都会から隔絶され、丘の上に森の見える緩やかな窪地に寄宿舎ヘールシャムはある。キャシーはここで過ごす。親友のルースとトミーそして仲間たちは、大人になって皆「提供者」となる。運命が現実になる時、奇妙で不思議だった日々の理由が解る。絵画や詩の創作が重視された授業、毎週の健康診断での管理、保護官と呼ばれる先生たちの監視とぎこちない態度、そしてマダムの展覧会・・・真実が徐々に明らかになる。クローンとして生を受けた人間たちは、もうひとつのパラレルワールドを生きた。その残酷な運命のなか、揺れ動く情動を静謐のうちに描き、「人間とは何か」を問う。
あらすじと解説
キャシー、ルース、トミー。三人の親友とヘールシャムの不思議な日々。
舞台は一九九〇年代末のイギリス。物語は、三十一歳になるキャシー・Hの回想で始まる。彼女は「介護人」をもう十一年以上やっていて、六年目あたりから「提供者」を選べるようになる。
彼女の役割は「提供者」と呼ばれる人々の世話をして、「平静」を保つことである。
キャシーはルースの介護人となり、特別な教育方針だった寄宿舎ヘールシャムでルースとトミーと三人で共に過ごした懐かしい記憶を整理しようとする。
ヘールシャムでは、十六歳くらいまでを過ごし、保護官により子供たちは守られる。
ルースは年少組からの親友でリーダー格、見栄っ張りでキャシーとは正反対の性格だが、仲が良かった。トミーは問題児で、いじめられると抑制が効かず、癇癪玉が爆発して手足を振り回し怒鳴り喚く。
いじめは良くないけれど、問題の原因はトミー自身にあり、怠け者で創造意欲がない。「春の交換会にも出品しなかった」というのがルースと仲間の一致する見解だった。
交換会は年に四回あり、生徒たちが三ヵ月で創作した物を出品し、出来栄えに応じ交換切符を貰える。そして交換会の日に、交換切符で物を買う。誰かが何かを作って、それが自分の宝物になる。そして大切に自分の宝箱にしまっておく。
交換はお互いの作品を認め合い、好意の形成や尊敬の対象になる。創作をしないトミ―は、当然、友人関係にも影響する。
トミーが創作しなくなった理由は、ある時、稚拙な象の絵をジェラルディン先生に褒められて、他の生徒たちからの反感を誘った。やがて意地悪はエスカレートする。
そして「癇癪もちのトミー」へのいじめが、年長組十二.三歳の夏にピークに達する。
ところがある時、ぴたりと止んだ。ルーシー先生から「絵を描くのが嫌だったら描かなくても良い。ちっとも悪いことじゃない」と言われ、トミーは気が楽になった。
「絵が描けても描けなくても、物が作れても作れなくても、あなたはとてもいい生徒」と、先生は何か怒りで震えながら、トミーを褒めた。トミ―も「絵が描けないのは自分が悪いんじゃない」と思えた。
ルーシー先生の怒りは、子供たちの運命を学校側が正確に教えていない上に、絵や詩など創造力の育成に熱心であることに対する批判だった。
キャシーは不思議に思えることがいくつもあった。マダムは何しに来るのか、何故、出来のいい絵だけを持っていくのか、その絵をどうするのか、展示館って何なのか、何故、私たちの絵を展示するのか。
ルーシー先生の考えは、創作を奨励するエミリ先生など他の保護官と異なり、キャシーはヘールシャムには何か秘密があると感じ、トミーと情報交換するようになる。
「私を離さないで」を歌うキャシーの姿を見て、なぜかマダムは涙した。
内部の交換会とは別に、外の物品に触れる販売会というイベントがあり、皆、わくわくしながら待っていた。ときには争奪戦になり混雑と喧騒の場となる。販売会でいざこざがあった翌日は、先生の説教を受けることになる。
そんな時、エミリ先生は「特権に値しない」とか「機会の濫用」と繰り返し、突然、「何なのですか。何故なのですか。何故、わたしたちの努力を挫こうとするのです」と困惑し、「わたしは圧力に屈しませんよ。負けるものですか。ヘールシャムも負けません」と大声を出すこともあった。
裏手の頂きに森があり、さまざまな恐怖の言い伝えがあった。例えば敷地外へ逃げた男の子が、森で発見され、両手両足が切り落とされていたとか、女の子の幽霊が森の中を彷徨っているとか。生徒たちはヘールシャムの外に出ることは許されなかった。
販売会で見つけたジュディ・ブリッジウォーターの『夜に聞く歌』のカセット版にジュディがタバコを持っている写真があった。ヘールシャムでは、喫煙に厳しい態度をとっていた。
先生たちは「あなた方は特別な生徒です。ですから体を健康に保つこと、とくに内部を健康に保つことが重要」と言った。
九歳、十歳の子供だったが、何か自分たちが保護官とも外の世界の人々とも違うこと、特定の話題に近づきそうになると、いつもは冷静沈着な保護官がそわそわし始め、奇妙で嫌だった。
販売会で買ったジュディ・ブリッジウォーターの『夜に聞く歌』のカセット版の三曲目に「私を離さないで」という曲があり、十一歳のキャシーは、なぜかこの曲に惹かれる。
「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで・・・」というリフレインの部分がお気に入りで、一人の女性を思い浮かべる。それは死ぬほど赤ちゃんが欲しく、産めないと言われていたのに、あるとき奇蹟が起きて赤ちゃんが生まれる。
赤ちゃんを胸に抱きしめ「オー、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」と歌うのでした。
その頃の不思議な出来事で、テープを聞きリフレインで赤ちゃんに見立てた枕を抱いて踊っているキャシーは偶然、マダムにその姿を見らる。
そのときマダムは、ただ泣いていたのです。気味の悪いものでも見るようないつもの眼差しで、キャシーを見てしゃくりあげていました。そして二、三ヵ月後、そのテープがなくなりました。
キャシーは思い当たる場所を探し、ルースも探してくれましたが、結局、見つかりませんでした。私たちは「ノーフォーク行きだね」と笑い合いました。
子供たちは臓器提供者であり、中年を待たず生命は終了する。
この時期までは全体として黄金期という印象ですが、ヘールシャムの十三歳から十六歳までは暗い期間となる。十五歳の時、重大事が起きる。
ルーシー先生は、「教わっているようで、教わっていない」と言い、子供たちの未来の真実を説明します。それは人生が決まっていること。
「いずれ臓器提供が始まり、あなた方はそのために作られた存在で、提供が使命である。その目的のためにこの世に生み出されて、将来が決定済みなこと。ヘールシャムを出ると、遠からず、最初の提供の準備をする日が来る」とのことでした。
「だからみっともない人生にしないために、自分が何者で、先に何が待っているかを知っておいてください」と諭されます。
だからトミ―が、絵が描けようが描けまいが構わないのです、またヘールシャムの女の子たちは、大人になっても赤ちゃんを産むことはできません。そのように措置されているのです。
ヘールシャムの生徒は皆、現実の中で普通の人達とは異なる、パラレルワールドを生きているのです。
性についても関心の深くなる年頃です。議論して飽きることはありません。エミリ先生は「肉体の欲求を尊重する」ことが重要だと言います。セックスが強迫観念になっていました。まだ経験していない人は、ぜひ、お早めに!という雰囲気でした。
ルースとトミ―のカップルはすでにセックスを経験済みでした。でも二人は破局します。そこでルースの後釜はキャシーという話になりました。するとルースはキャシーに、トミーとよりを戻すための橋渡しを頼んできました。
あるときトミーが落ち込んでいて理由を訊ねると、ルーシー先生が以前の話を撤回したと言うのです。
その内容は「絵は重要です。絵はあなた自身のために重要で、絵がうまければいいことがあるかもしれない。だからあなた自身のために腕を磨いて」ということでした。それはマダムの展覧会とも関係があるようでした。
何故、ルーシー先生の意見は変わったのか。やがてルーシー先生はヘールシャムを辞め、トミーはルースとよりを戻します。
ノーフォークで探す、キャシーの失くしたカセットテープ。
十六歳になるとヘールシャムを卒業しコテージで過ごします。
仲良しの八人が振り分けられ、廃業した農場を利用した施設でした。その他の地域にも同じような施設があります。ここでは、週に二.三回見回りにやってくるケファーズさんがいるだけでした。他の施設出身者と協力し合って過ごし、二年かけて論文を書くか、介護人になる訓練に行くこともできました。
保護官のいない集団生活で、カップルになったり、セックスをしたり、街に出かけたりと自由な環境です。カップルのいないキャシーは思春期でセックスに興味を持ち、先輩の数人と男女の関係になったこともあり、親友のルースにこっそり明かすこともありました。
コテージにはポルノ雑誌が出回っていましたが、信心深いケファーズさんは都度、処分します。ある時、キャシーは処分し忘れた雑誌をめくります。トミ―に偶然見つかりますが、その見方の不思議さを気づかれます。
キャシーは自身の思春期の性の衝動を多淫と誤解して、自分の複製元の「親」がいかがわしい職業ではないのかと雑誌の顔を確かめていたのでした。
やがて「提供者」たちの臓器提供が始まります。また希望すれば一定期間「介護人」となり、その後「提供者」となる選択もあります。
仲間内で「ポシブル」の話題になります。私たちは、普通の人間から複製された存在、外の世界のどこかに複製元の「親」がいて、それぞれの人生を生きているはず。すると理論的には偶然「親」と会う可能性があるという意味で「ポシブル」と呼んでいました。
ルースの「ポシブル」をノーフォークで見た! と他の施設出身の先輩カップルのクリシーとロドニーが話します。ルースの憧れのオープン・オフィスで働いているとのことでした。ルースは半信半疑ながら胸躍らせます。ルースとトミーとキャシーの五人で尋ねに行くことになりました。
ノーフォークは、イギリスの東端に位置し「ロストコーナー(忘れられた土地)」と呼ばれ、イギリスの「遺失物保管所」という意味でした。
ヘールシャムにもロストコーナーが存在し、落とし物や忘れ物が保管されていました。そこで私たちはノーフォークも失ったものが集まってくる場所と思い、心の拠り所にしていました。
道すがらヘールシャムの卒業生だけは特別との噂話があることが話題になります。
ある特別な条件をクリアすれは、三年から四年くらい提供の猶予期間が貰え、二人だけの時間が持てるということでした。そのためには二人が愛しあっていて、それを証明できれば、ヘールシャムを運営している人が何とかしてくれるというのです。
クリシーとロドニーの目的は、この真相を三人に確認することでした。尤もらしく肯定するルースに、トミーは否定して喧嘩になります。
ルースの「ポシブル」は人違いでした。ルースは「私たちの親は、みんな屑なのよ」と吐き捨てます。
その後、二手に分かれてキャシーとトミ―は、失くしたものが集まる “ロストコーナー” のノーフォークで、昔、失くしたジュディ・ブリッジウォーター『夜に聞く歌』を探そうということになりました。
トミ―と二人で探すひととき、キャシーは幸せに浸ります。そして中古雑貨の店で、ほんとうに見つかったのです。キャシーは「トミ―の好意で見つかったカセットテープ」に感謝します。
原盤からコピーされたカセット―テープを失くし、トミーの好意で見つけたもうひとつの複製(コピー)のカセットテープは、きっとキャシーにとってはかけがえのないオリジナルになったのでしょう。
キャシーは、今でもヘールシャムやコテージの日々が懐かしく蘇り、ひときわノーフォークの午後が鮮明に思いだされます。
愛を絵で証明できれば、提供が三年間 猶予されるヘールシャムの特権。
トミ―は、クリシーとロドニーの話で「ヘールシャムでのいろいろな謎の説明がつく」と言いますー例えば展示会のことーなぜマダムが、優秀な作品だけを持っていくのか。
マダムが「絵を描く事や詩を作ることは人間の魂を見せる」と言ったこと。それは「二人が愛しあっているという証明として作品を見ること」だったのです。
ノーフォークから戻って二ヵ月後、トミーはキャシーに、描いた小さな動物の絵を見せます。まるでラジオの裏版を外して、中を覗き込んだようで、細い管、うねるリード線、極小のねじと歯車が精密に描かれていましたが、紙から顔を遠ざけると、それはアルマジロに似た動物だったり鳥だったりします。
騒々しいほどに金属的な特徴を持った動物なのに、どこか柔らかく傷つきやすい何かがありました。
優秀な絵が選考された後に、愛しあっている二人は提供猶予を与えられる。対して、トミ―の絵は、不思議な印象を醸し出している。癇癪もちで問題児のトミ―ゆえの内面の魂の表現なのでしょう。
魂のこもった絵には提供の猶予が与えられるというトミーの「展示館理論」で、ルースはトミ―の動物の絵を見て “お笑い種” とバカにします。キャシーもルースの言葉に巻きこまれてしまいます。
それ以来、しっかり結びあっていた三人の人生は、ばらばらにほどけ違う方向に行ってしまいます。キャシーはトミーと関係が悪くなりますが、ルースとは何とか関係が続いていました。ルースとトミーは最悪の状態になります。
そんなある日、決定的にキャシーの心を傷つけることが起こります。
キャシーはルースから話を聞きます。「もしルースとトミーの関係が終わったら、キャシーは、次は、トミーが自分と付き合うのではと思っているだろうが、トミーは多淫な女性は嫌いだから、友達関係ではあっても、キャシーとは付き合わない」というものでした。
こうしてキャシーは二人と離れ、介護人になることを決意し、コテージに別れを告げます。