『悪霊』は、革命組織の内ゲバ殺人事件を題材にしています。しかし、ドストエフスキーは、このモチーフだけでは小説としてつまらないと考え、方向を転換して、自身の魂の中からスタヴローギンを生み出します。
スタヴローギンとは、何者なのか?この男は、美しく、知的で、腕力もある、完全な有機体。しかし、それは人間の感情を持たない悪魔です。物語のなかで、暴力革命の象徴として偶像化され、愛を弄ぶ貴族として描かれる。この悪魔は、人間の精神から生まれています。
スタヴローギンの人格はドストフスキーその人なのか、あるいは我々の中の潜在化する性質なのか。男は自分が悪魔だと知り、その告白を試みる。しかし、何者も自分を救えないことを知り、存在の責任を負い、自ら首を吊ってけじめをつける。その傲慢さにおいて、神の救いすら必要としていない。もし、このような人間が、この社会に多く出現すれば、世界はやがて終末を迎えるだろう。このブログでは、最も衝撃を受けた「スタヴローギンの告白」を中心に、お話しします。
★以下の動画もぜひご覧ください↓
ドストフスキーほど、人間の精神の深淵に在るものを極めようとする作家はいないのではないでしょうか。そこでは神と人間について語られ、“神を殺してしまった人間たち”が、どこに向かうのかが示されます。
今から150年も前の作品が、色あせないどころか、さらに我々を絶望に導いている。ここには、善も悪も超越した世界があります。「熱くもなれない、冷たくもなれない」そんな人間こそが、最も怖ろしいという指摘、それは感情をもたない状態かもしれません。
物語のなか、異常で、掴みどころがなく、薄気味悪い存在が、ニコライ・スタヴローギンです。
この男のように、悪霊に取り憑かれ、悪魔と化した人間はいるでしょうか?
神がいなければ、悔い改める対象がなく、告白はできても、懺悔はできません。その意味では、神を無視して、自らを正当化して、傲慢に生きる人はもしかしたら、この世界には、たくさんいるかもしれません。
古代や中世の話ではなく、21世紀の現代において、少女買春、幼児虐待、人身売買などの問題が常態化しています。それもエスタブリッシュメントたちが・・・。
エリートほど『悪霊』に憑依されているかもしれません。
生まれた赤ん坊は、自我をもたず、後天的に人格は形成されます。人間だけがもつ、心、身体、魂。親の愛や、育まれる道徳、コミュニティの規範、宗教や習俗もあると思います。
出自なのか、環境なのか、思想なのか・・・、自我の形成の中心となる部分が欠落したらどうなるのか。
スタヴローギンは、裕福な女地主の一人息子、たぐいまれな美しい容貌を持つ青年で、学校卒業後は社交界に出入りを始める。将来を嘱望される独身者として、若い女性たちの注目の的になる。ところが突然、この華やかな進路に背を向けて、都会のどん底の荒廃した社会に身を投入し始める。男のなかに何があったのだろうか。そこは謎に包まれています。
スタヴローギンは、ロシアという国(大地や歴史)も正教(宗教)も否定しています。
自分は何者かという時間軸でのアイデンティティも、宗教的な善悪も超えた状態。生きることに飽きてしまっており、すべてに関心がない。
スタヴローギンのなかに、基準や尺度は無く、よって何も大切に思わず、何も信じていない。あるのは自己肯定感や快感だけです。
ドストフスキーは、そんな、無感情、無感動、無表情の男をつくりだし、物語の中心に据えます。
悪の感染力は、スタヴローギンに魅入られた人々、すべてに影響を及ぼし、ウィルスのように他者へ伝染し、ついには破滅に導いていきます。
ひとつは、革命にたいして。
この『悪霊』という作品は、現実に起こったセルゲイ・ネチャーエフによる革命運動の内ゲバ殺人事件(1869年)をテーマに戯画化したものとして知られています。
スタヴローギンは、自身が到達した思想哲学を二人に伝授します。
ひとりは、シャートフに受け継がれたもので、宗教的な性質を帯びたメシアニズム。神を体現する大切さをロシアの民衆たちに啓蒙する考え方。これはスラブ主義であり、ドストエフスキーの土壌主義に繋がっていきます。
もうひとりが、キリーロフに受け継がれたもので、反宗教的で、人間が絶対の自由を獲得する唯一の方法は、自殺だとする考え方。死の恐怖を克服したものが神になるという。これは最終的には、無神論に繋がっていきます。
このふたつは、神の存在を認めるか認めないかという正反対の考え方で、スタヴローギン自身は、シャートフとキリーロフの二人に別々に思想を教えている。揺らぎを楽しみ、分断統治のように掌でころがしているかのように。
これが後の内ゲバ殺人のもとになっていきます。
こうして、混沌としたロシアを変えようとする革命家たちによって、これまでのロシアを壊す破壊運動へと発展していきます。その頭目が、スタヴローギンを崇拝しているピョートル・ヴェルホヴェンスキーであり、さらにその実行部隊が、各地にあるとされる五人組(リプーチン、ヴィルギンスキー、シガリョーフ、 リャームシン、トルカチェンコ)であり、別動隊のような流刑囚フェージカがいる。
結局は、転向したシャートフは、裏切り者として、ピョートルの指揮のもと五人組に殺されてしまい、その罪をキリーロフは自己の思想の完成のために、一身に背負いピストル自殺をしてしまいます
ひとつは、愛にたいして。
美しく、全能のスタヴローギンは女性たちを魅了する。しかし、彼に人を愛する心はない。あるのは、心を弄ぶ快感や偽りの慈悲深さを示す高揚感。その本質は傲慢そのもので、多くの女性たちが、翻弄されていく。
どうしてスタヴローギンという悪魔のような人間が存在するのか。
社会の大きな矛盾が、この若き貴族の心を大きく変えたのか、それとも、もともと悪魔が棲んでいるのか、それはわからない。スタヴローギンは奇怪な行動を繰り返し、醜聞沙汰になり、精神的な病だと診断され、旅に出る。全ヨーロッパを巡り、ギリシャの島々、エジプトやイスラエル、アイスランドまで巡って、ある意味、自分探しの旅をする。
そうして四年ぶりに、町に帰ってくる
この旅の背景にあるものは一体、何だったのか。その決定的なもの。後にわかることだが、「告白」のなかで赤裸々に語られるマトリョーシカという少女への凌辱だった。
ドストフスキーは人間に潜む悪の性質を、読者に衝撃的に伝えるために、このおぞましい出来事を描きたかったのだろうか・・・。人間の内面に迫る鋭い筆致で、読むのが痛ましいと同時に、その悪魔性が露にされていく。
仮面をかぶったスタヴローギンのその下の素面が現れるのが、「チーホンのもとで」の章に収められた“スタヴローギンの告白”です。
その内容から掲載を禁じられ、後の時代に日の目を見たという問題の箇所。そこには悪魔の所業を証明するエピソードが綴られます。
この部分は、神がチーホン僧正の身体に宿り、悪魔がスタヴローギンの身体に宿り、つまりは神と悪魔が闘っているかのようです。
チーホンは言う「完全な無心論者は、完全な信仰に至る一歩手前の段階に立っているが、無関心な人間は、愚かしい恐怖心の他にどんな信仰も持っていない」と。
この“無関心な人間”とは、スタヴローギンを指している。
その意味が、『ラディアにある教会の天使にこう書き送れ』という聖書のなかにある。
<私はあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ冷たいか熱いかどちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、生ぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている>
という部分。
チーホンは、スタヴローギンが生ぬるい存在であるとしている。熱血であれ、冷血であれ、人間の情念による過ちであれば、神の救いがあるが、「生ぬるい」つまりは、感情も、感覚も、感動もない、そんな人間は、神の救いの手立てがない。
『悪霊』の作品のなかで、主人公とされながら、いまひとつそのキャラクターがつかめなかったスタヴローギンという人間の性質が、この「告白」で露(あらわ)になっていく。
人間としての感情の喪失、サドやマゾの感覚、唆しを楽しみ、悲惨な結末を予期しながら黙って見過ごすという非人間性。
さらに、その意識を自制したり、調整したり、演じたりでき、罪の責任は、環境のせいでも、病気のせいでもない。つまり、スタヴローギンは自分の精神は正常と考えている。その頂点となるのがマトリョーシカとの出来事です。
その内容は・・・
ある時、スタヴローギンはアパートの部屋でペンナイフを失くした。隣には家主である町人一家がひと続きで住んでいたが、手狭なので部屋の仕切りのドアを広げていた。母親は、14歳になる娘のマトリョーシカが盗んだと早合点して折檻した。
ところがナイフはスタヴローギンの勘違いですぐに見つかった。それでも、その事実を伝えることなく、スタヴローギンはマトリョーシカが折檻される様子をずっと見続けた。
問題の箇所に、入っていく。数日がたって、心が傷ついているマトリョーシカの手や足にスタヴローギンはキスをする。マトリョーシカは、最初は笑い出し、そして怯え、恥ずかしそうに真っ赤になった。それから、突然、スタヴローギンの首にすがり、キスを浴びせる。すべてが終わるとマトリョーシカは狼狽し、おどおどしはじめた。 スタヴローギンにはマトリョーシカの顔が愚かしいものに見えてくる。
こうして、文章は少女の凌辱を想起させる。
ここでマトリョーシカは、自分は「神さまを殺した」と思った。
この意味は、マトリョーシカが自身の意思で「死に値するほどの罪」をおかしたことの自覚で、自分からスタヴローギンの誘惑に身を任せたと考えている。
ここまでくると、人間自体が原罪的な意識に覆われており、これを止めることができるのは、ただ分別だけが頼りとなる。
翌日、スタヴローギンはマトリョーシカと目を合わせる、彼女は、恐怖にかられているようだった。スタヴローギンは、マトリョーシカが人に言わないかと心配になり、自殺も考えたが、できなかった。さらにマトリョーシカが笑っていたことを思い出すと、今度は、彼女を殺そうとも考えたりした。
ドストフスキーの手による人間の極限の心理の描写だ。
善悪の基準もなく、相手を思う気持ちもなく、ただ自分の気の赴くままに、行動を起こし、そのことを自分の性質として肯定している。“傲慢”以外の何者でもない。
外見上は、非の打ち所がない人間に見えていても、内面は悪魔にとり憑かれている。
ドストフスキーは、この男を『悪霊』という作品の最上位に置いた。超人的な存在で、神に似ているが、実は、悪魔そのもの。その悪霊の伝染のもとで、革命も愛もすべて、つまりは人間の精神が翻弄され破壊されていく。
マトリョーシカは精神を病んだ状態になる。数日後、スタヴローギンが、彼女に部屋で会ったときに、マトリョーシカがスタヴローギンに向かって、顎をしゃくり小さなこぶしを挙げて非難をする。
まだ分別も出来ていない無力な生き物の惨めな絶望!
もっとも無力なものが、もっとも傲慢なものに、対峙している。無垢が汚れ、無邪気だったものに、その悪魔性を見破られてしまっている。
そして、マトリョーシカは、自分の罪を罰しようとする。
マトリョーシカは部屋を出て外の納屋に入っていく。スタヴローギンは、マトリョーシカのその後の行為を予見し、すべてを確認したのちに、部屋を出ていく。後日、予想通り、マトリョーシカは首を吊って死んでいた。
これ以降のスタヴローギンは、マトリョーシカの幻覚が現れ、生きていくのが苦しくなっていく。あの、顎をしゃくり小さな拳をあげていたマトリョーシカが、脳裏につきまとい、スタヴローギンの前に現れる。
これはスタヴローギンの敗北を意味しているのだと思います。
当時、雑誌掲載の形で悪霊は発表(1871年1月号から1872年12月号)されますが、この箇所は削除されます。私たちが現在、確認できるこの部分は3種類あるそうです。
ひとつは、雑誌社から送られてきた「初校版」(1906年に作品集のなかで刊行)、そして、その初校版にドストフスキー自らが加筆や削除をした「ドストフスキーの訂正版」(1921年に発見)、さらに没後に夫人のアンナが清書した原稿「アンナ版」(同じく1921年に発見)です。
私は、「ドストフスキーの訂正版」(1921年に発見)が真に迫った感じがします。
ドストエフスキーにとって、この“スタヴローギンの告白”は、作品の中心部分です。しかし、モラル的に危険で狂気に満ちたものとの理由で、当時は削除されました。
逆に言えば、作家の命がけの人間精神への深い洞察です。この「告白」を読むと、絶望的な感覚に陥ると同時に、“人間という生き物”の悪魔性を認めざるをえません。
スタヴローギンは、この「告白」を発表することで、世間と対峙しようと試みます。チーホンは、世間への告白はスタヴローギンの「死」を招くことを予見します。
つまり、この「告白」は「死」を伴うというのです。それは生命体としての死と共に、人間存在の全否定の意味でもあります。
だから、多かれ少なかれ、人間は過ちを犯したときには、後悔のもとで、懺悔や改心をして、沈黙しながら生きていくのでしょう。
スタヴローギンはチーホンに、悪魔であることを見破られてしまうわけです。
しかし、スタヴローギンは変わることができない。多分、自身を憎み、生き続けることが困難であると同時に、生きることに絶望したのでしょう。
この男の悲劇は、自分が生きるに値しないことを知ってしまったことです。
チーホンが指摘したように、この告白は、恥ずかしいことであり、滑稽です。
つまりは分別の無さが、愚かで、万人の笑いを誘ってしまうのです。もちろん、その笑いとは嘲笑です。
そうなれば、スタヴローギンは生きながら死んでいるのと同じです。
スタヴローギンに魅入られた人々は、死んでいった。革命を起こそうとした人々、愛に翻弄された人々。しかし自分はまだ生きている。そして最後にダーシャに手紙を送ります。
ダーシャこそが、スタヴローギンを許すことのできる天使だったのでしょうか・・・。ウリー州でともに、暮らすことを願いながら、それは実現しませんでした。
他者から、笑われることに、自意識の高い、傲慢なスタヴローギンは耐えきれず、「すべては、自分の責任である」として首を吊ってしまいます。
存在が許されず、自死しかない。スタヴローギンは、死に際して、自身の正常さを証明するかのように、ロープに念入りに石鹼をこすりつけます。
医師たちは、完全に、かつ頑強に精神錯乱を否定した。とあります。つまり、正常な人間の判断だったということです。
スタヴローギンは、悪魔です。その悪は、悪霊として老若男女、社会に憑依していきます。神の許しを得ることもできない。・・・となれば、存在を無にするしかない。縊死は、スタヴローギンが自らに下した裁きです。
ドストエフスキーは、人間の奥深くに潜む悪魔的なるものを赤裸々に描きました。
それは、死をもって自身にけりをつけるしか選択はなかったのです。
しかし、スタヴローギンを産んだものは何だったのか、それは、当時のロシア。カオスとニヒリズムの空気そのものが、原因だったのでしょう。
結果として、歴史の上では、革命は止まりませんでした。
神を殺してしまった人間たちが行きついた先が共産主義。暗黒の時代を経て、現代のロシアはその民族性や地政学的な特色もありツァーリ(皇帝)のような権威主義ながら、正教や民衆を大切にする強い主権国家となっています。
ドストエフスキーの描いた『悪霊』の中心となったスタヴローギン。これは、突然変異なのでしょうか。
実は、いま西側の先進国にこそ、悪霊が蔓延しているのかもしれません。
私は自由や民主主義を唱える自由主義陣営のなかで、そのエリート層のなかに多く伝染していると思うのです。きっと日本も例外ではないでしょう。
その悪魔性が、世間から大いに嘲笑されている現実を、もっと恥じ入り自覚するべきではないでしょうか。
そうしないと、人間社会は破滅してしまいます。





