メッセージと感想
ほとんどの日本人に洋行体験など無かった時代に、美しいドイツ人の踊子と若き日本人の官僚との恋物語。そして近代的自我の問題を取り上げた『舞姫』。その読後感は、エリスの感情を考えれば人間性を無視した豊太郎の残酷さを感じざるを得ません。また優柔不断な信念の無さを感じてしまいます。
鴎外は、なぜこんな後味の悪い作品を書いたのでしょうか。「豊太郎の恋」、「もし・・・」、「林太郎の恋」の3つの流れで考えてみます。
豊太郎の恋。
豊太郎に対して倫理的な非難を向ける読者がほとんどではないでしょうか。
しかし個人主義という考え方で、私たち日本人は自分の思いのままに自由に生きることがほんとうに出来ているのでしょうか?
相沢がすべてをエリスに話し、豊太郎の裏切りにエリスは発狂してしまいます。しかし相沢は、豊太郎のために新聞社の仕事を紹介したり、大臣と引き合わせたり、エリス親子にお金を渡したりしてくれます。豊太郎は相沢の厚い友情に感謝しますが、一点、エリスに真実を伝えたことに恨みを持つというのです。
エリスへの「恋愛」か、自身の「功名」かの問題が、相沢によって決された訳ですから、他人転嫁な結末です。であれば、豊太郎もエリスも正常な状態だったらどうなったのかという問題が突きつけられます。
近代国家の建設を担うエリート官僚の地位、そして最小の単位ながら最高の位置に直結する家名を栄えさせる。その使命をもってベルリンに赴任するのですが、免官されます。
物語では、父を早く亡くし、母の思いを一心に背負う豊太郎が、死をもって訴えた母の執拗な思いと官僚組織のなかで、もういちど挽回できるチャンスを手にします。
それに対して国家でも家名でもなく、愛に生きる道を進む。自己の独立した個人として、自由な生き方を選ぶ。エリスは純情で情熱的で豊太郎を愛しています。
この二つの選択です。選べるのはどちらかひとつだけです。貴方だったら、どちらを選択されますか?
そして回想として「恨み」と「懐旧」とありますので、この人知れぬ恨みの感情と、戻ることのない昔を懐かしみ、深く後悔します。
もし…
『舞姫』は1890年の作品ですが、発表後すぐに文芸評論家の石橋忍月(いしばしにんげつ)と鴎外の間で「舞姫論争」なるものが起こります。
「恋愛」か「功名」か、そこで豊太郎が取るべきなのは恋愛で、功名ではない。だから石橋は、主人公が意志薄弱であるというのです。確かにその通りですね。鷗外は、次のように反論します。
「太田は弱し。其大臣に諾したるは事実なれど、彼にして家に帰りし後に人事を省みざる病に罹ることなく、又エリスが狂を発することもあらで相語るをりもありしならば、太田は或は帰東の念を断ちしも亦知る可らず。」
豊太郎は意志の弱い人間、と前置きしたうえで、もし・・・豊太郎が昏倒せず意識があり、もし・・・エリスも発狂せず、二人がきちんと話し合えば、豊太郎は帰国をしなかったかもしれない、というのです。
ただ作品を読んだ後では、鷗外のこの説明はやや説得力に欠けるような気はします。
また、ある意味では相沢は豊太郎の鏡の存在として捉えることもできるでしょう。豊太郎の弱さがもうひとりの自分でもある相沢によって露わにされます。
結果的には、豊太郎は、国家や家をも含む「自身の功名の道」を選択したわけです。
「功名」という利己心が突き出たことへの悔恨、自己嫌悪や自己欺瞞と、エリスへの愛は真実だとする自分との葛藤が恨みとして、相沢というもうひとつの自我に転嫁されます。
家の名誉に縛られる自己と、自身の愛を貫きたい自己、この二つが両立できず、その問題を個人として引き受けなければならない個人主義における苦悩からの逃避です。
そして結果的に豊太郎は相沢、つまりもうひとりの自分を恨みつつも、なんとか人生をもとのレールに戻すのです。それは、自由な生き方の挫折でもあります。
それでは、もし・・・林太郎だったらどうでしょうか?
林太郎の恋。
森鴎外の本名は、森林太郎です。官費で赴きベルリンで実際に恋人がいて、この女性がエリスのモデルであることは広く知られています。
彼女の名前は「エリーゼ・ヴィーゲルト(Elise Wiegert)」。
林太郎帰国の4日後、エリーゼは横浜港に到着し東京・築地のホテル精養軒に投宿します。
多くの舞姫研究やエリスのモデル探しがあります。最近では六草いちか氏のものが興味深く、新たな事実に触れた感じがします。
エリーゼとの結婚を考える鷗外に、森家は大騒ぎとなります。そうです、林太郎はエリーゼを家族に引き合わせようと日本に呼んだのです。渡航費も鴎外が出したとの説です。だとすれば現実の林太郎はエリーゼを強く選んだことになります。林太郎は職を辞す覚悟すらあったのではとの説もあります。
明治の時代を考えれば、その意志は、ひ弱どころか、頑迷なほどです。
ただし結婚しなかったこともまた事実です。約1か月滞在しエリーゼは、鷗外の家族に会うことなくドイツに帰国します。この説得には弟と義弟があたったとされています。
この時、何かの約束があったのではないかとの説。そして、エリーゼ帰国の4か月後、母親は家運をかけて政略結婚を断行します。1889年のことです。強く母を思う鴎外は、逆らえず、母の薦める結婚に従います。その後、林太郎は一子を設けますが、この結婚はうまくいきませんでした。
エリーゼの面影を慕う林太郎は憔悴し、見かねた母も同意の上、まもなく離婚をします。そして翌年1890年に発表されたのが鴎外の『舞姫』です。踊子で、妊娠し、発狂したというのはフィクションです。では、何故ここまでの設定にしたのでしょうか。
これでは豊太郎が酷い主人公になるのは当然でしょう。それは極限まで残酷さを際立たせることで、この「恋愛」と「功名」の問題を高めるためだったのではないでしょうか。
親や家という価値に縛られる宿命と、文明開化とは名ばかりな封建的な明治の日本。その是非はともかく、その現実を強く印象付けます。『舞姫』で繰り広げられるドイツ・ベルリンやロシア・サンクトペテルブルグは異国の成熟した文明であり、豊太郎はベルリンで個人主義の思想に満ちた自由な考え方を学んだのです。
しかし科学技術や医学を輸入することはできても、思想を輸入することは容易くありません。
そこには日本と西洋の文化の違いが背景にあるからです。明治人には西欧近代の個人主義と日本の旧来価値をいかに融合させるかという苦悩がありました。
西洋を訪れ自由な主義を貫いているつもりだったが、国家にも家名にもひきずられ、結果、自我が引き裂かれて、挫折し、ついには、自由な自分ではなく、国家や家名の庇護のもとにある自分を選んだことの恨みと後悔の告白です。
エリスを思い続けた生涯
『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』は独逸3部作と呼ばれますが、それは終生までの忘れ得ぬ記憶だったはずです。
林太郎は先妻の死後も、独身を貫きます。エリーゼと林太郎はずっと文通を続けていたらしく、やがて12年後、林太郎は再婚をします。それを見届けるかのように、エリーゼは38歳という年齢ではじめて結婚をします。
鴎外は、新たに2男2女をもうけ、二人の女の子には、茉莉(マリ)、杏奴(アンヌ)と命名しました。鷗外は、生涯、エリスの思い出を胸に抱いていたのでしょう。以降も、彼女の存在を思わせる作品をいくつも書いています。
個人主義を開化のひとつとして明治は掲げながらも、自我を阻む近代日本というパラドキシカルな構造の社会を、生きなければならなかった時代の運命。そんな文脈で表現したのではないでしょうか。
寧ろ、鴎外は頑固に人生を貫く人でした。個人は誰のために生きるのか!明治という旧来と近代の狭間で、そのことを誰よりも強く意識した人が鴎外なのかもしれません。
晩年、軍医として最高の立場となり、鴎外は、明治の近代国家を担った軍人として文人として60歳の生涯を閉じます。
「余は石見の人、森林太郎として死せんと欲す、あらゆる外形的取り扱いを辞す、墓は森林太郎の他、一字も掘るべからず」とその遺言に残します。
そこには身分も肩書も許しませんでした。若き頃、『舞姫』によって自我のめざめと挫折に悩み、そして最後にその墓標に、国家でも、家でもなく、一人の個人として自我を表し、その思いをとどめたのかもしれません。
※森鴎外のおすすめ!
森鴎外『舞姫』解説|豊太郎の恋、林太郎の恋。
森鴎外『高瀬舟』解説|あなたは喜助を、殺人罪で裁きますか?
森鴎外『山椒大夫』あらすじ|安寿と厨子王の童話を、現代に再生する。
作品の背景
「舞姫」は1884年から4年間、鴎外がドイツに医学を学ぶために留学した時期を題材に執筆されています。6年を経て1890年に発表。主人公の手記の形をとりドイツでの体験が綴られます。主人公の太田豊太郎と鴎外に類似点があります。
また鴎外がドイツから帰国した4か月後にエリスのモデルであるドイツ人の女性が21歳で来日しています。なお太田豊太郎の人物設定は鴎外とは別の人物であり、あくまでフィクションです。しかし共通する部分も多くあります。鴎外の生涯にとって小さからぬ意味をもつ出来事であったのでしょう。
死後、墓標は簡素なもので「森林太郎」とのみ記されます。「森鴎外」という名前はもちろんながら、官位も肩書も記載されていません。そこには若き青春の恋と将来の立身という人生の葛藤に万感の思いがあったのかもしれません。
発表時期
1890年(明治23年)に『国民之友』に発表。森鴎外は当時28歳。明治、大正期の小説家であり、評論家、翻訳家、歌人でもあり、同時に官僚であり陸軍軍医である。「舞姫」は、鴎外の初期の代表作である。「うたかたの記」「文づかひ」の三作品を独逸三部作あるいは浪漫三部作と呼ぶ。理想や理念など主観的なものを描く理想主義を掲げ、日本の近代文学の始まりとなった作品である。