贋物に違いない。なかみは・・・むろん医者だろう。

肩の手当の後で聞かされた身の上話は次のようなものであった。彼女は見習い看護婦として今の職につくまでは、貧しい画学生でモデルで生計を立てていた。二年前に、この病院で妊娠中絶の手術を受けた。三か月、無料で入院させてもらっているうちに看護婦がやめ、代わりに居ついてしまった。

彼女は肩の傷口から出た空気銃の弾や、髪の形などから、ぼくが変装を脱いだ箱男であることを見抜いていたはずである。ぼくは裸の彼女を覗いていたが、すでに他人(それもぼくの贋物)に覗かれてしまっている裸を覗いていた。よけいに嫉妬心を掻き立てられる。

もし二人がぐるだとしたら、ぼくはさぞかしいい笑いものになったことだろう。しかし裸の彼女から意地の悪さや企みは感じられない。屈辱感はあっても憎しみの感情は湧いてこない。想像していたよりもはるかに魅力的な裸。当然のことだ、現実の裸に想像が追いついたり出来るわけがない。

裸は肉体とは違う。裸は肉体を材料に、眼という指でこね上げられた作品なのだ。

そして裸の女と贋箱男はさまざまに語らっていた。五万円を受け取ったあの瞬間から、本物の権利は向こうに移り、ぼくの方が贋物になったと考えるべきかもしれない。

挿入-《行き倒れ 十万人の黙殺》(50P-51P)

【補足】新聞の記事が紹介されます。それは二十三日、午後七時ごろの新宿西口地下通路での出来事。

四十歳くらいの浮浪者が柱に寄りかかって死んでいるのをパトロール中の新宿署員が発見。同署の調べでは身長一メートル六三、中肉。花模様の長袖シャツに作業用長ぐつをはき、髪はボサボサの浮浪者風。現場は一日の乗降客数十万人にも及ぶが誰一人気にも止めず。警察官が見つけるまで六.七時間、何の通報もなかった。

贋医者/Cが軍医殿の殺害を計画後に、想定した供述書の内容。

【補足】最初、にせ医者/Cは軍医殿を殺して箱男に偽装し海に葬るため、ぼく(元カメラマン)と箱男を入替(ぼくの箱を捨てる)のために襲撃し、五万円で買い取り(箱の処分)の取引をしたようだ。しかし、以下に続く《供述書》《Cの場合》《続・供述書》の内容から、贋医者/Cが、新たな<贋箱男>になっていく様子がノートに描かれている。

《供述書》(149P-151P)

T海岸公園に打ち上げられた変死体についての供述書。

姓名 C 

本籍 (略)

職業 医者見習(看護夫)

生年月日 昭和元年三月七日

私はCが本名であり、使用していた名前は軍医殿の名前である。戦時中私が衛生兵として従軍した際に、上官である軍医殿の名を本人の了解のもとに借用したものである。家族については、内縁の妻<奈奈>と同居し、<奈奈>は看護婦として家業を手伝う。<奈奈>はもとは軍医殿の正妻だが、私との同居は軍医殿の同意と了解のもとなされた。また昨年、あらたな看護婦見習として<戸山葉子>を雇い入れた際に、不満として別居を申し出、私もこれに同意して現在にいたる。

《Cの場合》(152P-159P)  

書きかけの供述書をわきに押しやって、一冊のノートをひろげる。四六判、橙色の縦罫…君がぼくのノートとそっくりのを用意したとは知らなかった。

表紙をめくる。第一ページ目は、次のような文句で始まっている。

「これは箱男についての記録である。ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺まで届くダンボールの箱の中だ。つまり、今のところ、箱男はこの僕だということでもある。」

引用:安倍公房 箱男

場所はT市、九月最後の月曜日…

どうやら君は未だ何ひとつ始まっていない明後日のことを、既に起こった出来事として記録し始めているらしい。

【補足】つまり、この供述書は贋医者/Cが未来の想定で書いたもので、現実に起こった事実ではない。以下がその想定である。

「…人影もまばらな海岸公園の外れに身元不明の変死体が打ち上げられた。頭から包装用の段ボール箱をかぶり、腰ひもで体に固定していた。市中を浮浪していた箱男が誤って運河に墜落し、潮に流され辿り着いたのだろう。検視の結果、死亡時はおよそ30時間前と推定された。」

【補足】箱男は、元カメラマンからにせ医者/Cに変わっているが、以下の供述書は<軍医殿が箱男になっている想定>贋医者/Cがノートに記述している。  

《続・供述書》(Page_160-168)

お尋ねの変死体は、私が医療行為のため姓名を借用していた軍医殿に間違いがないこと。軍医殿には、かねてから自殺の危険があったこと。

私は終戦の前年、某地の野戦病院で軍医殿の従卒に配属される。当時、軍医殿は材木から糖分をつくろうと酵素の分離抽出に没頭されていた。ある時、軍医殿は奇病にかかり、やがて麻薬を常用。終戦時には軍医殿は中毒症状になり、私が代診として診療所を開設し経営ならびに診療にあたった。

不当医療行為を行った理由は、

第一には、軍医殿のために麻薬の補給を続ける必要があったこと、これが時間をかけた安楽死であることを承知しながら見捨てることができなかったこと。

第二には、軍医殿の資格を看板にすることで生計が確保されたこと。また経理は一切、軍医殿の妻である<奈奈>の手中にあったが、後に内縁の関係になったのも軍医殿が私に見捨てられることを恐れ引き留め工作として、私と関係を結ぶように<奈奈>にせまったため、やむなく取った手段であること。

第三には、評判が良かったこと。ただ法をおかして良いというようなことはありえず、贋医者としての罪が許されるとは思っていない。

そして八年目に、異常な言動や麻薬の使用量から監査を受けることとなり、軍医殿と相談の結果、診療所を閉鎖しT市に移転してきたというのが現在に至る経緯。

死体はダンボール箱を被っていたということですが、心当たりはまったくありません。

ただ軍医殿は、姓名、戸籍、資格などと共に人格まで私に譲渡してしまい自分が何者でもなくなったと信じているようでした。

麻薬中毒患者が薬を手に入れるためにいかに狡猾、無鉄砲になるかは世間周知の事実でありましょう。死亡診断書を作成しようにも、私と同姓同名であり、私は軍医殿に自殺だけは見合わせるよう懇願しました。

すると図に乗った軍医殿は、そのかわりに麻薬の量を増やしてほしい、新しく来た看護婦見習<戸山葉子>の裸体を鑑賞させよ、裸体のままの<戸山葉子>に浣腸かんちょうしてもらいたいと私を困らせました。

私は贋医者であることが罪であると思い心から反省しているのです。これを機会に一切を正直に申し述べ、長年の心の重荷を清算したいと考えます。

【補足】この記述は、検死の時刻を月曜の早朝とし三十時間前のものであり、この時点で、三十時間後の未来を記録していることになる。あくまで想定である。

挿入-《別紙による三ページ半の挿入文》(83P-91P)

真っ暗な中で、服を脱ぎ、明かりをつけた。裸になった私(看護婦)は男の目脂めやにを拭き、男はいろんな姿勢を要求した。でもすぐに注射が効きはじめて目つきも怪しくなり、でも最後はけっきょく浣腸かんちょうをさせられてしまった。

【補足】贋医者が看護婦に、看護婦と軍医殿(虚勢豚)とのやりとりを根掘り葉掘り聞く会話文で綴る。看護婦の記録ということになる。