どこまでも山々が連なる信州の寒村。もうすぐ七十を迎える老婆おりんには、楢山まいりが待ち遠しい。食糧が限られた村の掟では、冬を越すために老いた者は山に行く。親思いの孝行息子の辰平と、自死により尊厳を守るおりんを楢山の神が見守る、家族の命を継ぐ物語。
登場人物
おりん
六十九歳で五十年前に向こう村から来た。当時は村一番の器量良しと云われた。亭主は二十年前に死に一人息子と四人の孫がいる。来年の正月には、楢山まいりに行こうと決めている。
辰平
四十五歳。おりんの一人息子で親孝行。妻は去年、栗拾いに行った際に谷底へ転落し死んだ。子供は三男一女で、おりんは辰平に後妻をと考えている。
玉やん
四十五歳。三日前に亭主の葬式が済んで後家となるが、四十九日も迎えず、すぐに辰平の後妻となる。兄からおりんはいい人だから早く嫁に行くように勧められ、おりんとも仲良くなる。
けさ吉
辰平の総領で十六歳。近所の娘、松やんと仲良くなり身籠り、家に迎い入れる。家族の人数が増えたので、おりんが早く楢山まいりに行くのを薦める。
松やん
けさ吉の児を身籠り家に住みつく。大飯ぐらいで家から追い出された様子で、底意地が悪い女で子守をしても子供をつねってしまう。
銭屋
おりんの隣家。越後に行った時に天保銭を一枚、持ち帰り渾名される。七十歳になる又やんという老父がいておりんとは話し相手。村一番のケチで「楢山まいり」に行く振舞支度も、山に行く支度もしない。又やんは山へ行く気がない。
雨屋
銭屋と焼松の隣家。焼松の家に泥棒に入り食料を盗む。皆から袋叩きにあい泥坊の血統として一家を根絶やすため、村人は総出となり雨屋に暮らす十二名全員が村から消滅させられ他言無用となる。
短気の照やん
落ち着いた五十年輩だが、何代か前に短気の人がいて屋号になっている。楢山まいりのお供を経験した最年長の古参。おりんの「楢山まいり」の振舞支度の儀式で、山に行く作法を教示する。
あらすじ
楢山まいりを進んで待つ、おりんという六十九歳の老婆。
『楢山節考』は姥捨ての伝説にもとづいた作品で、架空の貧しい部落に伝わる因習である。信州の山々の村に伝わる「楢山節」。その伝承された楢山節を現代に翻訳して、楢山の神と繋がる村の暮らしを考証する展開になっている。
村には七十になると楢山まいりに行く習わしがある。食料不足が厳しい寒村ではそうすることで冬を越すことができる。
おりんの家は村のはずれにあった。家の前に大きな欅の切り株があり、切り口が板のようで人々は腰かけて重宝がった。だから村の人はおりんの家のことを「根っこ」と呼んでいた。
おりんは向こうの村から五十年前にこの村に来て今年は六十九になる。亭主は二十年前に死んで、一人息子の辰平と四人の孫がいた。嫁は去年、栗拾い行った時に谷に転げ落ちて死んだ。おりんは辰平の後家を探すことに頭が痛かった。
その日、おりんは待っていた二つの声を聞く。
楢山祭りが三度来りゃよ 栗の種から花が咲く~♫
盆踊りの歌で三つ年をとるという意味で、村では七十で楢山まいりに行くので、年寄りにその年が近づくのを知らせる歌だった。孝行息子の辰平はその歌声に目をギロッと光らせる。「倅はやさしい奴だ!」と、おりんは胸がこみあげてきた。
もう一つの声は、飛脚が来て向こうの村に後家が一人出来たことを知らせに来てくれた。
後家の名は玉やんといい辰平とおなじ四十五歳で、三日前に亭主の葬式が済み、辰平の後妻になるのが決まったようなものだった。
どこの家でも結婚問題は簡単に片付く、当人がその家に移るだけである。泊まりっきりになってその家の人になってしまうのであった。
盆も正月もあるが、御馳走をこしらえるのは楢山祭りの時だけで何事も簡単にすんでしまう。
おりんは、来年は七十で楢山まいりに行く年なので、辰平に後妻が出来た事を喜んだ。
孫は跡取りのけさ吉が十六で男三人、末が女でまだ三つである。
楢山には神が住んでいる。楢山へ行った人は皆、神を見て疑う者などなかった。
現実に神が存在するから他の行事よりも特別に力を入れた。盆が陰暦七月十三日から十六日まで、楢山祭りは盆の前夜、七月十二日の夜祭だった。盆と続いているので一緒になった。
山の産物のほか最も貴重な白米を炊いて食べ、どぶろくを作って夜中ご馳走を食べる祭りだった。白米は「白萩様」と呼ばれ楢山祭りか重病人でもなければ食べられなかった。
塩屋のおとりさん運が良い 山へ行く日にゃ雪が降る ~♫
楢山へ行く日に雪が降ればその人は運がよい人であると云い伝えられてきた。
楢山へ到着した時に雪が降りだすことが、理想的だったのである。
神の住む楢山には七つの谷と三つの池を越えていく、遠くにある山だった。雪の降る前に行って、到着した時に雪が降り出すのが良いとされた。
おりんは楢山まいりの気構えとして、振舞酒を準備し、山へ行って座る筵を三年前から作っており、気がかりだった辰平の後妻も決まった。
おりんは誰もいないところで、口を開いて上下の前歯を火打石でガッガッと叩いた。年をとっても歯が達者だった。年老いて丈夫な歯は食料の乏しいこの村では恥ずかしいことであった。だから歯を叩いてこわそうとした。
おりんは村に嫁に来て、村一番の良い器量の女と云われた。楢山まいりには辰平のしょう背板に乗り歯の抜けたきれいな年寄りで行きたい。歯だけは何とか欠けてくれなければ困ると思った。
食料不足で冬を越せず、老いた者は楢山まいりに行くのが因習。
おりんの隣りは銭屋という家だった。村では銭など使い道はないが、越後に行った時に天保銭を一枚持って帰ったので渾名がついた。銭屋の老父は又やんといって七十歳である。
村一番のけちんぼで、山へ行く日の振舞支度も惜しいらしく支度も全然しない。春の予定が夏になり、この冬にはこっそり行くのだろうと陰で云われていた。おりんは山へ行く気がない又やんを馬鹿な奴だ!と思っていた。
銭屋の隣は枯れた松の大木に雷が落ちて焼松と呼ばれた。その隣は雨屋という家で、この家の人が巽の方角に行くと雨が降るというのでそう呼ばれた。
その隣が有名な榧の木という家である。村はみんなで二十二軒ある。
かやの木ぎんやんひきずり女 せがれ孫からねずみっ子抱いた ~♫
おりんが嫁に来た頃にぎんやんという老婆がいた。ねずみっ子というのは孫の子、曾孫である。ひきづり女とは、だらしない女とか、淫乱な女という意味である。ぎんやんは子を産み、孫を育て、ひこを抱いたので、好色な子孫ばかりを産んだ女であると辱しめられた。
おりんが「あしたは向こう村からおっかぁが来るかもしれん」と云うと、辰平も「早く来れば、おばあもめしの支度がらくになるら」と云うと、十六のけさ吉が「俺が嫁を貰うから後釜なんいらんぞ」と云う。けさ吉は池の前の松やんを貰うつもりだ。
三十すぎてもおそくはねえぞ 一人ふえれば倍になる ~♫
晩婚を奨励する歌。倍になるということはそれだけ食料が不足するという事である。だからおりんも辰平もけさ吉の嫁など夢にも考えていなかった。
向こうの村から辰平の後妻の玉やんがやってきた。「こないだ来たのがわしの兄貴でねえ、おばあちゃんはいい人だと云うもんだから、わしも早く来てえと思ってねえ」と玉やんは云う。この嫁は正直だから、おせじじゃねえと思った。
「わしも正月になったらすぐに山へ行くからなあ」と、おりんは飛脚の兄やんにも言ったように、 玉やんに云った。 玉やんは「ゆっくり行くように」と兄やんも云っていたことを伝えた。
おりんは「とんでもねぇ、早く行くだけ山の神さんにほめられるさ」と云い、おりんは自分の唯一つの取り得である、いわなをとる秘伝を玉やんに教えた。
楢山まいりが待ち遠しく、恥ずかしくない準備をする。
裏口から出たおりんは、物置の中に入り、一世一代の勇気と力を出した。目をつむって石臼のかどに、がーんと歯をぶっつけた。歯が二本欠けて口の中から出てきた。
けさ吉が白萩様のどぶろくですっかり酔っぱらって、祭り場で鬼の歯の歌を唄っていた。
おりんは家に帰り玉やんに歯並びの悪いところをみせ「わしは山へ行く年だから、歯がだめだから」と云った。おりんは肩身が広くなったものだと祭り場へ歩いて行った。集まっていた大人も子供も、おりんの口を見て、わーっと逃げ出した。
やがて「根っこの鬼ばばあ」と陰で云われ、小さな子には本当の鬼婆だと思われた。楢山祭りが過ぎると木の葉が風に舞った。
又、女が一人ふえた。池の前の松やんが根っこに腰をかけて、昼めしのときに、おりん達の膳の前に坐り込みめしを食べた。食べることに無上の喜びを持ち極楽の顔をしている。けさ吉と並んで坐って黙々と食っていた。
おりんは松やんの腹のあたりを睨んで、五カ月以上だと見抜き正月か、早ければ今年中かも知れないと一人で気をもんでいた。松やんが子を生めば、おりんはねずみっこを見ることになる。
松やんは竈の火を焚くと煙だらけにして子守もできなかった。松やんはつんぼゆすり歌を唄いだし、背中の子はますます泣き叫んだ。松やんは情知らずの女だった。おりんも玉やんも呆れ返った。尻にはつねった跡が青痣のように四ヵ所もあった。
おりんには楢山まいりの行くという目標があった。その日のことばかり胸の中で画いていた。
わしが山へ行くときは祭りのときと同じくらい振る舞いが出来て、白萩様も、椎茸も、いわなの乾したのも腹一杯食べれるだけ用意してある。村人に出す白萩様のどぶろくも一斗近くもこしらえてある。おりんは楢山まいりのことばかりを考えていた。
食料を盗むことは極悪人で、村の掟に従って皆から制裁を受ける。
「楢山さんに謝るぞ!」そう叫びながら村の人達が方々で騒ぎ出した。盗人は雨屋の亭主だった。隣の焼松の家に忍びこみ豆を盗み出し、焼松の家中の者に袋叩きにされたのだった。
食料を盗むことは村では極悪人だった。最も重い制裁である「楢山さんに謝る」ということをされる。その家の食料を奪い取ってみんなで分け合ってしまう制裁である。
喧嘩支度で跣で行かねばならぬ。駆けつける方でも死に物狂いで、食料がどれだけ重要な事かを神経にきざみつけられているからである。
雨屋の亭主も家族も座らされ、それから「家探し」をする。芋の山が出て村中の家の芋を掘り出していた。雨屋は二代続いて楢山さんに謝った。先代は山のどこかへ食い物を隠しておいたと云われた。「雨屋は血統だから、泥棒の血だから、根だやしにしなけりゃ、夜もおちおち眠れんぞ」と小声で云い合う。雨屋の家族は十二人である。
「この冬はうちでも越せるかどうか?」雨屋のことは他人ごとではなく、辰平の家でも切実に迫っていることだった。
辰平の家族は八人だったが食い盛りの者が多いので困り方は雨屋と同じである。冬が心配だった。冬を越す悩みは毎年のことだが、今年は人数が多くなり子供たちが大きくなっている。松やんが特別ひどい、あの飯の食い方の様子じゃ、自分の家を追い出されてきたに違いないと気づいた。
山に行くかねずみっこを殺すか、食料がなくては冬を越せない。
寝ころんだ辰平が突然云った。「おばあやん、来年は山へ行くかあ」
おりんはそれを聞くとほっとした。辰平はやっとその気になってくれたのだと安心した。
おりんはすぐ云った。「向う村のわしのおばあちゃんも、このうちのお姑も山へ行ったのだじ、わしだって行かなきァ」
玉やんが石臼をひくのを止めて「いいよ、ねずみっ子が生まれたら、わしが裏山の谷へ捨ててくるから」そう云うとけさ吉が負けん気で「コバカー、俺が捨ちゃってくらァ、わきゃァねえ」と云うと、松やんが「ああ、ふんとに、たのんだぞ」と云う。
みんなが同時に松やんの大きい腹のあたりに目をやった。
辰平は顔をあお向きに寝ころんで額に雑巾を当てていた。おりんは辰平の顔を流し目で眺めた。急に辰平が可哀想に思えた。冬を越すことも苦しい事だし、楢山まいりの共もえらいことなのである。
ずっと気にしていてくれたのだ、そう思うと可哀想になってきた。辰平の目が光っているように見えたので「涙でも出しているんじゃァねえらか?そんな気の弱いことじゃァ困ったものだ」と思った。石臼の音が止まって玉やんが飛び出して、前の川へ行って顔を洗うふりをして泣いた。
雨屋の一家は村から居なくなった。「もう雨屋のことは云うでねえぞ」という村中の申し合わせがあって、誰も噂をしなくなった。
十二月になると激冬である。おりんは「おれが山へ行くときゃァきっと雪が降るぞ!」と力んで云った。松やんは臨月になっていた。
あと四日で正月になる日、おりんは明日、楢山まいりに行くことに決めたのである。今夜、山へ行った人たちを呼んで振舞酒を出すことにした。
おりんは、ねずみっ子の生まれんうちに行きたかった。
振舞酒を出しながら、おりんと辰平は楢山まいりの作法を聞く。
その夜、呼ばれた人達は集まった、振舞酒を出すのである。招待される人たちは山へ行ってきた人たちだけである。山へ行くのに必要な事を説明し誓わされるのであった。
集まった人は男が七人で女が一人。作法があって一人がひとつずつ教示する。一番先に山に行ったものが古参といって一番発言力が強い。一番先の先輩格は「短気の照やん」と云う人だった。
照やんは辰平に向かって「お山まいりはつろうござんすが御苦労さんでござんす」とはじまる。おりんと辰平は、此の席では物を云ってはならないことになっていた。
照やんは云い終わると白萩のどぶろくをがぶがぶと飲めるだけ飲んだ。そして次の人に廻すと、その人が飲めるだけ飲んで、終わりまで来ると照やんの前に持ってくる。
お山へ行く作法は、必ず守ってもらいやしょう
一つ、お山へ行ったらものを云わぬこと
一つ、家を出る時には誰にも見られないように出ること
一つ、山から帰る時は必ずうしろをふり向かぬこと
四人目は楢山に行く道順を教える。「裏山を廻って三つ目の山を登り、池がある。池を三度廻って石段から四つ目の山を登る。頂上に昇り、谷の向こうが楢山さま。谷を右に見て次の山を左に見て進み、二里半に七曲がりの道があり、そこが七谷。七谷を越せばそこから先は楢山さまの道。上へ上へと昇れば神様が待っている」
皆が帰った後、照やんは辰平に云う「嫌ならお山まで行かんでも、七谷の所から帰ってもいいのだぞ」これは誰にも聞かれぬように教えることになっていた。
夜も更けて丑三つ刻、わあわあと外で男の泣く声がする。その泣き声を消すように、つんぼゆすりの歌も聞こえる。
六根六根六根ナ お供ァらくのようでらくじゃない ア六根清浄、六根清浄 ~♫
銭屋の又やんの泣声だと気がつく。おりんは「馬鹿な奴だ!」と今更らに思った。
おりんの家の戸をがりがりと爪でかじる音がする。又やんが蹲っていた。そこに又やんの倅が荒縄を持って睨みつける。又やんは楢山まいりで、縄を食い切って逃げ出してきたのだった。
つんぼゆすりでゆすられて 縄も切れるし縁も切れる ~♫
おりんは又やんに「つんぼゆすりをされるようじゃァ申しわけねえぞ、山の神さんにも、息子にも、生きているうちに縁が切れちゃァ困るらに」
おりんは自分の正しいと思うことを、親切な気持ちで教えてやった。
六根清浄のおりんを見守るように、楢山に雪が降った。
次の夜、おりんは楢山まいりの途についた。家の者が寝静まるのを窺って裏の縁側の戸をはずした。そこで辰平のしょっている背板に乗った。空は曇り月あかりもなく真暗の道を歩いて行った。おりんと辰平が出た後で玉やんは外に出て、根っこに手をかけて暗闇の中を見送った。
辰平は裏山の裾を廻って柊の木の下に来た。ここから先は楢山まいりでなければ行ってはならないと云い伝えられている道だった。山裾をまわり池をまわるころ明るくなった。石段が三段あって急な坂を登ると四つ目の山である、山頂に近づく程、険しくなってきた。
頂上について向こうに楢山が見えた。間は谷に隔てられている。尾根づたいに道を進むのだが、右は絶壁で、左は山の坂である。
楢山が見えた時から神の召使のように命令で歩いているのだと思った。七谷の所まで来た、ここを通り越すと道はあれども道はないと云われたので上へ上へ登って行った。そして到頭、頂上に来た。
岩のかげに死人があった。両手を握り、合掌しているようである。おりんは背の方から手を出して前へ振った。進めという手ぶりである。
また岩があり、かげに白骨があった。バラバラになっていた。岩があると必ず死骸があった。木の根元にも死骸があった、まだ新しい死人である。死人が動いたとぎょっとすると、からすが舞い上がった。腹のなかをからすが食べて巣をつくっていたのだ
からすが多くなり死骸も多く転がっていた。白骨が雪のふったようにあたりが白くなるほど転がりつまずき転びそうになった。進んでいくと死骸のない岩かげがあった。おりんはそこで降ろせという。
おりんは背板から降りて筵を岩かげに敷いた。包みの中から白萩様のむすびを一つとり出して筵の上に置いた。それから包みを背板に結びつけようとする。辰平は奪い取るように包みを筵の上に置いた。
おりんは筵の上に立ち、両手を握り胸にあて、両手の肘を左右に開き、下を見つめ口を結んで不動の形になる。帯の代わりに縄をしめていた。その顔には死人の相が現れていた。
おりんは辰平の手を握り、そして辰平の身体を今来た方に向かせた。おりんは辰平の手を固く握りしめて辰平の背をどーんと押した。
辰平は後ろを振り向いてはならない山の誓いに従って歩きだした。
大粒の涙を流しよろよろ下って行った。辰平は細い首に縄が巻きつけてある死人の顔を見て「俺にはそんな勇気はない」と呟いた。楢山の中程まで降りて来た時に、白いものが映った、雪が舞っていた。
雪を見つめた、乱れて濃くなって降って来た。「わしが山へ行く時ァきっと雪が降るぞ」
その通りになったのである。辰平は猛然と足を返して山を登りだした。山の掟も誓いも吹き飛んだ。雪が降ってきたことをおりんに知らせようとした。
本当に雪が降ったなぁ!とせめて一言だけ云いたかったのである。
岩のところまで行った時には雪は地面をすっかり白くかくしていた。頭に筵を負うように雪を防いでいるが、前髪にも、胸にも、膝にも雪が積もり白狐のように一点を見つめながら念仏を称えていた。
辰平が「おっかあ、雪が降ってきたよう」と大きな声で云うと、おりんは静かに手を出して辰平の方に帰れ帰れというように手を振った。
雪が降って来たから、からすは一ぴきもいなくなっているのに気づいた。寒い風よりも雪の中に閉ざされている方が寒くないかも知れない、そしておっかあはこのまま眠ってしまうだろうと思った。
「おっかあ、雪が降って運がいいなぁ」
叫び終わると脱兎のように駆けて山を降った。七谷の上のところで銭屋の倅が雪の中で背板を肩から降ろそうとしていた。背板には又やんが乗っていた。
昨夜照やんが「嫌なら七谷の所から帰ってもいいのだぞ」と云ったのを思い出した。
又やんは雁字搦みに縛られてごろっと地獄の谷に転がされた。谷底からは竜巻のようにむくむくと黒煙りが上がるように、からすの大群が舞い上がってきた。からすの餌食か!
「あんなことをするのだから振舞酒も出さないわけだ」と思い、背を丸めて逃げていく倅を眺めた。
おりんの楢山まいりを家族は知り、蟹の歌を唄っていた。
雪が牡丹のように大きくなり、辰平が村に着いたときは日が暮れて暗くなっていた。
辰平は末の子がおりんがいなくなったので淋しがっているかもしれない、いつ帰って来る?と聞かれたらどう答えようと困りながら家の中をみた。家の中では次男が末の子に歌を唄って遊ばせていた。
お姥捨てるか裏山へ 裏じゃ蟹でも這ってくる ~♫
這ってきたとて戸で入れぬ 蟹は夜泣くとりじゃない ~♫
村では昔は年寄りを裏山に捨てたものだった。或る時、棄てた老婆が這って帰ってきた。蟹のようだと騒いで戸を締めて中に入れなかった。老婆は外で泣き、子供たちは「蟹が泣いている」と云った。家の者が「あれは鳥が啼いているのだ」とごまかしたという。
辰平は蟹の歌を聴いて、おりんが帰ってこないことを承知しているのだと思って気がらくになった。
松やんの大きなお腹にしめた帯は昨日までおりんがしめていた縞の細帯で、昨夜おりんが丁寧に畳んでおいた綿入れは、けさ吉がどてらのように背中にかけてあぐらをかいて座っていた。
昨夜の甕の残り酒を飲んで酔っているらしく、うっとりした目で首をかしげながら、
「運がいいや、雪が降って、おいばあやんはまあ、運がいいや、ふんとに雪が降ったなあ」
と悦に入っているように感心していた。玉やんの姿は見えなかった。辰平はふっと大きな息をした。あの岩かげでおりんはまだ生きていたら、雪をかぶって綿入れの歌をきっと考えていると思った。
なんぼ寒いとって綿入れを 山へ行くにゃ着せられぬ ~♫