安部公房『箱男』あらすじ|匿名と贋者が、交錯する社会。

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解説

小説「箱男」に巧みに仕掛けられた、メビウスの輪への誘い。

安部公房は小説「箱男」はこれまでの小説のように主題や物語が先にありきではない書き方をしたとして、作品はそれぞれが「ひとつの章」になり、読者が「再構成」することで参加できる形式を試みたという。

箱男/贋箱男と<ぼく>という一人称の入れ替わり、時空の不一致やヒントとなる新聞記事、挿話、写真など実験的である。さらに箱男の視姦が、「見る」は一人称だが、「のぞく」は疑似三人称となり、読者も箱男と同じ体験をする。犯人捜しの探偵小説を越えて、安倍公房の言う「メビウスの輪」のように終わりなきシュールな世界に迷い込んだ感じにしてくれる。

また文中では浮浪者(乞食)と箱男を明確に区別しており、箱男は自ら進んで社会と分離し自由を選んだ人々で、市民社会からだけでなく浮浪者からも迫害を受ける。<箱男とは何者なのか?>という問いは、戸籍や住所という形で登録されている現代の社会を生きる人へのアンチテーゼになっている。

現在より良いものは民主主義しかないが、果たして真の民主主義が良き人々によって営なまれているかは疑問である。為政者の偽善やフェイク、強欲資本主義や無責任なニュースに扇動される社会、そこから逃れ、義務/権利を放棄する「箱男」が増えていくのだろうか。「箱男」になることはフィクションでは可能でも、現実ではなかなか難しいだろう。

デジタル社会の到来は、新たな箱男を生む可能性がある。

社会での登録が無くなれば最大の帰属(アイデンティティー)の単位である国民国家は成立しない。その意味では参加する民主主義のあり方や手続きが問われている。安部公房の箱男の寓意は、民主主義の正しい運営のための問題提起としての意味も持っている。

現代はデジタル技術により登録管理される新たな管理社会が完成されつつある。

ITの情報化社会では、「匿名性/実在」と「贋物/本物」の境界は、リアルとバーチャルにおいても、さらに判別しにくい状態となっている。「箱男」の話は荒唐無稽すぎてビッグデータやAIの時代には、陳腐なテーマように見えるが、実はデータの取扱われ次第では神経症をはらみ、病巣は深刻になる。

人々は管理社会から逃避し、自由な匿名性を求めるかもしれない。なりすましも可能だ。

現代の人々は、デジタルデバイスのアクセスで圧倒的なデータの収集者であると同時に提供者である。シングルID(認識番号)が採番され管理される。総ては登録され分析され詳細に覗かれていく。「箱男」は自発的に社会から離脱することで誕生し「見る/見られる」「覗き/覗かれる」関係となり、ID番号で識別され圧倒的な蓄積データで全てが可視化されている。

個人属性が蓄積され「見る/見られる」「覗き/覗かれる」ことの利活用は高度化する。現代の意思疎通の回路は「快/不快」や「健全/不健全」が入れ子の状態になってくる。SNSは人々がボーダレスに繋がれる側面と誹謗中傷を煽る側面もある。

ネット上の悪質な炎上は匿名性の最悪の現象である。そのバーチャルな状況がリアルな状況に変移してさらにたちが悪くなる場合もある。回路を遮断するには「別の世界への出入口」が必要になってくる。

精神が不安や恐怖にまでエスカレートしていく高度情報化社会のなかで、自身の属性を消し解放される透明な「箱男」の存在への欲求は、潜在的には高まるのかもしれない。

作品の背景

「箱男」はダンボール箱を頭から腰までかぶり、覗き窓をつくりそこから外の世界を彷徨する人間の記録の物語。一人称の語りに加えて、新聞記事や詩、冒頭の写真のネガフィルムや供述書などさまざまに挿入する。さらに、ひとつひとつの章が、不規則に続くという実験が行われた小説である。

発想のきっかけは浮浪者の取り締まり現場に立ち会った際に、上半身にダンボール箱をかぶった浮浪者と遭遇してイマジネーションが膨らんだと安倍公房は語っている。また「贋医者」については戦争中の経験を積んだ衛生兵が、自分(安部公房は東大医学部卒業)よりも技術が上で、国家登録か否かで、本物か贋物か判断するが、実際は免状を持つ医師が危険な場合も多い現状も問題として提起する。

「乞食」である「箱男」と「贋物の<箱男>」の関係について、登録されたものが贋物(疑い)である可能性を問題とする。都市における登録と匿名性、見る/見られる、覗く/覗かれるという関係や人間の帰属の本質的な意味について問う前衛的な作品である。

発表時期

1973年(昭和48年)、3月30日に『新潮社』より刊行。安部公房は当時49歳。「箱男」は書き下ろし形式だが、いくつかの予告編や短編が、雑誌『波』の「周辺紀行」に掲載される。「燃えつきた地図」の次の長編で、約6年の歳月をかけ書きつぶした量は3千枚を越え、原稿用紙500枚を300枚にした。

また作品の実験的な試みは、演劇集団「安部公房スタジオ」での演劇活動など幅広い表現手法と相まっている。小説家であり劇作家であり演出家でもある安部公房の前衛的でシュールな世界である。