正宗白鳥『何処へ』解説|ニヒリズムに酔う、寄る辺なき我が身。

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解説

絶対への求道と、リアリストとしての白鳥の捉え方。

白鳥は自身の文学を自然主義とは思わなかったが、現実を飾らず人間の欲望を有りのままに描くことが自然主義だとすれば、そこに基盤を置いたリアリズムの作家であり、“有るがまま” の白鳥の主観は虚飾が無い。現代の視点から百年前の心象をうかがい知ることができる。

健次は自分を見出せないまま、何処に向かうことなく物語は閉じられる。『何処へ』は、読者を視界の広がる場所へ導いてはくれないが、内なる自我に向かわせる。その孤独は現代と変わらない。根底には求道的な精神があり、キリスト教を棄教した白鳥の『何処へ』の健次には、カミユの『異邦人』のムルソーと同じニヒリズムと人間主義を彷彿とさせている。

権威や伝統、武士道の魂、マルクスの理想主義、キリストの博愛主義。全てが救いにならず懐疑的だ。人生は不確実性が高く謎が多い、だから絶対的なものにあやかりたい、しかし絶対者は存在しない。ではどうするのか、そのことを考え続けたのが正宗白鳥の文学だった。

絶対の真理を求める精神はある。しかし権威にも、伝統にも、主義にも、宗教にも、もちろん階級にもなびかなかった。それゆえ全てが相対に思えた。そこに懐疑と虚無が現れる。安易に絶対とされるものになびかず、しかし絶対なるものを求め続ける。

有名な<小林秀雄とトルストイの論争>で、トルストイについて正宗白鳥は「恐妻家で、世を恐れ、家を出て、ついに野垂れ死にした」と喝破し、小林秀雄は「トルストイという大思想家にして大小説家を、ただの実生活に還元してはよくない」と反駁する。文学の教祖、小林秀雄の考えに対して、正宗白鳥は正味の視点で捉えている。

白鳥は現実主義者リアリストなのだ。自我の開放や確立を目指すゆえに、全てに懐疑を生み、シニカルは個人主義へと向かっていく。

時代は百年以上も前だが、どこか現代の絶対を求めたい情動とニヒリズムに似てはいないか。

虚無の淵へ落ちていきそうな、己を利しない個人主義。

「実存は本質に先立つ」サルトルの有名な言葉だが、実存をアプリオリなものとして捉える。実存主義とは、人生において自分が唯一の存在の意義の源泉とするが、白鳥の『何処へ』は、不確かな現実のなか虚無に陥っていく。

戦争に向かう国家があり、日露戦争に辛勝したが多くの戦死者の犠牲と期待外れの賠償額、人々は困窮し虚しさに未来が描けない。キリスト教を信じるも、神は救ってはくれない。白鳥は若くして洗礼を受けるが、その数年後には棄教する。それでもやはり天国を信じたかったのか最期には再度、キリスト教に戻る。

人生には、そもそも意味はあるのか? 意味を持たせるためには、そこには投企の概念が必要となる。人生に意味がある、と意識的に考える必要がある。実存は本質に先立つ。まず自分が存在しそして意味を付与する。しかし一方で、そのこともひとつの想像にすぎない。

せめて己を利するための利己主義だけは止めようとする。つまり己に利することをしなければ、自己欺瞞に陥ることもない。ただ世間に同調しなければ、個人主義にならざるを得ない。個人主義になれば他との関係は、意味を持たず無関心になる。健次は決して虚無主義でなく煩悶している。しかしそこから抜け出す術を知らない。信じるものがなければ、厭世的になる。自分が「何処へ」向かえばいいのかが分からない。

明治の日本は、江戸からの連続性を断絶した。権威や伝統が失われていく。そのことで、家族、共同体、慣習、価値観なども危うくなる。しかし人間は実存があり、明日がくることも、未来が訪れることも避けられない。

実存主義から構造主義、そしてポスト構造主義と時代を定義され、そこを経た現代に生きる人々の実存。そして寧ろ増幅していく求道の果てのニヒリズム。

日本人のリアリズムは、明治と令和の百年の時空を超えて、健次の姿と重なる部分が多いことに気づく。

作品の背景

当時は、フランスからの自然主義の流れを受け、日本にも自然主義運動が起こる。日本の場合は自然科学的な背景ではなく、寧ろ内面の自我をあからさまに描く。

田山花袋の『蒲団』(1907年/明治40年)、対照的に、多数派ではないがその教養溢れる作品で余裕派とされた夏目漱石の『三四郎』(1908年/明治41年)そして『こころ』(1914年/大正3年)がある。

『三四郎』と同じ年に、正宗白鳥の『何処へ』(1908年/明治41年)は発表される。

国民作家、漱石と同じ時代に、リアリズムの手法で生きることの虚無を描く政宗白鳥がいた。1904-1905年の日露戦争に辛うじて勝利し、一等国民を自負したが、莫大な戦費の外債の累積と無賠償講和のなか、1907(明治40)年に恐慌が起こる。国民の貧窮は止むことなく、何のための戦いだったのか、これから我々はどこに向かうのだろうと疑問を抱いたことだろう。

漱石の『三四郎』では、上京する列車の中で、高揚感に浸る三四郎に、広田先生は「日本は滅びるね」と告げる。日本の西洋化とは近代化であり、列強からの圧力による外発的なもので、日本人の勤勉さで乗り越えることはできたが、精神の内側から沸き起こったものではなかった。

日露戦争の死傷者は8万を超える。正宗自身は体力的な理由で徴兵されなかったが、同時代の多くの若者が戦争に駆り出された。そしてその先に向き合う「死」。戦争以外にも当時は不治の病、結核があった。

同じ時代下において自然主義的手法において、正宗白鳥はリアリズムで虚無的な主人公を中心に据えて物語を展開した。現代の人々の意識と近い感覚ではないだろうか。

正宗白鳥『塵埃』解説|此処ではない何処かを探す、不確かな自己。
今から百年以上前に正宗白鳥の『塵埃』という短編がある。リアリズムの手法に倦怠や厭世、ニヒリズムが漂う。日本のあちらこちらで見られる会社人の仕事場や居酒屋での社交が “時代を生きる視点” で描かれ、明治と現代を比較して読むと興味深く楽しめる。

発表時期

1908(明治41)年、1月より4月まで『早稲田文学』に連載。正宗白鳥は当時29歳。岡山県に生まれ、16歳で内村鑑三の著作を耽読、上京後、植村正久から洗礼を受けキリスト教徒となる。22歳でキリスト教を離れる。最晩年には、死の床で再びキリスト教に帰依。1903(明治36)年に読売新聞に入社、翌年、25歳で処女作「寂寞」を発表。1907年、28歳のとき「塵埃」を発表し新進作家として嘱目された。同年、読売を退社し作家活動に入る。

政宗白鳥は1879(明治12)年から1962(昭和37)年と、明治、大正、昭和を生きている。虚無的人生観を客観的に描いた。講談社文芸文庫の『何処へ|入江のほとり』は白鳥28歳の作である『塵埃』から82歳の作である『リー兄さん』まで半世紀の間の作品を8篇、収録している。晩年の1950(昭和25)年には文化勲章を受賞している。