肉体と精神だけの自分を身心的な自己、そこに名前が付与された自分を記号的な自己と捉えてみる。
二つが一致してアイデンティを形成するが、都市のなかでは記号的自己が優位になってくる。
身心と名前の関係を失うと社会での存在権を失くす。すると身心的自己は本能として壁をつくる。
それは自分を守ると同時に社会から疎外される。近代から逃れようとすれば、近代から孤立し閉じ込められる。自然と人工の狭間で空っぽになった心はどこに向かうのか。
解説
名前を失うと、人はどうなるか?
目が覚めて何かが変なことに気づく。<胸がからっぽ>な感じだった。空腹のせいかと思い、いつもの食堂で腹いっぱい食べて、いつものようにサインでつけ払いしようとすると、
自分の名前が思い出せない。
身分証明書を確認すると不思議なことに名前の部分だけが消えている。手帳に挟んだパパからの手紙も宛名部分が消えていて、他にも探したが、名前はどこにもなかった。
食堂の少女は顔見知りなので、ぼくの名前を聞いてみたが、困って笑うだけで思い出してくれない。そりゃそうですよね・・・。この時少女はきっと、「何この人、変!」って思ったことでしょう。
仕方なく現金で払い、部屋に戻っても名前は見つからない。とにかく会社に行こうとします。すると鞄がありません。盗まれたのだと考えました。
そして盗人が名前も一緒に盗んだんだ、と考えました。
いつものラッシュアワーの街は狂暴で未知のものに見えました。名前を持たないことが頼りなく、気がひけ、肩身がせまく、空虚感が広がった感じです。
個人のアイデンティは、社会においては名前と紐づいています。
個人は、名前で同一化されているのです。
そう考えると、名前は重要だが、どこか脆い気もします。
S・カルマ と言う名前
事務所に着き、受付の名札を見る。えーっと三段目の左から二枚目がぼくの名札だ。
昔は出社の有無を確認するために、名札を表/裏にする慣習がありました。出社していれば自分の場所に自分の名札がオモテにされます。えーっ、出勤してる? 所定の場所に「S・カルマ」とあります。
ここで“名前”が現れます。カルマは“業”と訳されます。
“業”は、仏教では「行為」とその「結果」を意味します。過去・現在・未来の三世(さんぜ)の因果応報です。安倍公房の『壁‐S・カルマ氏の犯罪』は不条理や諧謔がいっぱい。そこを楽しみながら、感想として「S・カルマ」の「犯罪」とは一体、何のことなのかを考えてみます。
S、たとえば Sin、original sin 原罪を背負う人間のことか、そして
カルマ、人間の業、その行為と結果は何を意味するのでしょう。
話を物語に戻します・・・。
ぼくは、この“S・カルマ”が自分の名前なのかどうかさえよくわからず、やがて、ばくがぼくであるのが何かの間違いかと思います、
そうなんです、ぼくは名前に逃げられたことで、実存の不安にぶちあたってしまいます。
そして自分のデスクを見る。
ぼくの心は体より十メートル先を歩いていたので、もうその椅子に腰を下ろしてほっとしていたのですが、ぼくの体の方は丁度ドアのところで急にわけの分らぬ変な気分に襲われ立ち止まってしまいました。 驚いたことに、ぼくの椅子にもうちゃんと別なぼくが掛けていたのです。
対外離脱、ドッペルゲンガーでしょうか。
もう一人のぼくは、ぼくが好意をもっているタイピストのY子と話し膝を触っている。ぼくは恥ずかしさで真っ赤になりました。例の鞄は机のわきにおいてありました。
「なにをしてるんです!」小使いに見咎められ、「カルマさんに・・・」というと、もう一人のぼくが気づいて振り返り、ぼくの視線と合いました。
その瞬間、ぼくはもう一人のぼくの正態を見破ってしまったのです。 それはぼくの名刺でした。
右眼と左眼を急速に見開きすると、右眼でみると鏡にうつしたぼく自身ですが、左眼でみるとまぎれもない1枚にすぎないのでした。
もう一人のぼくは、名刺?・・・何ということでしょう。
人間ではなく、名刺がそこにいます。
鏡像の関係でいうと、人間と名刺が対称になっています。主客が逆転している、あべこべ、さかさまの世界になっているのです。それも名刺になっているんです・・・・どういうことって感じですよね。
N火災保険・資料課 S・カルマ
「話があるなら外に出よう」
名刺はぼくに向かって、荒々しく言います。
「一体君はここに何しにやってきたんだ。最初からここはぼくの領分だ。君なんかのでしゃばる場所じゃない。(中略)ぼくは君のような人間と関係している ということが恥ずかしくてならないんだ」
仕事場は、名刺の領域だと言うのです。端的に言えば会社という組織でより機能しているのは、名前のほうで人間は不要ということなのでしょう。そして人間との関係が恥ずかしいと言います。確かに、仕事中にY子の膝をなでたりしてますしね・・・。
ぼくは思わず名刺を引き裂こうとしましたが、両眼で見ると純粋な名刺に変わり、ぼくをかわし、ドアの隙間から物置のなかへ滑りこみます。
ここで人間のぼくは、職場における存在権を名刺に奪われてしまったのです。<胸の空虚感>はさらに深まります。
終業すれば、名刺も家に帰ってくるだろう。帰ってきたら厳重に抗議しようと考え、胸をぽんと打ってみた。
するとポンポンと鳴る。空虚感ではなく、まさに胸の中が空っぽになっていたのです。
ひどく心細くなり、名刺がかえってきても、部屋から追いだされるのは、ぼくのほうではないかと考えたりします。
病院に行こうと思います。途中、プラタナスの並木でカンバスを前にじっとすわっている画家と、しらみをとっている浮浪者がいました。
病院の受付で、名前を確認されます。「名前なんか、どうするんです?」と聞くと、「カルテの作成に必要なんですよ」と言われ、名前を思い出せず、出まかせに、「カルテ」「アルテ」「アルマ」・・・「アクマ」といってしまいます。
とがっていた唇はひっこみ、大きな目玉があらわれました。ぼくは金魚の目玉とあだ名をつけます。
待合室のテーブルの上にスペインの絵入り雑誌があり、“砂丘の間をぼうぼうと地平線までつづく曠野の風景”が頁いっぱいに広がっています。
ぼくはその風景に魅せられ、悩ましい戦慄が背筋をつらぬきます。
いつかぼくはその曠野に立っています、巨大な雲がこちらに向かっています。ぼくは一滴の涙を落としているのでした。
あわてて目をこすって、もういちど目を移すと、どうしたのでしょう。あの曠野風景は跡形もなく消え、紙は真っ白になっているのです。
「十五番さん、どうぞ」影のような真黒のドクトルが言いました。
「胸の中が、空っぽな感じ」とぼくは説明します。医者は眼をのぞき込み、そしてレントゲンを撮り「これは奇妙だ。景色が見える。なんて広大な砂漠だ!」と言うと、あの金魚の目玉が、それは待合室の写真雑誌の景色です、と言う。
ぼくは「つい見とれているうちに、消えてしまっていました」。ぼくが、吸い取っちゃったんです、と観念して答えた。
非科学的な事実を恐れて、医者と金魚の目玉は、ぼくを病院から追い出します。ぼくの胸の空虚感はひとしお深く、悲しさであたりの景色が青ざめた。
動物園
ぼくは動物園に行く。名前をもたない獣たちを見ることでなぐさめられると思った。
ライオンは視線が合うと静かにぼくの方に近づいて来る。縞馬、キリンも・・・。そういえば皆、草原と曠野の獣たちが関心を示しているようでした。そして最後の檻でラクダがグロテスクに唇を開いて笑いました。
その眼は青く美しく宝石のようでした。ぼくは喜びと気恥ずかしさを感じました。箒を小脇に抱え制服姿の老人が通り過ぎました。ぼくは胸の陰圧で、ラクダを吸収したいと思っているのを知りました。
ぼくは空虚感からか、欲するものを、見つめると吸引してしまうのです。
「ここにいた!」
大声がして二人のグリーンの服の屈強な大男が、ぼくの腕をおさえます。その後ろに金魚の目玉がいて、ぼくは「現行犯」で捕ったのでした。
旅への誘い!
一枚の広告ビラが足元に落ちました。ビラには、旅への誘い、世界の果てに関する講演と映画の夕べと書いてありました。
ぼくは連れられて、岩山の洞窟を進み、長い梯子を下りていきます。そこは会議室でした。
ぼくは立たされ、両側に二人の大男が座る、彼らは私設警察だと言う。ドアが開くと、法学者、哲学者、数学者、つづいて、見覚えのある顔ぶれが入ってきます。
行きつけの食堂の少女、タイピストのY子、真黒なドクトル、プラタナスの下の画家や浮浪児などです。
ぼくを被告とした裁判が始まるようです。有罪か無罪かを問うもののようです。彼らは審判側や証人です。
「有罪と認めます」と第一の証人で進行役兼記録係の金魚の目玉が答えます。
ぼくのふたつの犯罪、第一は病院の待合室で雑誌の口絵を盗んだこと、第二はラクダを盗もうとしたこと。
「その手口は?」と問われ、金魚の目玉が「陰圧による吸収です」と言い「被告は何か対象物をじっと見つめていると自然にそれを眼から吸収してしまう性質を思っているのです」と答えます。
金魚の目玉も二人の私設警察も園長も「有罪です」と証言した。
しかし五人目の証人、Y子は「無罪」を主張する。
その根拠を問われると、「説明するまでもなくあの方がカルマさんですもの」という。
「なぜカルマさんだったら無罪なのか」と法学者が言い、辞書をひくようにと言う。「ありました。カルマというのはサンスクリットで罪業という意味です」と哲学者が答える。
「やはり有罪だ!」
「名前は固有名詞なので、辞書の話など関係ありません」とY子は言い、説明する。
自分はN火災の資料課につとめているタイピストと素性を明かし、カルマさんは同僚で、朝からずっと一緒だったとアリバイを語る。
だから泥棒はできるはずがない。「有罪」ではないというのだ。
金魚の目玉は「とんでもない!被告は現行犯で捕らわれたんですよ」と激しく言って、第一にY子が被告と共犯である可能性、第二に被告の名前がカルマではなく、他人の空似だといい、そういえば受付で、名前を確認すると「カルテ」「アルテ」「アルマ」・・・「アクマ」といっていたという。
「しかしそれが「カルマ」でないという証拠にはならん」と法学者が言った。
第八の証人を求めるとあの食堂の少女が声を上げた。少女は被告が朝、パンを食べたときのことを説明し、「きっと名前をどこかに落としたのだろうと思います」と話した。どっと割れるような笑いが場内をゆすった。
しかしこれは、
「第一の証人は被告を現行犯で捕らえたといい、第五の証人は被告がカルマであるからアリバイが成立するといい、第八の証人は被告が名前を落としたのだと主張する。むしろ論理的であるとさえ言えるほどだ。弁証法的に言えば、第一の証言と第五の証言の矛盾を、第八の証言が止揚したことになる。」
と法学者がいった。ばかばかしいけれど面白い展開ですよね。
ここで法学者と哲学者と数学者の持論が披露され、まじめなような、パロディのような、そんな対話や議論が繰り広げられる。
哲学者は、
「認識論的に言えば、この問題はきっと主観の問題にすぎない」
と言い、数学者は、
「数学だ、数学だ。公理の設定によって問題を現実に引き戻せ!」
と言う。
法学者のひとりは、
「被告は名前を紛失して持たないから、名前のないものに法を適用するわけにはいかぬ。結局、結論として、われわれは被告を裁くことは出来ないものと思われる。」
と言い、もうひとりの法学者が、
「法はたしかに被告を裁くことは出来ないが、同時に被告は法に対して自己の権利を主張することもできぬ、法と権利は名前に対してのみ関係する。よって現状維持のほかなく、裁判は続行される。被告が名前を見つけだし、 判決可能になるまで、永遠にでも裁判はつづけられなければならない」
と言った。
ぼくは永遠に被告で、永遠に裁判が続く身となったのだ。
「もう我慢ならない!」
とY子が鋭く叫び、「帰ってしまいましょう」とぼくを諭す。
Y子を愛しはじめていたぼくは「目隠しされているので、うまくいかない」と言うと、「そんなもの取ってしまえばいいじゃないの」とY子が言う。
突然、場内が恐ろしい叫び声で包まれ、みんな出ていった。目隠しがとれると吸引されるかもしれませんからね・・・。
「行きましょうよ」とY子が言い、ぼくらは腕を組み、足をそろえてドアの方へ歩いていった。 「君は勇気があって、立派で、きれいだ」と言うと、Y子は笑いました。
ここは人間のY子に対する、人間のぼくの愛の告白ですね!
ぼくの胸の空虚感が何かを激しく求めてはじめて、慌ててY子から目をそらしました。
だって見つめていたら、Y子を吸収してしまいますから。つらいところですね。
そして「じゃまた明日、十時にね」と日曜日の動物園を約束して別れました。