解説
語り手としてのニック・キャラウェイを通してみる物語の世界。
『グレート・キャッビー』は、ニューヨークにやって来た貧乏な出自の青年が、夢を実現するために成り上がり、一人の女性を愛し続けたひと夏の美しく哀しい物語です。
デイジーともう一度生きるために人生を賭けて富と名声を掴んだギャツビーと、ギャツビーと恋をしてその後、富豪のトムと結婚し贅沢に浸る俗な女性に変わった良家のお嬢さんだったデイジー。そして自分の不倫は棚に上げ、夫婦の危機を守り抜く資産家階級のトムとの三人の構図になっています。
話者であるニックは、トムの大学の友人であり、デイジーの遠戚であり、ギャツビーにとって唯一の友人であり理解者である。物語はニックの客観的な視点において叙述され、回想されていく。
もともとアメリカの歴史はイギリスをはじめヨーロッパ各地から新天地を求めやってきた人々で建国され、歴史が浅く古からの貴族階級はない。その意味では独立宣言後のアメリカは自由と民主主義の下で、出身や階級を問わず、才能と努力で富と地位を掴み取っていく。
この1920年代は第一次世界大戦後、戦争が与えた恐怖や不安と同時に、戦勝で栄華を誇る好景気のなかアメリカン・ドリームを目指す時代である。大量消費に沸く狂騒のジャズ・エイジの20年代をニックはシニカルに見ている。
デイジーを思うギャツビーだが、トムの悪意に満ちた中傷によって敗北し、さらにマートルを轢死させたデイジーを庇いながら死んでいく。そんな彼に対して、ニックは、
「誰も彼も、かすみたいなやつだ」(中略)「みんなあわせても。君一人の値打ちもないね」(第九章)
と言う。金持ちの虚栄な空騒ぎの日々と、金や贅沢のために人を裏切っても平気な道徳心の無さに、ニックは辟易する。そのなかでギャツビーだけが高潔だった。
ニックが、ギャツビーの葬式を終えて回想する場面で、
結局のところ、僕がここまで語ってきたのは西部の物語であったのだと、今では考えている。トムもギャツビーもデイジーも、ジョーダンも僕も、全員が西部の出身者である。(第九章)
それは保守的な中西部からアメリカン・ドリームを皆がそれぞれに夢見たこと。そして全員がそれぞれに東部の生活にうまく溶け込めない部分を抱え込んでいたんだろうと言う。
ニックにとって東部はエル・グレコの描く夜の情景のようで、ギャツビーが死んで薄気味の悪い場所になってしまった。
幻を追い続ける狂騒の20年代と、ギャツビー。
資産家階級にあるトムと結婚をしたデイジー。デイジーともう一度、生きることがギャツビーの目標だった。それはギャツビーとデイジーの恋が、五年前に儚く終わったことに起因している。その理由をギャツビーは貧しかったためだと考える。
大戦後の好景気は莫大な富を築くことを可能にした。それは金融や証券への投機や禁酒法下の違法なビジネスであり、富と名声を得るためにギャツビーが成りあがってきた物語だった。
デイジーの住むイースト・エッグの桟橋の緑の灯火が、ギャツビーの憧れの夢。
良家で育ったデイジーは彼女の意思ではなくて、家柄や資産が重視されてトムとの結婚が行われたとギャツビーは考えている。貧乏な出自のギャツビーは金持ちになる以外に彼女を迎えに行くことはできないと考える。ギャツビーは夢を叶えるために、狂騒の20年代の流儀で巨万の富を築く。それは金が目標ではなく、金が条件だからである。
桟橋にともる緑の灯火は幸せの在り処の象徴であり、それはデイジーと生きることであり、純愛としてのギャツビーのロマンティックな心情を表す。
対岸のウェスト・エッグで豪奢なパーティを催し続けるのは、デイジーに気づいてもらうためである。そこに群がるセレブや有名人たちの噂話がデイジーに届くためである。そのために世紀の大芝居は繰り広げられる。そして桟橋の緑の灯火に腕を差し出すとき、まさに夢を掴むことのできる時がやって来たと考えている。
即物的な裕福な暮らしを選んだデイジーと、憐れなギャツビー。
ギャツビーの富は、豪奢で物質的な暮らしを送るためではなくデイジーと再び生きるためだが、悲劇はその純粋な思いが、彼の心の中だけで育まれ続けたことである。
デイジーは豪奢な生活をするためだけにトムと夫婦でいることを、ギャツビーは気づかない。さらに悲惨なことにデイジーの退廃した物質主義を見抜くことができず、夢が現実になることはなかった。
デイジーはギャツビーと再会し、その豪奢な暮らしぶりと今でもずっと自分を愛し続けてくれるギャツビーに心を燃やす。ギャツビーの変わらぬ愛と豪邸でのデイジーへのもてなしに心が揺れる。
ギャツビーのふるまいは、物質の象徴ではなく愛の象徴である。デイジーは涙するが、その涙はギャツビーの変わらぬ自分への思いに対する愛なのか、それとも富を成したギャツビーに対する愛なのか、あるいはその比重はどちらが重いのかは分からない。
ギャツビーにとっての富は、それが不正な獲得手段であれ、デイジーを得るために厭わず思慮はない。ギャツビーの才覚で実現した富は、あくまでデイジーの愛を得るための条件でしかなかった。ギャツビーは、二人には純愛が生き続けていると考えたかった。
たとえ資産家のトムと結婚していても、傲慢で不貞をはたらくトムをデイジーは愛してなどいなく、デイジーの心は自分に在ると確信できて束の間の幸福を感じることができた。しかし性急な望みはギャツビーの計画を敗北させ、不慮の出来事で自らの命と共に儚くも消え、最期には悲愴な結末を迎える。
二人の男に揺れるデイジー、読者の現実とギャツビーの幻想。
トムとギャツビーの二人の男を揺れるデイジー。既にイースト・エッグで裕福な暮らしを送るトムは、すでにアメリカン・ドリームを実現した成功者の系譜である。妻のデイジーは物質的な豊かさは担保されても、精神的な豊かさは無く、心は満たされない。
ニックが挨拶に訪問したその日の昼時に、愛人のマートルから電話がかかって来て口喧嘩にはなっても別れることはない。トムはデイジーの産褥に平然とマートルと不倫をする。誰もが知る浮気でありニックすらも彼女の借りたニューヨークのアパートに連れていかれる。これはデイジーにとって裏切りであり侮辱である。
デイジーは生まれた子供が女の子だと知ったとき、顔を背けて泣いていった。
「女の子で嬉しいわ。馬鹿な女の子に育ってくれるといいんだけれど。それが何より。きれいで、頭の弱い娘になることが」(第一章)
囲っている浮気相手のマートルへのトムの態度は、犬を飼うかのようなレベルだ。愛人のマートルは上昇志向でより良い暮らしに憧れ、デイジーと自分を同じレベルと考え競うが、トムに殴られ鼻血まで出す惨めな女である。トムにとってそれはデイジーのプライドを庇う行為ではなく、自分への無礼に対する暴力での戒めである。
マートルは夫のジョージとの結婚は間違いで失敗だと考えている。トムは貧しい階級のただの浮気相手が自分に何か物申すことが許せない。そしてマートルは覇気のないジョージに侮辱に満ちた態度で接する、トムとマートルの二人は腐臭を放つような不倫の関係だ。
デイジーがニックの家でギャツビーと再会し、それからギャッツ―の屋敷に招かれる。
庭園や屋敷の調度品を見る。そして雨の中、窓際から海峡の海面を眺める。そしてデイジーは自慢の囁くような声で言う。
「あのピンク色の雲をひとつとって、そこにあなたを封じ込めて、あっちにやったりこっちにやったりできるといいのに」(第五章)
自分の意のままの関係でいたい、浮気するトムへの意趣返しにもとれる。トムの妻であるデイジーの立場からは、この言葉は我儘な自己中心的な思いであり、トムと同様に金持ちの退廃そのものだ。
ギャツビーは軍を除隊して手違いでデイジーと離れてしまいトムとの裕福な結婚を知って、デイジーと再び繋がることだけを信じて5年の歳月をかけて富と名声を掴みデイジーを迎えに来た。そしてデイジーの心も確かめることができた。
「愛したことは一度もない」(第七章)
と皆を招いた昼食会で、デイジーはトムに向かって言い放つが、その声にはためらいがある。すかさずトムはデイジーとの幸せな結婚生活の思い出を語る。するとデイジーは逆にギャツビーに言う。
「これでいいのね、ジェイ」(第七章)
デイジーはギャツビーに心を動かすが、結局、トムとの贅沢な生活を捨て去れない。自分の安全な領域を守っている。そして混乱の中で、
「ああ、あなたはあまりに多くを求めすぎる!」(第七章)
とデイジーはギャツビーに向かって叫び、
「私はこの今あなたのことを愛している。それだけでは足りないの?過去にあったことは変えられないのよ」(中略)「彼を愛したこともかつてあったーでもそのときだってあなたのことも愛していた」(第七章)
と、デイジーはギャツビーもトムも二人共に愛したというが、トムはそれすらも眉唾だと言ってギャツビーを痛めつける。トムは子供のように無責任で我儘なだけのデイジーの性格を見通している。
トムのタフで悪意に満ちたギャツビーへの反撃が始まる。トムはギャツビーをペテン師で、酒の密造販売のインチキ商売だと陥れ、デイジーを怯えさせる。学歴を詐称し非合法なビジネスに手を染めた金であり、成り上がりのギャツビーと本統の資産家の自分とでは階級が違うとして中傷のかぎりを尽くして嘲笑し、ギャツビーを敗北させることに成功する。
この巧妙なトムの策略に、デイジーは結果的には共犯している。
そしてトムは全てを心得た鷹揚な顔でデイジーとギャツビーの二人を、ギャツビーの車で家に帰す。デイジーは感情の高ぶるなかで起こしたマートルの轢死で、デイジーを守ろうとするギャツビーの言葉ではなく、デイジーを守ろうとするトムの策略を選ぶ。
そして運転をしていたのはギャツビーだとトムはジョージに告げ、ジョージがマートルの浮気相手はギャツビーだと確信する。
デイジーは自分の魅力の価値を充分に知っていて、デイジーはこの不慮の事故に在ってもギャツビーからもトムからも自分が守られることを知っている。そして最終的にはギャツビーを見捨て、死んだギャツビーに対して哀悼の気持ちを示すことなく、トムと生きることを決め旅行に出かけ葬儀にも顔を出さなかった。
この瞬間、ギャツビーは可哀想な憐れで惨めな男になりさがる。
デイジーはトムと結婚をする直前まで、ギャツビーの手紙を受けて泥酔し泣きじゃくり婚約を取りやめようとした。しかしその翌日には、トムのことしか目に入らないようになっていた。デイジーは自分を演じることのできるエゴイストなのだ。
それが読者は、読み進むうちにわかってくる。デイジーは愛よりも富を求めている。
その後のデイジーは、純愛よりも現実の物質的で贅沢な暮らしが優先する。トムに対して愛情はないと明言した勇気は、ギャツビーに言われたからであり浮気への意趣返しでもある。損得の判断ですぐに風向きを察知して変わり、自分の価値を上げる術を心得ている。
ギャツビーはデイジーが堕落しきっていることを理解できない、あるいは理解したくないのだろう。
ギャツビーにとってデイジーは、5年前の状態で時間が止まった存在であった。
同時にギャツビーにとってもトムの悪意に攻め立てられ反社会的な方法で築いた富と名声は、確かに夢を掴むためにはその方法しかなかったとはいえ、トムとの闘いにおいて劣勢となる。最初からギャツビーにとってはデイジーの答えだけが、唯一の勝者となる条件だったのだ。
そしてその言葉を得ることができず敗北してしまう。その意味では最も退廃していのはデイジーかも知れない、そしてそこに人生のすべてを賭けた憐れなギャツビーがいる。
ギャッツビーに『グレート』の冠をつけたニックの思い。
それでもギャツビーはデイジーの罪を自分で背負う。最後にデイジーを家に送り電話を待ち続けたギャツビーは、その電話がもう来ないことを知っていたはずだ。もしかしたら、勝ち/負けの「負け」の方に賽の目が出る可能性を知りながら人生を賭けていたかもしれない。
ギャツビーは最後の最後に、彼が人としてまっすぐであったことを僕に示してくれた。(第一章)
ニックは、自分は正直で常識的なモラリストと考えている。そのニックが、ギャツビーの果たされることなく終わった哀しみや、人の短命な至福に対して心を閉ざす。
それはギャツビーを食い物にした連中であり、彼の夢の航跡を汚すように浮かぶ醜い塵芥のせいだと考える。物語の中で、ニックは所々にアイロニカルに金と贅沢に自身の精神を失う人々を嘲笑する。そしてギャツビーにすらも、時に大げさな芝居やその背景にある成功物語に対して愚かしさを滲ませる。
しかしこの最後のギャツビーのデイジーを護る純愛に対して冠をつける。
それでもそこに向かっていくギャツビーこそが『グレート』だとするのである。
ニックはギャツビーのなかに今まで他の誰にも見出すことのなかった、尋常でない希望を抱かせ、強い夢想へと駆り立てるものを感じる。
ギャツビーが緑の灯火を信じていたことを、陶酔に満ちた未来を信じていたことを、あのとき手からすり抜けていったものを、ニックは信じている。
そして最後に言う、
SO WE BEAT ON.BOATS AGAINST THE CURRENT. BORNE BACK CEASELESSLY IN TO THE PAST.
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。(第九章)
この有名な一節は、いかなる逆境にあっても夢に挑む勇気を与え続けてくれる。メリーゴーランド州ロックヴィルにあるフランシス・スコット・キー・フィッツジェラルドと彼の妻、ゼルダ・セイヤ―の墓に刻まれている。