紀州・新宮の山と川と海に閉ざされた路地で、母系の複雑な血縁と実の父親である「あの男」への憎しみを胸に、同じ血を受け継ぐ秋幸の苦悩する物語。自分はどこから来た、何者なのか。戦後生まれの作家として初の芥川賞受賞作。秋幸三部作の始まりとなる『岬』。
登場人物
竹原秋幸
主人公で二十四歳。母親の前夫が死に再婚した義父と暮らすが、秋幸は実の父親がいて私生児である。現在は母と前夫の間に産まれた異父姉である美恵の夫、実弘の土方の組で働く。自身の複雑な人間関係を鬱陶しく思う。自然と調和しながら肉体を動かす土方仕事だけが、出自の悩みを忘れさせてくれる。町では実の父の「あの男」の噂が流れ、憎しみと復讐心で、酷いことをして報復したいと考えている。
とき(母)
秋幸の実の母親。前夫との間に自死した長男、長女の芳子、次女の美恵がいる。前夫の死後、恋仲になった「あの男」との間に秋幸を産む。その後、末子の秋幸のみを連れて再婚する。相手にも一人息子の文昭がいる。秋幸にも文昭にも土方の親方として請負業になってほしいと考えている。尚、「枯木灘」以降の作品では母親の名前は「フサ」となっている。
兄(異父兄)
ときと前夫との間に産まれた長男で、美恵の実兄。秋幸にとっては異父兄になる。ときが秋幸だけを連れ再婚したことで棄てられたと思い、母親と秋幸を刃物で殺そうとするが果たせず、二十四歳の時に、アル中になり首を吊って自殺をする。『岬』では、兄の名前は出ずにいつも秋幸の心のなかにトラウマとして思い起こされる。
美恵(異父姉)
ときと前夫との間に産まれた次女で、秋幸にとっては異父姉になる。実弘の妻で土建請負業の夫を支える。満四歳のころ肋膜を患い、肋骨を三本取る手術をして何とか助かった。神経が繊細すぎて、実兄の死や義妹の光子の夫の光男が、実弘の兄の古市を殺したことを苦に、精神を病み自殺未遂をする。
芳子(異父姉)
ときと前夫との間に産まれた長女で四十歳近い。美恵の実姉で、秋幸にとっては異父姉になる。二人の連れ子の夫と名古屋に住んでいる。父親の法事を、義父の家で行うことに異を唱える。
「あの男」
ときが、死別した前夫と再婚した現夫と出会う前に恋仲になった男。秋幸の実の父親。新地に若い女を囲っているとの噂がある。山林地主から山や土地をまきあげるなど、悪どいことをしながら裕福に暮らしている。獅子鼻で体が大きく体つきや顔の造作が秋幸と似ている。『岬』では、名前は出ずに「あの男」としていつも噂がたてられている。
義父
ときが再婚した現在の夫。秋幸には義父になる。土建請負業の親方の組として土建業を営んでいる。自身が連れた子の文昭と、ときが連れた子の秋幸と、子どもは二人。子どもには口答えを絶対に許さず体罰を加える。秋幸は大阪の建設会社を辞め、しばらく義父の組で世話になり土方をしていた。
文昭(異父兄)
義父の連れ子で、秋幸の二歳年上で義兄になる。義父の経営する土方の組で働いている。文昭と秋幸は、母のない子と、父のない子の連れあい結婚で腹違いの兄弟である。文昭もまた産みの母親から捨てられている。
実弘
美恵の夫で、土方の親方の組として土建業を営んでいる。光子にとって小さい兄ちゃんである。秋幸が土方として世話になっている。
光子
実弘の実妹で、安雄と夫婦。光子と大きい兄ちゃんの古市とは兄妹仲が昔から悪い。気が強く豪気な女で、安雄を尻に敷いている。
安雄
光子の夫で、実弘のところで働く土方。猫のようにおとなしく陽気な男で仕事もまじめだが、酒に酔うと人が変わる。光子の兄の古市を喧嘩で刺して殺す。
古市
実弘の実兄で、光子にとって大きい兄ちゃん。光子とは兄妹仲が悪かった。義足だったが、まともな方の脚を光子の夫である安雄に何回も刺されて殺される。
弦叔父
ときの前夫の弟、秋幸の異父兄や異父姉たちの父親の弟、叔父にあたる。酒浸りのアル中でいつも酔っている。三年前、女房を亡くし美恵のところへ様子伺いを口実に酒を無心にくる。右手の指が生まれつきくっついて、獣の蹄のように二つに裂けている。
久美
「あの男」が女郎に孕ませ産ませた子で、秋幸にとって腹違いの異母妹になる。新地の<弥生>という店で娼婦をしている。久美も、「あの男」が新たに囲った妾という噂もある。尚、『枯木灘』以降の作品では「さと子」となっている。
菅さん
実弘のところで働く土方仲間。親方の管理の下、安雄、秋幸、藤野さん、清ちゃんと現場で働く。
藤野さん
実弘のところで働く土方仲間。親方の管理の下、安雄、秋幸、菅さん、清ちゃんと現場で働く。
清ちゃん
実弘のところで働く女の人夫で、親方の管理の下、安雄、秋幸、菅さん、藤野さんと現場で働く。
あらすじ
複雑な血縁の関係をもつ、紀州・新宮の路地の世界。
土方たちが酒を汲み合っている。皆、屈託のない会話をしているようだが、会話の内容は血縁の血の濃さと危うさが彷彿される。
土方請負業の親方 実弘の妻の美恵は、異父弟の秋幸が飲み過ぎるのを頭の悪い血筋だからと心配する。美恵には縊死した長兄の記憶がある。女だてらに豪気な実弘の妹の光子は、胡坐をかいて下着を見せながら秋幸に酒をすすめ、「頭の悪い血筋比べ」を亭主の安雄を見ながらしている。
美恵は実父の法事の準備を理由に秋幸を連れ立って暇する。夜道を秋幸と歩きながら、あまり光子と親しくならないように、きょうだいでごたごたを起こさないように秋幸を諫める。それから美恵は、秋幸と手をつなごうと言いだして、死んだ長男と一緒に、義父と住む母親ときの家へこうして歩いた昔を思い返す。
『岬』の冒頭の要約である。登場人物の複雑な血縁関係が、読んでいると最初は “誰と誰がいかなる人間関係なのか” が頭の中で混乱する。
そして血筋のなかに死や狂気の匂いを漂わせている。物語の舞台となる山と川と海に塞がれた新宮にある「路地」と名付けられた場所で、土方仕事を通して地縁関係の土俗的な風土や自然の肌触りが感じられる。
これは、中上健次の紀州・熊野サーガを主題とする自己を探す物語である。
母系だけで繋がる血縁と、私生児として生まれた秋幸。
秋幸は二十四歳。現在は実母ときが再婚した男である義父の家で暮らしている。
義父には連れ子の文昭がいる、秋幸の二つ年上で異父兄にあたる。義父も土建業の親方で、秋幸もしばらく文昭と一緒に土方をしたが、今は美恵の夫の実弘を親方とする別の組で土方として働いている。
秋幸は母ときの血でしか繋がっていない母系であり、異父の兄姉が、母の前夫との間にたくさんいる。
それぞれの配偶者や子供たちとの関係が広がっていく。私生児として生まれた秋幸は、激しい孤独感に苛まれながら、実の父親を「あの男」と憎しみをこめて呼ぶ。
「あの男」との間に、物語の主題である呪縛と復讐という父系のもうひとつの血が繋がっている。
秋幸の母ときは前夫と死別する。その後、別の男と恋仲になり秋幸を身ごもる。ときを孕ませた「あの男」は、その時、バクチの喧嘩で挙げられ豚箱に入ることになっていた。ときは「あの男」が同時に、二人の別の女にも孕ませていることを噂に聞いて、お腹の子を一人で育てることを決意する。
ときは女一人、行商で生活を切り盛りしていく。そして現在の夫と再婚をする。ときは前夫との間に産まれた子供たちを残し、最年少の秋幸だけを連れて入籍する。相手にも文昭という子供がいて、お互いの連れ子が一人と一人、つまり五分と五分の再婚だった。
長男の死が秋幸を懊悩させ、「あの男」への復讐心に繋がる。
長男が縊死する、二十四歳の時だった。長男は妹の美恵と一緒に、母親のときを取り戻そうと再婚相手の男の家にやってくる。包丁を畳に立てて、苦痛と哀しみのなかで母親の愛を懇願する。そして叶うことなく数日後、路地の家の柿の木で首を吊った。
秋幸は犬のように男と女の営みで子供を産み落とした母親を恨み、そして、ときを弄んだ「あの男」を憎む。秋幸は「あの男」がきちんとした男で、正式に結婚をしていたら実父母と子の三人の関係で、あるいは、ときが現在の義父と結婚をしなければ、自分だけが引き取られることもなかったと考える。
残された前夫の子供たち。そして長男は母親に棄てられた哀しみのなかで首を吊って死んだ。
秋幸はすべては自分が生まれてきたせいだと考えるようになる。自分は、何者なのか、一体どこから来たのかとの強い思いは、自分の存在を苦しませ、悩ませ、そして「あの男」への憎しみを増していく。
そして思いもかけない行為に及ぶ。「あの男」が別の女に孕ませ産ませた、新地にいる娼婦。秋幸にとって異母妹にあたる久美を凌辱し、自分の身にも酷いことを被ることで、秋幸は「あの男」へ報復しようと試みる。
何も知らない久美と、ついに秋幸は性的な関係を持ってしまう。そして「あの男」がどう思うだろうという気持ちと、あの男の血と同じ血が溢れだす自分と、久美を抱く愛おしさを思いながら物語が閉じられる。