運命に翻弄されても、私たちの心に生き続ける静謐な魂の記憶。
記憶のかけがえのなさを、文学の力で表明するカズオ・イシグロの世界。
カズオ・イシグロの作品には、常に「人間とは何か」「魂とは何か」が問われ続けている。
誰にでもある幼少から思春期を挟むころまでの記憶、自我に対する思い、感情の揺らぎ、異性や友情や仲間との語らい。人間はいつの時代でも、人を愛し、時には憎しみ、傷つけあい、それでも人生の終わりに「すべてを愛した」との思い出に包まれて自らを閉じていく。
その振幅に大きな影響を及ぼすのが、運命の翻弄である。それでも人は、決められた悲喜劇のなかを生きるのみである。回想するキャシーの口調はどこまでも冷静で淡々としている。
核兵器や原子力発電所、津波や地震など甚大な自然災害、強毒なウィルスや細菌、人間はさまざまな危機に晒されている。この物語のモチーフは、科学テクノロジーの犠牲としてのクローン人間。
随所において入念に文章が構成されている。抑揚を効かせながら、メタフォーを散りばめ、少しずつ秘密は暴かれ、晒されていく。読者も追体験のように体にメスが入っていくような不気味さ、内部が奪われていくような怖さ、そして切り刻まれた体が湿地に打ち上げられた朽ちた幹や座礁船の寂寞に比喩される。
1996年7月にイギリスのエディンバラ大学で羊を使ってのクローン実験が成功し、哺乳類初のドリーの誕生が発表され、そこにインスパイアされたと、カズオ・イシグロは語っている。
その後、クローンについての議論が沸騰する。世界保健機関 (WHO) が、クローン技術の人間への応用を禁止する「クローン技術に関する決議」を採択し、同年フランスでのサミットで、人間への応用の禁止を国内法に盛り込む措置や国際的な協力を進める内容の宣言が盛り込まれた。
良いことであり、当然のことであろう。しかしあくまで法による規制である。批准しない、あるいは非合法な国や地域はいつの時代にもある。需要が高いほど、ビジネスとして成立し、そこに科学や医療の進歩という美辞が倫理観をぼかしてしまう。
エミリやマダムの言うように、科学万能主義が、貪欲な資本主義に組みこまれ、死を恐れる人間の生に対する貪欲さは益々、大きくなり歯止めがかからなくなる。
人間社会は、自らの道徳倫理観ではコントロールがきかなくなっているのか。
細胞としての体は、生体として機能し、代替という効用を生み、生物科学の上では進歩であり貢献なのであろう。しかし「心」の作用は、複製(コピー)できない。その奥底には「魂」がある。五感からの感情であり、精神世界に漂うこともできる。
キャシー、トミー、ルースはじめ寄宿舎の子供たちは、クローン人間として生きることを宣告され、普通の人々と異なる運命を課せられる。クローンは遺伝子の複製(コピー)で人間の感情を持っている。
臓器提供の猶予の審査の噂話、それはクローンの「愛の証明」ではなく「魂の証明」だったという残酷な真実を読者は知る。「愛の有無」ではなく「魂の有無」を審査していただけとう残酷さ。「提供者」は愛することは許されないのか。
癇癪もちのトミーは、自分たち「提供者」の運命を、幼い頃から気づいていたかのように、狂わんばかりに絶叫する。この物語では、人間とは不分離の科学の進歩が横たわり、<クローン>という題材で、パラレルワールドに包まれた世界ゆえに、短い生と死の宿命が迫ってくる。
だから「人間とは何か」「魂とは何か」が強くせりだしてくる。人間の哀しい美しさが、霧雨のように静かに身体を包み、心の深い部分にまで沁み込んでくる。
人間の生と死を心の鼓動で捉え、その素晴らしさを読者に問いかける。
現代の科学の進歩の中に生きている人間の、かけがえなく美しいものとは何か?
職業も移動の自由も制約され、やがて臓器を提供させられることを教わる。何よりも生命の時間が、利得者によって決められ、使命を完了すれば、存在は消し去られる。
残酷な宿命にあっても、変わらずに友と語らい、恋が芽生え、自己を探した。「知ること」と「知らざること」。エミリは、知らせない偽善で、子供たちの幸せな記憶を担保した。知れば、もっと悲惨な人生になるというのだ。
だからこそ寄宿舎へールシャルムの子供たちには牧歌的な記憶がある。たとえ未来が暗黒であっても、美しい思い出だけは生涯を通して生き続ける。
複製されたクローンの残酷な運命。しかし、カズオ・イシグロがこの作品のなかで、大切に考えた人間の記憶と魂の鎮魂を感じることができる。
生死の問題は、神との黙契、自然への冒瀆、基本的な人権の侵害である。しかし物語は、このような道徳や倫理的な解釈で答えが導かれてはいない。もっと感覚的だ。心を持った人間が、心を持って読み進む時に、僅かに情動の記憶のみに救われる。
ラストの場面で、キャシーは「提供者」たちの魂の原風景であるノーフォークを訪れる。
そして自分にも空想することの許しをえて、記憶を反芻する。すると地平線に手を振るトミーが現われ、キャシーに呼びかける。ここがキャシーの『わたしを離さないで』という心象風景である。ほんの一瞬、絶対の絆で結ばれ、運命に従順になる強い覚悟を持つ。
魂の鎮魂と蘇りを願うキャシーの空想の時間さえも制限される、行き場のないせつなさが読者の心の奥底に深く沈潜する。空想の中で絆を再確認し、キャシーは「介護者」として親友ルースと恋人トミ―を見送り、今度は自身の「提供者」としての運命を静かに淡々と受け入れる。
謂わば、クローンもまた人間のメタファとして描かれており、逆説的に<幸せな記憶>を持つ人間という生物がいかに素晴らしいかを教えてくれる。現実の人生も多少なりとも同じではないか。
神の予定説か、自然の法則か、運命の翻弄か、何を引いてくるかはそれぞれだが、この『わたしを離さないで』の基調には、クローンという複製(コピー)の「わたし」にも愛する魂が存在したことを意味している。そのことを感じながら与えられた人生を全うする。
危機と共存し、感情が欠落していきそうな人生のなか、故郷や愛や友情というノスタルジアな記憶が、生命の原動力であることを教えてくれる。
作品の背景
カズオ・イシグロは、イギリスの小説家である。1954年11月8日に長崎に生まれ、1960年、5歳の時に、家族とともに渡英。日本とイギリスの2つの文化を背景に育つ。1982年の長編デビュー作『遠い山なみの光』で王立文学協会賞を、1986年『浮世の画家』で、ウィットブレッド賞を受賞。
1989年に年に英国貴族邸の老執事が語り手となる長編小説『日の名残り』で英語圏最大の文学賞であるブッカー賞を受賞して国際的作家となる。第6作目の長編にあたる『わたしを離さないで』は、抑制が利き入念に構成された作品とされている。
それはクローンによる人間の誕生と青春、そして僅かなその生涯というSF的な世界であり、あくまで現実と架空のパラレルワールドではあるが、功利主義が追求され、イギリス理想主義が消滅していくなかで、遺伝子工学が益々、進展し人々への倫理を問うための文学としての役割を担うかもしれない。
発表時期
2005(平成17)年、アルフレッド・A・ノップ社から刊行。カズオ・イシグロの長編小説『わたしを離さないで』は世界的なベストセラーとなった。日本版は2006年4月に早川書房より刊行。2017年に、ノーベル文学賞受賞に伴って日本でも増販を重ねる。