カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』解説|生きるとは、記憶を訪ねること

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ルースはキャシーに懺悔をして、トミーとの愛を取り戻すことを願う。

介護人となったキャシーは、六年目を過ぎて、ドーバーの回復センターにいるルースが一回目の提供がひどく、キャシーにルースの介護人になって貰えないかとの話を仲間から受けます。キャシーとルースは、再会し抱きしめ合います。

回復センターは、配慮が行き届いた居心地の良いところでした。キャシーは正式にルースの介護人になります。二人はへールシャムやコテージのことを懐かしく話しますが、最後の二人の別れ方については触れませんでした。

それでも定期的に会いに行くと、どこか違うという感覚が強くなっていき、キャシーはルースの介護人を辞める決心をします。

そのとき、思いがけないことが起こりました。その頃、提供者の間で、ある船が湿地で座礁している話でもちきりでした。ルースはその船を見に行きたいと言います。キングスセンターの近くにはトミーもいるので、ついでに会いに行こうということになったのです。

トミーの話題ができて、キャシーとルースは二人ともほっとします。聞けば、キャシーがコテージを出る頃には、トミーとルースの心はもう離れていました。

トミ―の回復センターは元娯楽施設で改修工事が続いているようでした。

二人が訪れると、トミーが車から出てきたキャシーを抱きしめます、キャシーは歓びを感じます。続いてトミーは、車の中のルースに挨拶のキスを頬に交わします。

そして座礁した廃船を見に行きます。見渡すかぎりの湿地帯、それほど遠くない昔、この森はもっと広かったに違いありません。なぜなら、枯れた幹が地面のそこここから突き出ていました。その向こうに、弱々しい太陽に照らされた船があります。

そこは、まるで「提供者」たちの墓場のようで、座礁船は墓標のようです。

帰り道、話がマダムの展示会に話が及びます。そしてルースは、キャシーの性衝動を多淫として陥れたことや、嫉妬してトミーとの仲を裂いたことなどを告白し懺悔を始めます。

ルースは「許して貰えるとは思っていない。それでもトミーとキャシーの二人で提供を猶予してもらって欲しい」と言います。「そんなこと遅すぎる、何年も遅すぎる」とキャシーは涙を流し返答します。

ルースは、今日の船見物はこれが目的だったことを告げ、マダムの住所の紙切れを「キャシーがその気になるまで保管するように」と言って、トミーに渡します。

三人の関係はいつも壊れやすく、微妙です。キャシーは、長い間、心に引っかかり、影を落としていた何かが消え、扉が開いたと思えました。

トミ―の介護人となったキャシーは、ひとときの幸せな時間を過ごす。

こうしてルースとキャシーはまた平穏な関係に戻ることができました。ルースは、キャシーにトミーの介護人になることを薦めます。

ルースの二回目の提供から三日後、今回はもう乗り切れそうもありません。ベッドに横たわりながら最期に一瞬、ルースは声には出しませんでしたが、言いたいことは通じました。

キャシーは「トミーの介護人になる」ことを答えます、そうしてルースは遠くに去っていきました。

座礁船を見に行ってから一年後、キャシーはトミーの介護人になります。

トミーは三度目の提供をしたばかりでした。個室をもらい一番大きなシングル部屋のひとつでしたが、窓は天井近くにひとつありスリガラス、羨ましがられるほどの部屋でもありません。

時間の大半は、のんびりした牧歌的なものでした。椅子に座り本を朗読します。「オデュッセイ」とか「千夜一夜物語」とか。そこで二人は、はじめてセックスします。それは、猶予の計画のためにも必要なことでした。

ある日、トミーが絵についての意見をキャシーに求めます。それはコテージの時代にルースと三人で交わした絵の会話を、トミーが水に流してくれた証であると同時に、なぜまたこの動物の絵が再登場したのかと思います。

トミ―の目の前で描いた蛙のような架空動物は、コテージで見たあの動物と似ていますが、何かが失せていました。もう手遅れで、それが可能な瞬間を捕まえ損ねた。そして今の行為は、滑稽で不謹慎ですらあるのではと思えるのです。

あのままの日々がずっと続いていたらーおしゃべりをし、セックスをし、朗読し、トミーが絵を描く。しかし四度目の提供の通知が舞い込む可能性も無視できません。

こうして二人はマダムに会いに行くことを決心します。

マダムの展覧会の真実を知り、トミーは絶望の淵に突き落とされる。

キャシーとトミーは、マダムと偶然にリトルハンプトンで出くわし、そのまま後をつけて家まで行きます。そこでマダムをキャシーは呼び止めます。マダムは二人を家の中に招き入れます。

キャシーが訪問の理由を話します。マダムは「あなたたちは深く愛しあっていると信じている、そこで猶予を求めに来たということですか」と訊ねます。

トミーが展示館の目的を確認します。展示館は二人の愛を見分けるのに役立っていて、それは「作者がどんな人間かを物語るから」と言うと、マダムは「作品は作者の内部をさらけだす、作者の魂を見せることですね」と言います。

そのとき、暗闇から声が聞こえ、エミリ先生が現れます。エミリが、マダムの代わりに答えます。

提供の猶予の噂には、真実のかけらもないことを。実体のないお伽噺であることを。

それでは何故、絵を描かせたのか?「それはあなた方の魂がそこに見えると思ったから―あなた方にも魂が―心が―あることが、そこに見えると思ったから」と答えます。

エミリやマダムたちの運動で、当時、劣悪な環境だったクローンたちに、ヘールシャムでは素晴らしい環境を与えることができ、それに続く施設も出てきました。

生徒たちを人道的で文化的な環境で育てれば、普通の人間と同じように、感受性豊かで理知的な人間に育ちうること、それを世界に示すことができました。

それ以前のクローン人間は、すべて医学のための存在でした。試験管の中の得体のしれない存在です。

出来のいい作品を集めて、特別の展覧会を開き全国各地で大きなイベントを開催し、政府の大臣や、司教様、各界の著名人を招いて寄付を募りました。多くの人々が運動に賛同してくれました。

科学の進歩は、さまざまな不治の病の治癒に希望が生まれました。半面、そういう治療に使われる臓器はどこから?世間がクローン人間が生み出されるべきかどうかを考える頃は、もう手遅れでした。

少しは気がとがめても、自分の子供が、配偶者が、親が、友人が、癌や運動ニューロン病や心臓病で死なないことの方が大事なのです。

世間は、あなた達のことを考えまいとし、自分たちとは違うと思い込もうとした。完全な人間ではない、だから問題にしなくていい。そこから小さな運動が始まった。

そんなときに、モーニングデールという科学者が、能力を強化したクローン人間を作る違法な研究が発覚した。人々は優生思想を恐れます。これがクローン人間に対する世間の嫌悪を煽る事になり、運動への支援も無くなりました。

エミリとマダムの運動は破れて、ヘールシャムは閉鎖されたのです。

「私を離さないで」 キャシーは、トミーの呼ぶ姿を空想します。

ルーシー先生は、生徒に将来を正直に教えるべきと主張したが、エミリ先生達は生徒に嘘をついても希望を抱かせ、懸命に生きる事を教えます。その考え方の違いからルーシー先生は辞職したのです。

エミリ先生が出て行き、マダムが残った時に、マダムの表情に憂いを気づいたキャシーは昔、「私を離さないで」を聴きながら踊る私を見て泣いていたことを思い出して、あれは何故だったのかと訊ねます。

キャシーは「あの時は歌詞の意味も良く理解できず、授かった赤ん坊を思っていた」と伝えます。

マダムは、科学が発達して効率も良くなり、新しい治療法も見つかり、それは素晴らしいこと。しかし一方で、無慈悲で残酷な世界でもある。そこにキャシーがいた。胸に、愛に満ちた古い世界をしっかり抱きかかえている。そして “離さないで” と懇願している。

「かわいそうな子たち」マダムは涙をうかべ、ささやくように繰返しました。

そこには、人知らず生を受けて、そして存在を消されていくクローンの運命があります。

裏道を通って帰る途中、二人は黙っていました。トミーは「ちょっと外に出してれくれ」と言います。最初の叫びが聞こえて、二度目、三度目の叫び声がした時に、キャシーは車から出て、それがトミーだと気づきました。

トミーは野原で荒れ狂っていました。わめき、拳を振り回し、蹴飛ばしていました。キャシーはトミーを抱きかかえます。二人はただすがり合いました。

キングスフィールドの生活に戻り、四度目の提供の知らせがくる頃に、トミーは介護人を替えて欲しいとキャシーに頼みます。自分の死に行く醜態を、キャシーに見せられないのです。

「最初から、ずっと愛しあっていても、最後は永遠に一緒にってわけにはいかない」とトミーは言う。

それでも新しい介護人に引き継ぐ数週間、キャシーとトミ―は穏やかに過ごします。

トミーが使命を終えたと聞いた二週間後に、キャシーはノーフォークまで車を走らせました。

親友だったルースも最愛の人だったトミーも失ってしまいました。何エーカーもの耕やかされた畑、柵に平行に走る二本の有刺鉄線にゴミが引っかかり絡まっています。

キャシーはふと空想の世界に入り込みます。この場所こそ<子供の頃から失い続けてきた全てのものの打ち上げられる場所>と想像しました。はてしない畑は懐かしく、地平線に小さな人の姿が現われ、徐々に大きくなり、それはトミーになりました。

トミーは手を振り、キャシーに呼びかけます。空想はそれ以上は進まず、キャシーは進むことを禁じました。そして、行くべきところへ向かって出発するのです。

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主要登場人物について

キャシー

彼女の一人称の回想で物語は綴られます。幼い頃から大人びて聡明で、冷静に運命を受け入れようとします。多感な十一歳の時に、寄宿舎ヘールシャムの販売会でジュディ・ブリッジウォーター『夜に聞く歌』のテープを購入し、挿入曲「わたしを離さないで」に心を惹かれます。特定の愛しあうカップルがなく自身の思春期に近づく性の欲望を多淫と考え、ポルノ雑誌に「ポシブル」を探すような日々を送ります。コテージを出て介護人の仕事を選び、一回目の提供を終えたルースの介護人となり、トミ―とも再会します。ルースの懺悔を受けて、トミーの介護人となり、付き合いを始め二人は愛を確かめます。そして提供の猶予の話をトミ―と進めていきます。

トミー

癇癪もちのトミーはヘールシャムの寄宿舎では問題児で、皆から敬遠されいじめを受けますが、キャシーだけには心を打ち解けていました。しかし積極的に近づいてくるルースに深い意味もなく性を体験し、二人は恋人同士になります。しかし絵の創作を嘲笑されルースとも別れて、幾度かの提供を行います。キャシーとルースに再会し、トミーは提供者としての自分を経験したことで、内面の成長を遂げており自身の愛する人はキャシーであることを知ります。トミ―は、介護人となったキャシーを愛し、描き貯めた絵画を持ってマダムの審査を受け、提供の猶予を得て、二人の時間を取り戻そうと図ります。そして残酷な真実に絶望しながら、四度目の提供で帰らぬ人となります。

ルース

ボス的な存在で、虚栄心と嫉妬心から、見栄を張るルースは、キャシーの気持ちを出しぬいてトミーに近づきます。思春期の性に目覚めトミーと体を重ね恋人関係になります。しかしトミ―の絵を嘲笑したことで二人の関係は終わりました。キャシーと再会したときのルースは最初の提供を終え衰弱しています。彼女は、懺悔の気持ちをこめてキャシーとトミーの恋を結びつける仲立ちをすることで許しを請おうとします。未来が限られた生のなかでルースは噂を信じます。恋人同志は審査を受けて提供の猶予ができるとの話を信じ続けたまま、二回目の提供でキャシーに見守られながら命を閉じます。

エミリ

寄宿舎へールシャルムの主任保護官で、クローンとして生を受けた子供たちに、芸術の才能を養わせ、人間性を育てようとします。子供たちの将来の運命については幼い頃から少しずつ刷り込ませるように教えており、次第に気づくように仕向ける。絵画を描き、詩を創作することを薦め、人間的な魂を有し理性的に発育することを世に証明しようとします。マダムと共にこの考え方を広め世論の理解を求めます。このことが、へールシャルムを特別な存在とさせ、二人が愛することを絵で証明できれば、提供を三年間猶予できるという噂が立つことになります。

ルーシー

寄宿舎へールシャルムの保護官で、クローンとして生を受けた子供たちに、早くから真実を伝えようとします。運命は決められていて、臓器を提供し死んでいく、だから夢を描いても無駄で、自らの存在理由を認識させようとします。子供たちが教わっているようで誰も本当に理解していず、正確に教えようとします。絵の苦手なトミーに、無理強いをしなかったのも芸術など不要との理由からです。しかしエミリやマダムの考え方とは異なり、学校から排除されます。トミ―はルーシー先生の教育観に賛同し、早くから真実を知る人生でいたかったと考えます。

マダム

歳は若く背は高くショートヘア、いつも灰色のスーツでフランス人かベルギー人のようでマダムと呼ばれます。へールシャム創設以来、年に二.三度やって来て、優れた作品を選び生徒は展示館があると噂します。まるで蜘蛛でも見るような冷ややかな眼で生徒たちを遠ざけているようですが、「この子らはどう生まれ、なぜ生まれたのか」と思い身震いをするほど、心の中では怖がっている。と同時に何とか待遇を改善しようと運動し憐れんでいます。キャシーが「わたしを離さないで」を踊る姿を見て、ひどく落ち込んで涙した記憶を忘れずにいます。