ドストエフスキー『悪霊』解説|空想か現実か、ステパンの思念!

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1849年、空想社会主義の思想に心酔した、若き日のドストエフスキーは逮捕され、シベリア流刑を経て約10年後に帰還します。皇帝アレキサンドリア2世は、西欧の近代化に追随するため農奴解放(1861年)を行うも、信仰を失い拝金主義に向かうロシア社会は混乱していきます。20年後の1869年に起きた革命組織の内ゲバ殺人、ネチャーエフ事件はドストエフスキーの眼にどう映ったのかでしょう。

進歩的な思想による暴力革命への機運とロシア民族によるスラブ主義が錯綜する中で、50歳を過ぎ老境を迎えた作家は、新たな時代の変化に世代の断絶を思う。

悪魔が生まれ、悪霊が伝染していくなかで、革命を否定し、ニヒリズムを超えて、正教(キリスト教)のもとでロシアの民衆と大地の融合という考えに辿り着こうとする、その過渡期でもあります。

この動画では、世代間の意識差、親子の断絶、思想の過激化を背景に、かつては若者たちの先達で、今は老いさらばえたステパンを中心に考えてみました。

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『悪霊』は、暴力革命を批判しています。たくさんの登場人物が悪霊にとり憑かれ、死んでいくという悲惨な物語です。そのなかで、文化サークルの古参として、パトロンである資産家のワルワーラ夫人の庇護のもと、気ままに暮らすステパン・ヴェルホヴェンスキー氏。

年齢は52歳、ひと世代前の自由主義者で、大学で教鞭もとったこともある、ロシアの思想界をリードした知識人。今では、社交界のアクセサリー的な存在です。

このステパン先生。悪魔と化したニコライ・スタヴローギンの幼いころの教育係であり、革命運動の頭目であるピョートルの父親です。ワルワーラ夫人の養女ダーシャや夫人の友人の子女リザヴェータ、その他シャートフなどにも勉強を教えてきた、偉い人で、謂わば、若者たちの師です。

ステパン先生のもとで次世代が育ったというところでしょうか。

しかし今では時代に取り残され、ユーモアを交えたよた話とカードと酒を楽しむ日々。若者たちからは、すでに終わった人との非難を浴びながら、かつての教え子たちの世代が起こす社会運動を傍観しています。

話は少しそれますが、エマニエル・トッドの『西洋の敗北』(2024年文芸春秋)を読んでいて思いました。

トッドの定義する<広義の西洋>には、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ドイツ、日本が含まれます。日本もアメリカの保護国として含まれているようです。これには驚きですが・・・。所謂、西側諸国という意味でしょうか。

しかし<狭義の西洋>となると、自由主義や民主主義の革命が起こったかどうかの視点となり、イギリスの「名誉革命」(1688年)、「アメリカの独立宣言」(1766年)、「フランス革命」(1789年)とのことで、この3か国だけとのこと。残りの国は、この3か国から思想が伝搬したことになります。

そして、21世紀の今、この西洋が終焉に向かっているというのです。

さらに主権を持っている国について。この主権の定義は、内外を問わず、自国で決定できる状態を指し、その観点では、アメリカと中国とロシアだけと言います。なるほど・・・と思います。

トッド氏自身が、人類学者なので、地政学や人口動態や家族システムの違いを分析、さらに細かく、共同体か核家族か、宗教、とくにキリスト教ープロテスタント、カトリック、正教ーの影響など興味深いものがありました。

そんな思いで、『悪霊』という作品に触れると、近代化を急ぐために、西洋の思想(自由や民主)を取り入れた革命運動か、それともロシアの民衆のなかへというナロードニキ(農民の啓蒙)運動か、このふたつのなかで、揺らぐ19世紀末のロシアをうかがうことができます。

この後に、ロシアは、西洋の自由主義や民主主義の革命ではなく、世界で初めての共産主義の革命に到ったわけです 。

ソビエトは宗教を否定しましたが、崩壊から新たなロシアへと変貌するなかで、ロシア正教が重んじられます。これは信仰心の復活でもあります。私はドストエフスキーが描いた社会に、最も近いものが現代のロシアではないかと思うのです。

ツァーリに匹敵するプーチンは権威主義的ですが、共産主義とは異なり、半大統領制の連邦共和制国家であり、正教を保護し、同時にどこにも屈しない武力を伴った主権を有しています。

作品の当時は、観念的な空想社会主義(フーリエ)から、理性的な科学的社会主義(マルクス)へと移行する過渡期です。そのためには、暴力も辞さないという革命運動の考え方です。

『悪霊』という作品は、西欧派のインテリゲンチャによる無神論的革命思想の道へ向かおうとする時代に、世界同時革命をもくろむバクーニンから信頼を得たロシアの革命結社 “人民の裁き(人民裁判)”を率いるネチャーエフをピョートル・ヴェルホヴェンスキー、その下に5人組(リプーチン、ヴィルギンスキー、シガリョーフ、リャームシン、トルカチェンコ)を配し、思想の転向をはかった裏切り者として内ゲバで殺害された仲間の大学生イワン・イワノフをシャートフとして、戯画化されています。

また県知事レンプケーとその夫人ユーリアの諍い。レンプケーは当然ながら、旧態の秩序を維持するために日々、奔走します。夫人の方は、若者たちを支援しているつもりですが、その実、策士であるピョートルの掌で踊らされ暴力革命の片棒を担がされていきます。

ついに、工場労働者の暴動や火事による騒乱、フェージカという流刑囚による殺人など、町は大きく混乱していきます。

何かにつけて息子ピョートルとぶつかってきたステパン氏ですが、疑いをかけられ、家宅捜索まで受けることになり、県知事からは革命運動の温床と言われます。

ステパンの考えは、社会主義という思想は偉大だが、それを伝道している人間が駄目、という立場です。運動の先頭にたっているのが息子のピョートルであり、ピョートルが神のように崇めているのが(ニコライ・)スタヴローギンです。

スタヴローギンは中央の組織から送られてきた要人と噂され、ピョートルは、この町の革命活動の首謀者です。スタヴローギンの母親で資産家の未亡人ワルワーラはステパンとは20年来の付き合いで、その友情は、ときに恋愛に発展するタイミングもありましたが、結局は、プラトニックのまま。このことが、ワルワーラの恨みとなり、二人の関係を最終的に決裂させます。

ワルワーラ夫人は、養女のダーシャがニコライ(・スタヴローギン)と結ばれるのを妨害する意図で、ステパンとダーシャの結婚話を持ちかけるも、しかしスイスでのニコライとダーシャの関係が疑られ、結婚はご破算になる・・・、

とまあ、様々な人間関係が入りくんで、革命と恋のはざまで、からみ、もつれあい、ポリフォニーの手法のなかで、悲喜こもごもの人間喜劇にもなっています。

ステパン先生はユーリア(県知事夫人)の主催する祭りの日に依頼された講演会で、「現代に生きる若者たちの熱狂は、私たちの時代と同じように純粋で光輝けるものだが、変わったのは、捉える美の感覚の違いだ」と、言います。 芸術や文学などの観念の美を強調します。唯物史観の否定でしょうが、しかし・・・

ステパンが15年前に、カードの借金のかたに農奴フェージカを売ったことが糾弾されます。その後、脱獄囚となったフェージカは、強盗や殺人を犯して世間を騒がしています。聴衆は、その責任をステパンに問います。

自由な社会を目指しての農奴解放政策でしたが、土地を持てない農民は貧しいまま都市に流れ出す。拝金主義の時代となり、人心は乱れ、治安は悪化し、混乱を極める。当時のロシアに生きた人々すべてが、さながら悪霊に憑かれた状態です。

ステパンは、絶望と自責の念で、町を永遠に去る決断をします。

物語の最後、一人、あてもない放浪の旅に出るステパン。途中、百姓夫婦に馬車に乗せてもらい、寄合い所で、農民や町人と語らいます。

そこで出会った福音書売りの女性ソフィア。信仰に厚く、優しく接されて、彼女への思いを深くします。ステパンは、まるで恋する少年のように・・・、

「許すことの大切さ。なぜなら、誰もが、お互いに対して罪があり、その意味では、みんな、罪があるのだから・・・」と、語り掛けます。

こうして普通のロシアの民衆たち、まさに土の匂いのする人々の情けに触れ、「街道にも、気高い思想がある」ということを知ります。

ステパンは、「ルカによる福音書」の箇所をソフィアに朗読をお願いします。

ここが作品のエピローグの解釈になっています。

<ルカによる福音書(第8章32~36)>

「『ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事を見ようとしてやってきた。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足元に座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、 悪霊にとりつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた』」

 ステパンはこの意味を伝えます。

そう、これはまさしく僕たちのロシアそのままじゃないかって。病人から出て、豚の中に入る悪霊ども、これはね、何世紀、そう、何世紀にもわたって、僕たちの偉大な愛すべき病人、つまり、僕たちのロシアに積もり積もった全ての疫病、すべての病毒だし、ありとあらゆる不浄の輩だし、ありとあらゆる悪霊どもだし、その子鬼でもあるんです!

(そう僕がいつも愛してきたロシアなんです)でも、大いなる考え、大いなる意志は、悪霊にとりつかれた人たちと同じでいずれ、僕たちのロシアを上から覆い尽くしてしまい、こういった悪霊どもや、不浄の輩や、表面が膿みただれたおぞましきものすべては・・・自分から、豚の中に入れてくれと懇願することになります。

いや、ひょっとして、すでにもう入っているのかもしれない!これはぼくたちなんです、ぼくたちであり、あの連中なんです。息子のペトルーシャ、(そしてあの子と同類の輩)です。 

ぼくなんかは、ひょっとするとその先頭に立っている親玉かもしれないんです。

ぼくたちは正気を失い、悪霊に憑かれて、崖から海の中に飛び込み、全員が溺れ死んでしまう。それがぼくたちの道なんです。なぜって、ぼくたちにできることはそれくらいのことですから。

でも、病人は病から癒え、『イエスの足元に座る』ことになり・・・みんなが驚きの目を見張る・・・あなたもいずれわかることです、いまぼくはほんとうにわくわくしているんです・・・(あなたもいずれわかる)(ぼくたち、一緒にわかるようになります。)

こう言って意識を失います。ステパン先生は、熱病におかされ、死の間際で、思想の危うさ、狂信的な熱量で暴走し、人々を死に至らしめるさまを、悪霊に取り憑つかれた状態だと悟ったのです。

うわさを聞きつけてワルワーラ夫人とリーザもやってきました。

少しだけ意識を戻したステパンは、「もしも神が存在するならこの僕も不死なのです」と信仰を、告白をします。正気になってイエスの足元に座ったということなのでしょう。

そして同時に・・・

みなさん、みんな、みんな、偉大な思想、万歳!永遠の、はかりしれない思想、万歳! 人間はだれでもすべて、偉大な思想を体現するものの前でひれ伏すことが必要なのです。どんな愚かな人間にも、何かしら偉大なものが不可欠です。ペトルーシャ・・・ああ、あの連中全員とまた顔を合わせたい!あの連中は知らずにいる、知らずにいるんです、彼らのなかにも、ひとしく永遠で偉大な思想が宿っていると言うことをね」

こう語って、ステパンは死んでいきます。

この偉大な思想とは、キリストの教えなのか、革命の教えなのか、とにかくも、人間が光あるところへ導かれたいとする性質、人間性の肯定です。

神の教えを無くせば何も成り立たないことは、確かにその通りです。しかし、神は無力だと感じたときに、人間がよりよいと考えたことも尊重されなくてはならない。

人間は、神ではない。それでも、他者を許す寛容の精神を持つことはできます。老いるとは、その意味で、素晴らしいことかもしれません。

しかし、後のロシアは、ドストエフスキーの造り出した5人組の一人、シガリョーフの唱えた思想のように・・・。つまり、選ばれた1/10の選民と、残り9/10の家畜との支配構造となり、全体主義の方向へ向かっていきました。

それから100年後の日本、1960年~70年にかけての安保運動。その発端は、現在の東京都立川市(たちかわ)に駐留していた在日米軍立川飛行場の拡張に反対した闘争、砂川事件(砂川紛争1957年)だったと思います。

当時の若者のなかには、正義や愛国の想いがあったのだと思います。激しい怒り、それは時代の熱量でしょう。やがて学生運動へと広がっていき、その狂気は暴走します。ついに出口を見失った果てに、連合赤軍は自己批判と総括の名のもとに仲間を粛清します。目を覆う群馬県榛名山でのリンチ殺人事件(1972年)がニュースで伝えられ社会を震撼させます。

民族や人種、階級や貧富の差など人間社会の問題は尽きません。世のなかを良くしたいと思う使命感は素晴らしいものです。しかしファナティックに、狂信化した思想や観念は要注意です。暴走し、やがて社会の破壊者となっていきます。

ドストエフスキーは、混沌に覆われたロシア社会を、悪霊に憑かれた状態と見たのでしょう。

友人に宛てた手紙のなかで、「友よ、明記してください。自らの国民と国民性を失うものは、祖国の信仰と神をも失うことになるということを。で、言うなれば、これが私の小説の主題に他ならないのです。それは『悪霊』というタイトルを持ち、それらの悪霊たちがいかにして豚の群れの中に入って行ったかという物語なのです」と綴っています。

ステパンに投影されたドストエフスキーは、若い日には空想社会主義に傾倒します。それは、理性と幸福とに輝く王国を建設するというもので、これが、皇帝への反逆という理由で、銃殺刑の恐怖を味わうことになります。しかし、そこには貧しい人々に寄り添う視線があり、理想国家を建設しようという使命を感じたのでしょう。シベリア流刑を終えてからのドストエフスキーは、深くロシア正教のなかにあり、ロシアの民衆と大地のなかで、神に導かれる国家建設を考えたのでしょう。現実には、1890年、皇帝アレキサンドリア2世は暗殺され、1917年にロシア革命がおこり、ここにロマノフ王朝は滅亡します。

物語のなかのステパン先生の人生は何だったのか。

この老人は、若者から否定されています。世代の断絶です。彼は若きころの熱量を失っています、夢想家として馬鹿にされ、今は、存在すら否定されています。

しかし、若いころの理想や憧れは、間違いで無意味だったのでしょうか?

私はそうは思いません。狂気をはらんだ思想。その行き着く果ては、何処なのでしょうか?

人生は常に危機と背中合わせの部分があります。結果として生きてきた人生は、平行棒を持ちながら、崖にかかった一本の綱を渡るような、平衡感覚を必要とします。

死の間際にステパン先生がみせた寛容の想い。確かに、それは老いた人間の戯言かもしれません。しかし是非ではなく、人間は老いるとそうなることが多くなるという事実に対して、それも悪いことではないと思うのです。

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